2013年7月27日土曜日

今日の想い 599

心情は感情ではない。同じ情的様相ではあるけれども、感情は堕落的因縁からきているのに比べ、心情はその基を天に置く。神様の情的な部分がその出所であって、霊を心魂と混同できないように、心情も感情と混同してはならない。自分が堕落的因縁の表れであり、自己に執着し続ける、すなわち自己中心の位置でも感情は湧き続け、人間的様相として表出される。しかし心情は自分が堕落的因縁の表れのままでは受け取れない。自己に執着し続ける限りは心情は関与しない。堕落圏に身を置く人間の位置からするなら堕落圏を越える、すなわち闘わずしてはそのままで心情は受け取れない。心情は闘って勝ち取るものだ。内的霊的世界に於いて闘いもせず、心情という神様の情的な部分に接することはできない。心情は決して安楽な位置で受け取れるものではなく、身をそぎ骨を削りながら、自分との闘い、為に生きる闘い、愛する闘いでサタン圏の砦をひとつひとつ崩し、勝ち取り、そうして受け取っていくものが心情だ。私が感情的存在のままでは、どれほどみ言葉に接するとしてもみ言葉の本質的部分は目を通す端から素通りしてしまう。み言葉を霊的生命が息衝くものとして受け取る為には、心情を尋ねる姿勢、すなわち闘う姿勢でこそ霊的生命という本質に近付くのであり、それは自己否定、私と言う感情存在の否定なくしてはありえない。何度も自分自身に念を押し続ける。心情は感情ではない。感情として波打つものを生きていることの実感とするのではなく、心情として受け取るものこそ私を本質の生、真の生命に繋げてくれる。心情を受け取れば活きるのであり、感情が波打つ状態は霊的死の状態だ。

今日の想い 598

恋愛感情というものがある。「あなた達は好き勝手に手紙のやり取りなんかしてきたんだろう。御父様は気持ち悪いや。」その言葉に言い表されているように、御父様は恋愛感情からくる衝動を善と認識してはおられない。恋愛に留まらず人間にはありとあらゆる感情が波打っている。感情は快不快に分けられるが、どうして自分は快い気分として感情しているのか、あるいはどうして不快な気分として感情しているのか、表面的に生きる人間はそれが自分という存在の素直な表現だと信じて疑わないが、概して感情として表出するものには自分の思考や願いは反映されずに独自的に表出する。自分が意志してその感情を味わっているのではなく、抗えないものとして噴き出してくる。恋愛感情なるものは特にそうだ。どうしてそんなに惹き付けられるのか本人にもわからない。られるのであって本人の意思ではない。人間それぞれの感情の在り様は背負って生まれるカルマからきている。カルマという言葉を使うと引かれそうだが、生まれながらに背負っているものは罪だけではなく善悪の因縁の部分もあるからカルマという言葉が的を得ている。男性が女性を求め、女性が男性を求めるそれ自体は本然としても、そこに感情という前世のカルマからくるものを動機として求めてしまうと、堕落血統の因縁からわかれることはない。恋愛感情は麻疹にかかったと言うように病の扱いであって異常な気分である。それは自分ではどうしようもない感情であり、それがどこから来たのか本人はわからないが、過去生の因縁から来ていることは間違いない。御父様が初愛という言葉を使われるのは恋愛感情やその衝動からの横的愛を言っておられるのではなく、天によって相手を決められ祝福を賜って初めて交わる愛のことを初愛と言っておられるはずだ。そうなると恋愛は何処までも祝福とは異なり、父母によるマッチングが為されて祝福を受けるのであり、二世であっても恋愛によって、すなわち因縁によってお互いがひとつになり家庭を出発し、それから祝福を受けるならそれは既成家庭祝福であって二世祝福とは異なる。地上に於いてのその差はわからなくても霊界においては明らかな位相の違いがそこにある。祝福二世であっても皆が皆御父様のつばき圏内に留まるわけでもなく、いろんな霊的階級が愛の位相としてわけられる。だからと言って御父様に最も近しい者だけが天国で、あとは切って捨てられて地獄に蹴落とされるというものではないだろう。

2013年7月25日木曜日

今日の想い 597

すべてはバランスを取るように働いている。水平面の位置から波が起これば上にだけ振れるのではなく、水平面の下にも同じように振れる。水平の位置から上に振れて戻って、今度は下に振れてまた水平の位置に戻って1サイクルだ。1サイクル内に於いてバランスを取る。新月から上弦の月を経て満月となり今度は下弦の月を経て新月に戻る。これが陰暦の月の1サイクルだ。今私達は陰暦と陽暦、両方を使ってはいるが、陰暦が主体であって、よって陽暦に慣らされている生活や生活習慣を陰暦サイクルを基に置いて生活し始めると、陰暦とリンクしてくる身体の状態や陰暦とリンクしてくる心魂の状態もわかるようになってくる。その共鳴現象が身体や心魂を霊的なあり様に変えていく。訳のわからない身体の不調を訴えたり、暴れ馬のような心魂も、陰暦基調に合わせていくことで天との共鳴圏に入り、霊性を帯びて後天開闢時代に相応しい私に変化していく。陽暦に慣らされている現代人は、時間的にいうと御父様が言われるように主体と対象の関係が無い線上で生きている。過去から未来への時間軸を線として捉えて生きる陽暦は、天の本来のサイクルとは異なっている。陽暦だとほぼ1年365日だが、陰暦だと353、354、355日で閏月が入ると383、384、385日といろいろであり、非常にややこしくなるが、この天のひと月のサイクルに合わせることで、すなわち主体である大きなギアに合わせて回ることで霊肉一体圏に入っていく。陽暦も陰暦も1日のサイクルは同じようでも月のサイクルに合わせた1日なのか、365日を12で割った期間に合わせた1日なのかで1日の意味が違ってくることが理解できるだろうか。主体対象で成り立つ天宙がわかればその霊的意味がわかるだろう。そういう私自身も未だに陽暦基調にどっぷり浸かっていて、あくまで仮説としての考察でしかないが、宇宙の本来のリズムに合わせる為に陰暦基調にされたと思っている。イエス様の生誕の翌月が西暦元年となり、御父様は西暦2010年2月14日、天暦元年を宣布されたのであり、宣布されて数年後に聖和された。西暦はイエス様の霊的勝利基準を相続するリズムとして立てられ、天暦は御父様の霊肉の勝利基準を相続するリズムとして立てられている。奇数が主体であり次に来る偶数が対象であるから、ある一日が奇数なのか偶数なのかでリズムは変わるのであり、月のサイクルだけではなく主体の一日なのか対象の一日なのかが陽暦、陰暦によって変わってくる。自分の生まれた日を陰暦で知ることが主体的な位置かそれとも対象的位置で出生したのか、更に陰暦の何の月に生まれたかでどういう星のもとに生まれたか、それが無意識圏である潜在意識に刻まれた私を知ることになるだろう。それがわかるとバランスを取るために(蕩減のために)今生の意識圏でどういう使命があるのか、どうしてこういう人生を生きているのかがわかってくる。

2013年7月23日火曜日

人は妄想だと言っても、霊界はそのように動く。

先回霊感の話をしたが、霊感何々というものが将来的な経済活動の基になるという突拍子もない説をぶちまけた。実は清平摂理も、霊感何々がその原型にあると言ったら、私は批判の矢面にされるだろうか。祝福を通して原罪を消し去ると同じように、御父様から認知された商材を授かることを通して先祖の受けた恨み、与えた恨みを解いてもらう。霊感何々がそうであるように、清平摂理で先祖解怨献金、先祖祝福献金を差し出すことで先祖の恨みを解いてもらい祝福を受ける。同じことだ。何が同じかと言うと、祝福も霊感何々も、そして清平も、受け取るものを本当に受け取るのかどうかわからず、そこはどこまでも本人の信仰によるしかないということだ。兄弟の中には清平の霊界役事を信じない者も多くいるが、祝福も清平も同じように御父様が認知しておられ、そして祝福も清平と同じように本当のところどうなのかは本人の信仰次第だ。だから祝福は信じるけれども清平は信じないという兄弟の祝福と清平の違いをどう捉えているのかは私はよくわからない。いたって本人の好き嫌いの気分によるものでしかないように思える。信仰の正道を迷わず進む者は、今のように悪い噂もされ多くの兄弟が足が遠のく今でこそ清平参りをするはずだ。疑いを抱く者が多ければ多いほど、前と同じ清平参りをしたとしてもその行動で格段に信仰は立つからだ。霊界の注目度も格段にあがる。祝福はその前段階としてみ言葉を聞いて先ず論理的に祝福の価値を理解している。しかし清平摂理は思考に働きかける論理ではなく、太鼓が鳴り響きシャーマニズム的雰囲気に誘われ、特異気分を感情にもたらすものなので知的な者には受け付けない。だからどこまでも論理的に成り立つものしか受け付けないとなると御父様とのそれなりの距離を置き続けるのであり、全てを相続できる一体圏の境地に入ることは無く、父子一体の言葉ですら虚しく受け取っている。入り口がどうであれ祝福も清平も絶対信仰による以外はありえない。そして祝福が祝福としての価値を持つ為には受けた以降の歩みが重要であって、受けてしまえばそれで事足れりというものではない。同じように何代にも亘る先祖祝福も、受けた以降どう私という第一代を中心として先祖が関わりを持っていくかであり、先祖と共に地上でみ旨を歩む中で祝福を賜った歓びが時と共に次元を超える歓びになってこそ先祖祝福の価値は見出されていく。それは決して棚からぼた餅的な協助を待っている態度ではありえない。霊感の問題もその行動自体が問題視されているが、対象者が授かって以降どう関わりを持って繋いでいったかを問われているのであり、放置している以上一方的に救いへの道を断ってしまっている。それは讒訴されて当然のことだろう。御父様が言われたように、祝福を望む群れが列を為す状態を本当に見るようになれば、それはいくらでも祝福献金が教会に溢れるのであり、それに付随する経済効果は莫大であってそれは霊感経済と言っていいと思う。

2013年7月21日日曜日

今日の想い 596

どうして私の感情はこの胸の内に留まったままなのだろう。憤慨する感情も胸の内に留まっているけれども、感謝の想いもこの胸の内に留まったままでいる。この肉を溶かし皮膚を蹴破り、この感謝の想いを地上にも広げ、そして宇宙の果てにも届けられるほどに爆発すればいいのに、そう思っても、私の感情はこじんまりと胸の内に落ち着いて、決して沸点を越えて気化するほどの熱量になることはない。私の心魂の活動のひとつである感情が私の内側に留まる限りは、堕落の大気圏を越えて、神様の主管圏、真の愛の主管圏には至れない。この肉が、この皮膚が、崩すことが出来ない私の壁だ。感覚を通して外の景色を取り入れてはいるけれど、決して本質をこの壁が通すことはない。ありとあらゆる自己中心的概念で築き上げられたこの不落の壁。私のこの壁が、私のこの概念が恩讐だ。本質を見たいのに死の輪郭しか受け取れず、本質を聴きたいのに平面的に写された波動しか受け取れない。死の影を背負ったものばかりを取り込んで、天に昇華するものは反射して排除しているに違いない。おそらく感謝が軽すぎるのだろう。或いは感謝そのものが畏敬の念を備えた天に対する感謝とは別物なのだろう。感謝に霊的実質が備わっていない。それは私の置かれた環境が、まだまだ生ぬるいもので、地上的堕落的な在り様に安寧としていることを意味している。楽して神様にお会いし、楽して心情を取り込もうとしている。それは神様に会おうとしているのでもなく、心情を相続しようともしていない。神様ではなくこの世の神に会おうとし、心情ではなく或る堕落的感情に酔いしれたいだけだ。私は未だに堕落圏の中に留まり続ける。堕落圏に留まり続けることを敢えて欲している自分を否定できない。やがて熱くなり煮え滾って罪に苛まされるはずのこの堕落的ぬるま湯から、今の私は飛び出そうとはしない。それが私が正視しなければならない私の姿だ。それが私の罪そのものだ。

2013年7月19日金曜日

今日の想い 595

生活経済は平準化されるべきだし世界的に平準化の流れは止まらない。にもかかわらず弾けて当たり前のバブル経済も未だに弾けず、富める者はさらに富んでバブルの広がりを更に増している。風船はその許容量があってそれを越えると必ず破裂する。バブル経済もその許容量があってそれを越えると必ず破裂するはずだが、耐えに耐えているのかその広がりを恐ろしく増し続けている。人類がこんな状態をかつて経験したことは一度も無い。経済的には既に未知の世界に突入している。どんな経済学者も評論家も一寸先を見通せない。金や物の流れが社会生活の血流だけれども、世界へとその血流領域を増やす為に貨幣経済から信用経済へと発展してきた。しかし信用の遣り取りが侍儀的遣り取りへと、すなわち信用の裏には形あるものないものに拘わらず担保が存在しているが、この世的担保を望まない、更に言えば霊的なもの精神的なものを受け取れるものが担保となりうる経済へと経済の次元を高めて行く必要がある。そこで私達食口が関わってきた、批判の矢面にある霊感が実は信用から侍って用立てする経済、敢えて言えば霊感経済へとその次元を上げる。おそらく食口の誰もが汚点として認識し、自分にどう理解させ周囲にどう説明してよいものか取扱いに苦慮しているこのことが、後天開闢時代の経済の基になるだろう。信用の基に、金匠によって金債権という有りもしない金の額をさも有るもののように流通させたことが経済の発展をもたらしたように、信頼の基に確実に霊感が関与することを私は信じている。物情から人情、人情から天情と流れるように、貨幣経済から信用経済、信用経済から侍儀(霊感)経済へと流れる。ビジネスのあり方はイマジネーションビジネスからインスピレーションビジネスへと変貌していく。御父様は趣味産業の発展を見通されたが、趣味産業は内的な満足感、更には精神的な満足感を満たすものだ。そしてその産業に資本が投入されるとなると信用による見返りを目論んで投入されるのではなく、趣味産業によって人間の精神性が高められ、人格教育の観点から社会や国、人類への内的霊的財産が創造されるという観点で投入される方がその性格に合っている。そうなると会社の利益追求ではなく、よりノンプロフィットのNPO的性格を持った経済団体が主体になるはずだ。霊感がその批判を跳ね除けるほどの内容を持たせるためには、捧げた人達への永遠の生命への責任を負い、それを果たすべくテークケアーしていくべきだ。

今日の想い 594

根源である神様が二性性相であられるから全ての存在は二性性相だ。性相と形状、陽性と陰性、さらに存在様相も上と下、右と左、前と後ろ、二性性相だ。さらに二性性相は中心を求めて二性がひとつになろうとする。存在様相を空間軸から時間軸に移して見ると、過去と未来、先天時代と後天時代、空間時間を越えると、霊界と地上世界、生と死、と言うように次元を異なってもやはり二性性相の在り様で展開される。さらに過去と未来は現在を中心にしてひとつになり、先天時代と後天時代は真の父母が神様とひとつになられた基元節を中心にしてひとつとなり、霊界と地上界は神様とひとつになられた真の父母とひとつになった私にある中心を求めてひとつになる。人類の中心を求めてひとつになるとも言える。死は生からみた対極だけれども、生が偽りで出発しているから無という恐怖の死が対極になる。真の地上生からみれば死は昇華となり霊的生がその対極であり主体となる。私は真の父母とひとつになった位置でしか死を否定して昇華を受け取れないし、霊的生を受け取れない。霊人体を発見されたのは御父様だけれども、霊形体級、生命体級、生霊体級、それぞれの霊人体は様相が異なるし、霊形体級以前の霊は霊界に存在すらしていない。地上での動物は個として存在しているけれども、霊界では動物それぞれの種属の集合霊として存在し、一個一個の動物霊としては存在していないように、堕落によって万物以下に級を落とした霊形体級以前の霊は復活摂理を通さない限りは一柱一柱の霊としてすら存在できない。霊界に行ってアダムとエバという霊人が特定でき、カインとアベルという霊人が特定できるとするなら、旧約を通して霊形体級を復帰したのであり、新約を通して生命体を復帰したのであり、そして成約を通して生霊体を復帰することでそれぞれの様相を認識できる。霊人の復活摂理は地上に再臨協助することでしか為されないのであり、よって生霊体級の復活が約束される今の時代圏は全ての霊人が地上再臨し、善のベクトルへと協助し、或いは悪のベクトルへと協助することで結果的に善を際立たせる働きもする。よって善か悪かの振り子は大きく揺れて、善を指向するならとことん追求すべきであり、中途半端は所詮淘汰される。祝福中心家庭は善の位置で、それは何処までも善を追求することを願われるのであり、中途半端な位置、悪を含んだ善の立場は事ある毎にかき回されて、より善を指向して精神の高みを目指すように仕向けられる。食口は死の概念を克服して昇華の概念を受け取らない限り、何処までもより善の位置を指向するように求められることに疲れてしまい、天国の群れからは中途落第することになるだろう。

2013年7月18日木曜日

今日の想い 593

嗚呼ついに黄疸の症状が出たかと一瞬思った。食事を終えて窓から外に目をやると全てが黄色く見える。西日が傾きかけて次第に暮れかかっていた先ほどに比べて、その西日が逆に昇り始めたように明るくなった。明るくはなったけれどもいつもの陽の光ではなく、黄色い光が満ちている。丁度黄色い照明を宛がわれた舞台のように、外界が全て黄色く反射されて照らされていた。窓から見る不思議な光景にまだ自分の目が信じられず、外に飛び出してみた。私と同じように目を疑ったのだろう。娘も一緒に外に飛び出した。外に出て見た景色は子供の頃開いて見た童話絵本の景色そのもので、駐車されている車も、いつも見慣れている建物も、そして木々の一本一本も、すべてが絵本のような佇まいだ。ジブリの世界と言った方がわかりやすいだろうか。以前も西日の夕焼けの赤が、覆われた雲に反射して、外界全てがワイン色に染まった光景を見たことがあるが、おそらく今回も同じ原理だろう。広がった具合によって雲が反射する要素を持つようになるのか、地平線に沈む陽の光を地上側から受け取ってその雲の波長に合う光を反射させるのだろう。原理はともかく急に広がった異なる世界に佇むと、今までになかった感情が私の中に湧いてきて、それが内面に広がっていく。その時は何とも説明のつかない感情だったが、夜に床に横になって、覚めるでもない眠るでもない夢うつつ状態で再現された同じ光景、しかしそれは黄色ではなく間違いなく金色だった。金色の光が景色に満ちていて、建物のふちや木々の輪郭を金色の光が踊り煌めいていた。自然界は様々な色合いに彩られている。波長の違いが色合いの違いではあるけれども、色合いは霊的存在の表情だ。黄色や金色に輝く外界に変えた霊の存在がいて、自然の色合いに輝く金色を織り込んでいる。でもそこから先の深みにはどうしても入り込めない。金色の存在が思考に働きかけるものか感情なのか、それとも意志に直接働きかけるものなのかが見通せない。金色は富の象徴ではあるけれども、それは決して物質的な富だけを象徴してはいないはずだ。しかし富の象徴である金色に対して人類はかしずいてきた。未だ見通せない金色の波長が私の内面に届けられ、私はその本質を見届けようと、何度も何度もその光景の記憶を思い起こしている。

2013年7月17日水曜日

今日の想い 592

釣った魚に餌はやらない。その言葉から自己中心で無慈悲で愛のない態度を思い浮かべるが、一般的な意味での使い方はそうなのだろう。好きな相手を落とすまでは手を変え品を変え投入し続けて、それが結婚に漕ぎ着けると途端に手の平を返してしまうと言うことだろうか。それはもう離れることはないはずだと踏んでそうなのか、それとも一緒になってみて相手への関心を失い魅力を感じなくなったからそうなのか。おそらく手にした安心感から投入することも控えるから結局関心や魅力も失ってしまう。授受作用の観点からいうならそうだろう。釣った魚に関しては餌をやるどころか、釣った魚は食べて消化してしまう。御父様は釣りを重要視しておられたし、釣りの成果を復帰の成果として捉えておられた。御父様に取って釣りと摂理とは重要な関係にあったはずだ。教会では伝道を釣りに譬えられることもあったし、復帰された食口は釣りあげられた魚だ。教会をひねくれた目で見る者にとっては、教会と食口の関係こそ釣った魚に餌はやらないという状況そのものだと見るだろう。地上的にだけ見るならそれも当然だろう。献身とは身ぐるみ剥いで捧げ、身も捧げ、そして心魂も捧げる。形あるものないものに拘わらず地上的なものは全て捧げる。更に今に至っては御父母様や御家庭に対してイメージしていた聖なるもの、それは多分に自分勝手に描いたものも含まれてはいるが、それを否定されて尚捧げる私を要求される。教会への自分の信頼を裏切られるような事件や情報も氾濫していて、ああ結局私は騙されていたと結論づけてしまう。しかしそれはどこまでも地上的な事柄だ。み言葉をして霊界の知識はそれなりにあるとしても、しかしそれでも霊的無知を克服してはおらず、地上的には捧げることが霊的にはどういうことなのかがわかっていない。釣った魚は食べて消化される。消化されれば血となり肉となる。地上的には無残にも消し去られたように思えるが、霊的には血となり肉となって次元を上げて生きる。己が自己中心的存在であるから釣りあげられ、食べて消化されることが魚に取っては不幸に思える。私がより次元の高い精神存在の為に生きる存在であるという認識があれば、そんな私に消化される魚は幸福だと思える。私は神様に全てを捧げるなら、神様が残すことなく美味しく消化されるような、完全に消化されて新たな次元で生きることが私の願いだと思うべきだ。今の教会の現状をどう理解し、自分の中でどう消化すべきかを食口誰もが問われている。その理解や消化したものを今度は神様が消化される。美味しく消化されるのか、それとも不味くて吐き出されるのか、自己中心的な思考、感情、意志は、その在り様が堅過ぎて神様は消化できない。

2013年7月12日金曜日

今日の想い 591

愛は与えるけれども情はかけない。これが御父様が語られた御父様自身への戒めのひとつだ。ここで言う情は情けであって、人間的愛、横的愛を指して言われているはずで、そうなると愛は神的愛、縦的愛、真の愛を指して言われている。私達は様々な局面で縦的愛を優先するのか、それとも人間的情に流されるのかを問われてきた。献身するとき泣きつかれた母を敢えて無言で遣り過ごしたけれども、それは愛の試練として愛か情かを問われた最初の事件だった。そしてその都度、愛の試練はやってきた。子供の親に対する(地上的)愛は親の想いや涙を犠牲にすることで御父母様に対する子女の愛へと昇華され、夫の妻に対する(地上的)愛は妻の体の不具合を憂える想いや涙を犠牲にすることで本来の夫婦の愛へと昇華され、親の子に対する(地上的)愛は子の信仰否定と闘いながら真の親の愛へと昇華され、それは未だ途上であり昇華されるはずだという絶対信仰で前進している。私達は今教会に対して、情けをかけてもらえなかった恨を抱きながら、また周囲からも兄弟からも教会へのいろんな段階への批判が声をあげる中で、情という地上的な愛で繋がった一切を否定されながら、神的愛、縦的愛、真の愛で繋がる関係を模索している。打たれるときには肉を差出して打たれるべきだろう。しかし肉は打たれても骨まで差し出して本質を失ってはならない。或いは肉も打たれまいとして結局骨の本質まで打たれるべきではない。批判する兄弟はどう口を封じようとも批判する。去ろうとする兄弟はどう引き留めても去っていく。しかし残る兄弟はどんなことがあっても本質、教会の骨の部分を持っていかれてはならない。果敢に死守して去りゆく兄弟が恨みを抱くのではなく負債を抱くように送り出すべきだ。彼らが去って当然の材料や道理は得ても、骨の部分に繋がれなかった悔恨を抱かせるべきだ。教会は基盤も財産も奪われ、着ているものさえ剥ぎ取られ肉である兄弟を失うとしても、しかしこの塵ひとつからでも地上天国を築き上げることができる御父様の勝利圏を相続した我々祝福中心家庭の群れであることを見せつけるべきだ。私達の本領発揮はこれからだ。褌を締め直して新たな段階に突入する。

2013年7月11日木曜日

今日の想い 590

男性としての本性からくるものか天使長からきた堕落性によるものかは問わずに男性嗜好をみると、肉的感覚的には一つの陽性生殖器に一つの陰性生殖器というのに留まりたくない男性自身をみる。絶対の観点からは完全に否定されるものを、肯定しようとする肉的感覚的な男性嗜好が厳然としてあるということだ。しかし肉的感覚的なものに線を引かずにどこまでも従っていくと、その行き着く先は自己破壊であることを霊的精神的な私は感じ取る。感じ取るだけではなく真理のみ言葉で理解もしているから悟性として許さない。しかし肉的感覚的な存在でもある私は常にその声にならない衝動に抗わなければならない。主体であり主人の位置にあるのは肉的感覚的な私ではなく、霊的精神的な私だが、それがどれだけ揺るぎない主人の位置を確立していたとしても、しかし肉的感覚的な衝動が消え失せる訳ではないだろう。そうなると肉的感覚的なものが主人の位置を奪う可能性は永遠になくならないということだ。私達は堕落という事実を論理として理解しているだけではなく、肉的感覚的な衝動が働いている自分をして堕落を感覚的なものとして理解している。しかし同時に、肉的感覚的な欲求を満たす同じ形で繁殖がなされ、肉的感覚的な門を通して神様の血統が繋がれることもまた事実だ。同じ外的行動でありながら善果になるのか悪化になるのか分けられる。そしてそれは内的動機をして分けられるということだ。まさに善悪知るの木だ。女性の生殖器を通して善悪を知る。女性の体門を通して善悪を知る木に至る。内的動機に神様がおられ、サタンもいる。私のこの動機がまさしく神様とサタンの戦いの合戦場だ。動機がうごめく世界こそが私達が見失ってはならない本戦場だ。動機が何かを蔑ろにする者は、どれほど信仰生活を重ねたとしても、神様を蔑ろにし、霊界の事実を無視する者だ。勿論堕落の本質も掴めない。男性として様々な女性を求め、凹を求める自分、それに翻弄されることだけに意識が向いてしまうと、意外と落とし穴にはまり易くなる。綺麗な女性がいれば振り向きもする。ついついアダルトなサイトを覗いて見たくもなる。他の食口には言えないような想像もするだろうし、誘いがかけられれば一発百中で落されるかも知れない。しかし弱みであるそこに釘付けされたままでは動機に蠢くサタンを見据えてはいない。振り向くなら統一式に振り向けというみ言葉があった。また、他の異性と踊るなら相対の為になるようにというようなみ言葉もどこかにあったはずだ。妻や夫への貞操の線をどこに引くとしても、動機を正すことが善悪の分かれ目だ。そしてその線を越えて負債を覚えるとしても動機を正すことは常にできる。動機に働こうとされる神様がおられるからだ。どうして堕落したか。愛ゆえに堕落し、動機への自由をして堕落した。そうして復帰は、愛をして復帰され動機への自由ゆえに復帰される。男性であれ女性であれ、誰とでも愛の関係を持てるというのも、やはり愛の質が問われ動機への自由が問われるからだ。

2013年7月9日火曜日

今日の想い 589

祈祷する内容があるから祈祷するのではなく、祈祷するから内容を与えられる。祈れないのではなく祈らないのであって、祈っても何も答えが届かないと思っているがそれは祈ったのではなく祈る真似をして見たにすぎない。祈祷は神霊への対話であり、対話する主体の神霊を見出す為に探し尋ねる意志が注ぎ込まれなければならない。祈祷とは探し尋ねる意志の投入とも言える。祈祷するから内容を与えられるように、話すから話す内容を与えられる。書くから書く内容を与えられる。話す内容があり、書く内容があるから話し書くのではなく、意志を投入することで与えられる。話すのも書くのも先ず意志の投入だ。踏み切らなければ何も起こらない。生活事態が祈りだと言える為には意志を注ぎ込む姿勢が常に要求され、探し尋ねる意志を注ぎ込む生活が常習化されると、それに応じて尋ねたものを与えられる生活になる。抱えきれない数多くの課題問題が犇(ひし)めいている。それらの一つ一つを解決しようと思って思考を巡らすのだろうけれども、一歩引いた位置で思考を巡らしても思考が地上的なものに留まる限りは堂々巡りで解決の糸口は見いだせない。それは探し尋ねる主体を地上に見出そうとしている。祈祷は神霊への対話であるから、探し尋ねる主体を地上に見出そうとはしていない。地上は結果世界であり、本来結果をどういじくっても変わり様が無く、結果は結果で受け入れるしかないが、原因世界に働きかけることで地上の事実は変わっていく。だから祈祷を欠かさないことだ。祈祷して神霊を受け取る器、内的凹を自分の中に準備することだ。

2013年7月7日日曜日

心門

心門という言葉を御父様は使われる。祈祷生活を蔑ろにする者はこの心門がわからない。心門がわからないから祈祷の妙味がわからない。祈祷は長いほどいいというものでもなく、祈祷の姿勢や形を整えればいいというものでもない。どれほど長く祈ったとしても、祈祷を終えて顔を上げて、祈ったことを忘れたかのように内的に神様に尋ねる意志を投げ捨てて、外的な地上に埋没してしまえば祈祷した意味もなくなってしまう。祈祷しているつもり、信仰しているつもり、御父様を慕っているつもりでしかなく、それら全ては自分よがりの思い込みに過ぎない。そんな偽食口、ナルシスト、山羊族がどれだけいるだろうか。私達は心の貧しい者になるべきだ。それは感覚的気分的な満足を求めるのではなく、心情の在り様の貧しさを覚えて心情的に深い自分になりたい私を追求し、内的霊的な無知を克服したい私を追求していくことだ。自分の心門を見い出した者はそこから心情の湧きいずる泉を手に入れる。溢れる心情の湧き水を、欲しいだけ乾いた喉に汲み入れながら、聖霊に満たされていく。そんな体験をしたことがどれだけあるだろうか。汲めども尽きない心情が湧きいずると共に、叡智も意志も湧きいずる。しかしどれほど祈祷生活を重要視すれども、祈れども祈れども心門を見い出せない、或いは心門を見失うことがある。それは祈祷できる基台が崩れているときだ。傲慢な私が前面に出ているときは基台が崩れる。執着する私がのさばっているときは基台が崩れる。内面に向かう自分を見失うと基台が崩れる。そして、腹一杯食べたり感覚的私を満足させることに溺れると基台が崩れる。腹八分目では少し多いかも知れない。飯も歓びも腹七分がいい。三分は捧げたことになって天が働く基台ができるだろう。心門を捉えると生活が霊的になる。霊的感性が開いて生活の些細な出来事を通し霊的教えを受ける。外的生活の背後に流れる霊的なものを受け取る。そういった霊界生活圏に入っていくと夢ならぬ夢を見、霊界がイメージとなって直接に対峙する。先祖や聖賢聖者が現れて叡智を与える。

2013年7月5日金曜日

今日の想い 588

人類70億。おびただしいほどの人間がこの星にひしめいている。全人類の復帰を願われているのに、しかしこれほどの人間を復帰していけるという感覚が先ずつかめない。限りなく抽象的だ。感覚的で気分的な私は無理難題なことという思いが強くて、一人復帰するにも相当な投入が必要だろうに70億分の1を復帰できたところでどうなるものかと力が入らなかった。もちろん内的で霊的な私は、感覚的で気分的な私の判断を受け入れない。執拗にそんな自分を責め続ける。私の中のアベルの声とカインの声だ。こと伝道に関しては私の中ではカインがアベルに屈服してはいない。家庭の中ですら子供が立たず、その状況がカインの声を更に助長させる。人類70億に枝分かれして存在してはいるけれども、根源がアダムエバであれば、それぞれの中に堕落の出来事が生き、カインアベルの戦いが繰り広げられ、自我の中心位置で真の父母を求めている。感覚的人間のみを生きていると思わされているので、誰もが霊肉の救いを求め、真の父母を必要としていることに気付かされていない。その事実は認めるとしても、この世の道理のなかで生きている以上私は人間からの阻害を良しとしない。よって妥協的に生きる中間位置で満足しようとする。おそらく多くの食口が似たり寄ったりだろう。この均衡を崩すには何がしかの一大事件が必要だった。確かに基元節を超えて、何らかの一大事件を期待していたことは事実だ。そして今でも忘れた頃に起こるはずだと思っている。70億人類が度肝を抜かれるような事件が、、、。そしてそれは誰一人詮索できなかった、予言すらできなかった度肝を抜かれるような事件。誰かが鳴り物入りで囃し立てている解釈、統一教会は人類歴史をその中に畳み込まれているという事実。中心位置であり代表位置であるので当たり前と言えば当たり前でさして驚くような新事実だとは思わないが、論理に長けた位置で論理のみを立てて征服しようとすると必ず躓く。その解釈が思考を満足させるものであっても、心情を起こし、さらにみ旨に向かう意志への衝動を発するものでなければ只の自己満足だ。自己中心の位置から離れられない。御父様が触れられたのか訓母様なのか、7割の者達が去っていくという言葉。それは人類の7割が淘汰されると言う予言を導き出せる。先天時代の畳み込みが統一の群れに為されたように、後天時代は統一の群れで起こる事柄が人類の未来に展開される。70億人類の運命を統一の群れが握っている。そのことを認識していない。私もそうだろうなとは思えても認識には至らない。相も変わらず先天的な感覚的気分的な私を後天時代に引き摺ったまま、70億人類が巨大な象で私は一匹の蟻のように力ない存在に過ぎないという気分に浸ったまま、たまにフラッシュされる新しい皮袋である後天開闢意識には、未だはっきりと目覚めてはいない。

2013年7月4日木曜日

今日の想い 587

御父様の右腕であった先生の背信が直接の原因となって、御父様の聖和は基元節を待たずに起こってしまった。それは多くの食口の認めることだと思うが、さらに突っ込んで言うと、御父様は敢えて基元節の前に聖和されることを意志されて、その決定に合わせて背信せざるを得ない位置に先生を追い込まれていかれた。そういう解釈もできる。と言うか、御父様の再創造の視点に立てばその方が正しいとさえ思っている。カトリックでは旧約聖書の中の一つとして認めているが、普通の聖書には加えられていないマカバイ記という聖書の続編がある。マカバイの7人兄弟とマタティアの5人の息子達の、イスラエル民族に生命を捧げ、異邦人によって汚されたエルサレム神殿を取り戻すために力強く戦ったことを記されている。どうしてイエス様を迎える直前のイスラエル民族の物語、旧約の頂点とも言うべきこのマカバイ記が載っていないのか不思議だが、12人の勇士達、その中でもユダマカバイという人物の突出した献身ぶりが描かれている。そしてシュタイナーの霊視によると、このユダマカバイの心魂がイエス様の12弟子の内の最も信頼を置かれていたユダに受肉したと明言している。原理的に言えば、イスラエル民族に心魂も生命も捧げた旧約のユダが、使徒ユダに協助して、ユダの裏切りという最も過酷な試練を通過しなければならなかった。旧約のユダはローマと同盟を結んだのであり、イエス様復活の後、弟子達によるキリスト教はローマ帝国によって世界に広まっていったのだが、その時に旧約のユダ(使徒ユダでもある)が協助してローマ要素とキリスト教要素とを融合していった。善なる歩みをしたのなら、協助するにも善なる歩みをするように協助するものだと思い込んでいるが、十字架摂理を負わなければならなくなった時点で、その十字架に誘う、誰もが嫌う悪の役目を誰かが負わなければならないと言うときに、過去に最も功労を積んだ者がその役目を担うという協助摂理の不思議、神様の摂理の奥深さを思わずにはおれない。サタンと交渉しながら進められる摂理が、我々が考えるような単純なものではないことがよくわかる。イエス様への裏切りの罪を背負うのなら、人類全ての罪を背負った方がまだマシだと言うような位置で、その試練を通過したからこそ全世界に広がるべくキリスト教の宣教がユダの協助でなされていった。そうすると、御父様が最も信頼を置かれていたNO2であった先生の背信が読み解ける。先生の背信は、全祝福家庭の不信仰を御父様がご覧になって、全祝福過程を代表する先生を背信へと導いていかれた。そしてその背信は御父様が聖和されることを意志された上で導いていかれた背信劇だった。裏切りの試練を通過された先生は、生きて悔い改めても、或いは死んで後に協助する場合でも、どちらであってもアベルUNと統一教会要素とを融合される為に世界的に働かれるはずだ。背信摂理とならざるを得なかった責任は全祝福家庭にある。そしてそこに、私達は背信を際立たせる立場と行いを取るべきで、グループを擁護するような立場であっては、聖和を意志してまで演じた御父様の願いを受け止めることにはならないはずだ。

2013年7月3日水曜日

今日の想い 586

奇しくも橋本市長発言問題で火に油を注ぐ形になった俗に言う慰安婦問題。問題は性奴隷という言葉が使われ始めるようになって二国間のみならず世界の関心を巻き込む人権問題へと発展してきたことだ。日本という国が運営管理してきたかどうかを問う以前に、肉欲に走る人間性(堕落性)を誰もが持っていれば、その捌け口が何らかの形で必要であったという暗黙の了解にまで触れなければならない。橋本市長の言い分はそうだろう。それは多かれ少なかれどこの国でもあることで、そしてそれは暗黙であるからどこの国も出来得る限り口を閉ざす。もちろん米国でもあって韓国でもある。しかしそれを国家間の政治的遣り取りの土俵に乗せてしまったのは戦略としての立場からだ。橋本発言は暗黙に頷けるとしても国内外の利害、公人としての利害が絡んでいるので、頷けても理解を示す立場の者は一人もいない。力ある賛同者が誰も出てこないことを見通して橋本市長は発言は控えるべきだった。言葉多い者が一番かかりやすい罠だ。韓国も最初はこの問題を取り上げることには消極的だった。自らも飛び火を受けて燃え移るからだ。しかし韓民族の一体化と国政へ向かう批難を国外にそらせる為に反日思想を利用してきた韓国政府は、副作用的に大きくなってきたこの問題をもはや避けて通ることはできなくなった。そう判断すれば戦略として積極的に出る以外ない。それが昨今の韓国政府の姿勢だ。さてそれを受けて日本はどうでるか。どうしたらいいのか。つっぱねるのか、理解を示すのか、それとも戦略的に飴か鞭でもって韓国政府自身に治めさせるのか。こうなれば戦時の性奴隷の実態と題して国それぞれの兵士が犯してきた内容をぶち撒けるという手もないでもない。落とされた泥沼に皆も引き摺り込む作戦だ。信仰を持つ立場の者、倫理道徳への衝動に駆られる者にすれば、人権問題として国を批難するのだろうが、戦時という特殊な状態を平時の理屈でどうこう言うことには無理がある。無理がある上にあらゆる批難は国家間の利益に利用される。以上が日本人としての私の思いだが、天一国市民としては別の思いがある。御父様が慰安婦問題があることを認められ、清平に至っては執拗に日本の罪への批難を浴びせる。御父様が言われるのだから正しいと、だから慰安婦問題もあるし竹島は韓国領だと、日本を捨てて他国に入籍したのならまだしも、日本人として日本から保護も受けパスポートも持ち、ある者は年金や生活保障まで国から受けながらも、日本を批難して負債にならないのかどうか。国を愛する者から言わせれば非国民であり許されない立場だろう。もしそれが摂理的に説明できることであったとしても、御父様は公言できても今の私にはその通りには口にできない。清平を指示する立場を前面に立てて、日本の過去と現在を批難して、日本に籍を置きながら日本の人心を敵に回して、それで日本の将来を抹殺して、良かったと手を叩いて喜ぶことができるのだろうか。曖昧にして逃げていると思われても仕方が無いかも知れないが、でも韓国が完全復帰されなければ私達は所詮流浪の民だ。流浪の民は流浪の民として今を生き延びなければならない。主の国と母の国との間で翻弄されて、それでも日本を愛する心はあって批難され打たれれば素直に悲しい。そしてさらに悲しみを深めるのが、状況を知る食口でありながらも日本食口として難しい立場にあることに想いをはせず、配慮もなしに日本非難を口にすることだ。しかしそれでも御父様が母の国として認めて下さったことを有り難く思い、それを思って、あらゆる批難も、認めずとも受けて消化していこうと思う。

2013年7月2日火曜日

今日の想い 585

祝福を受ければ御父母様に接木されたのであって、原罪から既に切り離されている。祝福を受けても原罪は清算されていないと思うのは、堕落の位置の私であって、それは重生された本然の私とは関係が無い。地上に居れば時系列で物事を見て原因と結果も時系列で理解しようとする。しかし地上の次元を越えた位置では原因と結果は時系列にはならない。というか時空を超越した位置では過去も今であり未来も今だ。堕落した事実も今であり復帰した事実も今だ。そして私から堕落した事実の今を消し去るのが祝福だ。堕落と関係のない御父母様が、祝福を受けた私達の血統の根源であり、祝福を受けた、地上でいう先祖や後孫が、時系列を外すと御父母様を根源に持つ兄弟として存在している。私達は人間として一個の存在であるけれども、その前に神様という存在の細胞の一つ一つでもあるというのが兄弟関係の意味だ。そして神様を構成する私が先ずあって、それなくしては人間としての一個の私も否定される。要するにXの中にOは入ることが出来ず、Oの中にXはいくらでも入ることが出来るという御父様のみ言葉が当て嵌まる。祝福を受けるかどうかは私は神様を構成する私なのか、それともサタンを構成する(私という一個を先ず立てる)私なのかが決定される。祝福を受けても罪もあり堕落性も見られると言っても、それは神様の細胞の傷であってサタンを構成する細胞とは全く異なる。将来的に傷が癒える(堕落性が脱げる)ことは神様の細胞である以上約束されていて、それは絶対である神様であるから救いも絶対だという意味で約束されている。その神様の健康な細胞に確実になる未来が先ず定着して、未来からすれば現在という病んでいる過去を遡る形で癒える過程を生きている。地上では時系列で罪を清算し堕落性を脱いで健康体細胞になるという認識でしか捉えられないけれども、地上を超えた位置、時空の縛りを解かれた位置では私は既に健康体細胞の存在だ。未来の定着した神様にすれば私の今の蕩減生活は過去の事実を見ていることになる。時空を超えた霊界に行けば私は健康な神様の一細胞だ。肉体の細胞ではなくて、敢えて言うなら肉体の神様ならず心情の神様の一心情だ。祝福家庭は霊界に行けば天国圏内にあるのは確かだけれども、天国圏内の中でも天国的な位階と天国の底的な位階が生じてしまうだろう。地獄は愛を受けられないところだけれども、天国の底的な位階は有り余る愛は受けるけれども、精誠を供えることができなかったのにもかかわらず愛を受けるという、その沸き起こる申し訳なさの悔いで焼かれる地獄だと言えるだろう。御父母様は祝福に対しては全責任を取られる。祝福を自ら否定するのでなければ失敗は有り得ない。受けた祝福が救いの体を為していないから祝福の完成に向けて蕩減を払っていくのではなくて、祝福は完全であり、その祝福を受けたに相応しい自分になりたいという感謝から来る私の意志を差し出してこそ祝福に正しく対している。感謝の想いは私は救われているという位置で湧いてくるもので、もしその未来という理想の現実が確定されていなければ、感謝は只の慰めであって本当の感謝の想いは湧いてこない。口では感謝と言いながら実のところ疲れ切って恨みがましくさえ思っている。

2013年7月1日月曜日

今日の想い 584

自分の凹凸は絶対に神様のものであり、凹は神様に属しているのであって女性に属しておらず、凸も神様に属しているのであって男性に属していない(み言葉)。そうして女性の持つ神様に属している形状凹は神様の中にある性相凹の結果であり、男性の持つ神様に属している形状凸は神様の中にある性相凸の結果と見ることができる。それで男性として横的に形状凹を求めるのは縦的には神様の性相凹の結果と結び付く為であり、女性として横的に形状凸を求めるのは縦的には神様の性相凸の結果と結び付く為だ。男女一体になることで神霊的には男性は神様の性相凹を自身内に自覚し、女性は神様の性相凸を自身内に自覚する。男性は神霊的には凹の位置であり、女性は神霊的には凸の位置にある。もし形状凹凸の一体だけが御意(みこころ)であるなら絶対性ならずフリーセックスに向かうだろうし、それは絶対愛を否定しているのであり、性相凹凸の一体を無視している。絶対愛をして形状凹凸が一つになれば性相凹凸が一つになれる基ができ、その夫婦一体圏は神霊を受け取る。私達祝福家庭はそういう夫婦一体圏を為す為であり、形状凹凸の一体だけで感覚的歓びに留まるこの世の交わりとは次元の異なる一体圏であるべきとの自覚が必要だろう。それは宗教的であり神霊的であり、芸術的であって創造的でもある。感覚的歓びを求めるに留まるセックスは所詮堕落圏内に留まり、地上の重力から逃れることはできないが、祝福家庭に望まれる夫婦一体圏は感覚的歓びを超越して次元を駆け上り、その場は天の父母様が生きて創造活動される舞台になるはずだ。アダムからエバを取りだしたとき、形状凹とは逆に、エバは性相凸を自身内に自覚する位置にいた。過分な欲望でルーシェルに対し、ルーシェルを性相凸の位置で(ルーシェルの上に乗った位置で)受け入れてしまったのが霊的堕落であり、エバは神様の性相凸に変わってルーシェルの性相凸を迎え入れてしまった(これはあくまで私的仮定)。そうしてアダムエバ間の時ならぬ時の行為、肉的堕落がサタンの血統を確実なものにしてしまった。霊的堕落と肉的堕落の関係を原因と結果と見るのが一般的だと思うのだが、堕落論を読み解いても肉的堕落は犯した罪に対する不安から本来の関係を取り戻そうとして起こったのであって、それを原因と結果と見るにはどうも無理があるような気がする。そしてもし霊的堕落なしに、時ならぬときの行為があり得た場合、それは堕落とは言わないのかという問題もある。或いは霊的堕落の後、肉的関係を取り留めた場合(これに関しては御父様も触れられたことがある)はどうだったのか。ルーシェルという霊的存在と、アダムという人間存在を同じ次元で扱って、アダムと関係を持てば本然、ルーシェルと関係を持ったので堕落、というようなルーシェルかアダムかどっちを選ぶかという問題では明らかにないだろう。おそらくそれは地上的論理の限界で、霊的無知を克服する過程で理解していくのだろう。