2013年5月25日土曜日
恨みを抱える食口に対して
ブログの中には、御父様の心無いと思われる言動を、これでもかこれでもかと言うほどに暴き続け、食口の良心的道徳的な裁量を刺激して御父様へ向かう気持ちを殺ごうと必死だ。確かに御父様の言動には、その真意を測るまでもないと思えるほどに、これが聖人の言葉であり指示命令かと言うようなのも多々ある。特に日本の食口に対しては、韓国をはじめ他の国の食口が同情をも超えて、そのあまりの差別や虐げを不思議がるほどに厳しく接しられた。確かにそれは理屈で理解できる範囲はとっくに超えている。そこに御父様の愛の見えない寂しさを覚え、更に恨みにまで発展し、全てを捧げて侍ってきたにも拘らずその見返りがただ足蹴にされ血の一滴まで絞り取られるままだと感情するなら、反動として言葉尻の全てを暴き出してやると思えたとしても理解できる部分もある。その元食口達の行動を批判はできても、感情的に批難することは私にはできない。こう言う説明をして彼等を説き伏せられるとは思ってもいないが、それでも敢えて言葉を挟むなら、それでも御父様は真の愛の御方だと伝えたい。真の愛の説明に、真の愛とは神的な愛だというみ言葉が何処かにあった。前にも書いたことがあったが、御父様はこの世的な印象からすればヤクザの親分そのままだ。任侠世界をどの程度知っているかわからないが、師弟の杯を酌み交わせば、どれほどどやし付けようが、徹底的に睨みを利かし反抗する気力も無いほどに痛めつけようが、完全否定して尚、親父を求める衝動を子弟の中から引き出していく。そうして湧く親父への衝動は本物だからだ。親父の為に生命を投げ出せるほどひとつになる。それが、杯を交わせば血よりも濃い繋がりができるという所以だ。それは確かに心情の因縁だ。御父様が真の愛の御方であり、私との関係をそれよりも濃いものとしたいと思われれば、それ以上に私を否定して否定して、骨の髄から御父様を慕う想いを引き出したいと思われたはずだ。日本の食口を締め付けるだけ締め付け、何倍もの実績を要求され、逆上したかのように声を荒げ怒気を強めて、頭ごなしに打ちのめす。御父様は憐憫の情を断ち切るために敢えてそのように行動されたように思える。私もそのような場面に居合わせたこともあり、またあまりの激しさにマイクの鉄の台を投げられそうで身を屈めたこともある。でもそういうときの御父様の目を私は知っている。どれほど孤独で寂しい目をしておられるか、、。裏でどれだけ悲痛の涙を流しておられるかをその目が語っている。確かに日本の食口は痛めつけられたのかも知れない。体を犠牲にすることを強いられ、心魂を犠牲にすることを強いられた。しかし日本食口の心魂を徹底的に否定されながら、霊的に生きるものを引き出そうとされた。御父様は日本の食口に対しては本当に真の愛の御方だ。この世的愛ではなく、心の安らぎを与える愛でもなく、神的な愛、真の愛で日本の食口を愛された。確かに責任者は、御父様のその想いを食口に伝え切れなかった部分があったことは否めない。心魂も心霊も幼ければ、御父様の言葉や指示を形だけ伝えればどうしても誤解を産んでしまいかねない。御父様の真意を伝え切れなかったという意味で、私も含めて先輩食口は御父様を批判する彼らを批難する前に先ず悔い改めなければならないだろう。
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