2013年5月19日日曜日

今日の想い 568

掃いて捨てるほどの思想や主義があるどころか、個人主義であれば人の数だけ思想があると言える。思想と言えるほどの洗練されたものではなくて、只の嗜好に過ぎないのだが、、。自分に取って気分がいいか悪いかが最も優先事項であり、要するに堕落的感情が優先されてそれに合う考え方を取り寄せている。食口がみ言葉に対するとき、み言葉を絶対としているようで実のところ自分の感情を満足させるものがあるはずだと踏んでみ言葉を信じている。それは絶対信仰ではなく、堕落感情に基を置いている。自分の地情意活動の舞台、すなわち心魂が私であり私の存在根源であるという我気付かない認識から離れられない。心魂の深みに霊があることを気付かないという、唯物論者ならず心魂論者だ。御父様が強く私達食口を非難されたように、心魂を霊だと認識している者達が余りにも多い。心魂を霊だと思っている我気付かない心魂論者がみ言葉の真意を曲解してしまう。自分の中に良心が立っており私はその良心の声に従う、と言うのも霊を把握できない心魂論者ならではの言い分であり、御父様が霊的精神的な意味での良心を自分の道徳的なものとして貶めている。そうなると御父様の隠されていた事実や御家庭の問題を不快に思い、御父様にすら不信感を抱いてしまう。あるいは、御父様も間違いがあったがそれでも取り敢えず付いて行くという、絶対信仰ならず相対的信仰になってしまう。心魂を越えて、霊的なもの、精神的なものを受け取り、また経験するのでなければ、御父様に向いてはいない。今の信仰的気分など、堕落世界というぬるま湯に浸かっていれば只の自己満足に過ぎず、サタンは鼻にもかけない。環境を少し変えてしまえば信仰的気分などひとたまりもなく、御父様を本質的に受け入れてはいなかったと思い知る。その時の落胆、自己の全否定、抱えきれない焦燥感を想像できるだろうか。心魂ステージに留まって霊の認識に至らない者達は、一体何を言いたいのかと相手にもしない。

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