2014年3月31日月曜日

今日の想い 716

自分流にいうなら、言葉は並べるものじゃない。言葉は打ち込むものだ。相手の心魂に打ち込んで、その奥に潜む霊を言葉の切っ先で捕らえるものだ。人間の精神存在としての力はこの言葉にある。長々と言葉を並べても、それは力とはならないだろう。伝えるために言葉を並べようとすればするほど、言葉の抜け殻しか残らない。だから打ち込める言葉を持つために、力となる言葉を持つために、言葉に力を混入させる方法を見出す。それは物事を、経験を、どう霊的に捉えるかで言葉に力を混入できる。誰もが味わうであろう一般的な喜怒哀楽も広くは経験かも知れないけれど、喜怒哀楽という心魂作用に留めて終わるのではなく、心魂作用の奥にあるものに触れて初めて霊を経験する。それは現実に対処する心魂が、現実に対処しきれないほどの状況になることで心魂の奥にあるものを求めていくのであり、一般感情として受け取る範疇を越えなければ霊を経験することは先ず無い。しかし霊を経験した者の言葉には力が混入される。相手の心魂に打ち込んで、奥に潜む霊を捕える力がある。全ては言葉でできている。それは私が言ったのではなく聖書の言葉だけれども、その言葉は私達が日常使う平面的言葉、すなわち並べる言葉ではなく、打ち込む言葉のことを言っている。次元にひびを入れて地上の次元に届いた言葉だからこそ言葉が地上で実体化している。私達が夢の実現、理想の実現を形にするとき、打ち込む言葉を持たなければならないのであり、逆に言えば、打ち込む言葉を持ちさえすれば夢も理想も実現する。と思っている。私にはあれがないこれがないと数え上げるけれども、何がなかったとしても打ち込む言葉さえあれば実現する。言葉に対する本当の概念を得ていくことができれば、全ては言葉で出来ているので、地上のあらゆる概念を私の中で覚醒させることができるだろう。要は心魂から霊への突破であり、心魂が沸点温度に達すれば霊に届くことができる。沸点温度に早く達する為には熱の受容度を増すことであり、心魂にとっての受容度増加とは真の愛の投入だ。すなわち精誠であり犠牲だ。

2014年3月29日土曜日

私は消え去った群衆の中のひとりなのか。

原始キリスト教社会として芽吹かせた者達は、イエス様が地上におられる間のイエス様の元に集った多くの群衆達とは異なる者達だということを先ず理解すべきだ。ユダヤ教徒達がイエス様を槍玉に挙げたのは、イエス様の人心の吸引力にあったし、歴史もあり社会的影響力もあるユダヤ教社会が、ぽっと出のイエス様によって崩されるのではないかという不安がユダヤ教徒の彼らにあったからだ。それほどにイエス様のところに集う群衆は当時引きも切らない状況だった。しかしイエス様が処刑されることで押し寄せていた群衆達は一瞬で消え去った。イエス様の御側で仕えていた12弟子さへも散り散りになったのだから数多の群衆達は言うに及ばない。2000年のキリスト教を支えて発展させてきた力は、実はイエス様が処刑された後、復活されたイエス様によって感化を受けた者達から出発したのであり、新約の四大福音書がそれぞれで異なるイエス様を描いており、それは作者がより霊的に、より心魂的に見えるイエス様を描いたからであり、イエス様の具体的現実的な足跡がどうだったかは象徴的なものとして理解されても、キリスト教の霊的価値にとってはさして意味を為さない。奇跡を行ったという具体的現実的な御生存当時のイエス様に寄り添った群衆達には、後に評価されるイエス様の霊的な足跡など到底理解できなかったはずだ。時代が変わり、世相が変わった今でも、人心に於いては、特に群集的心理に於いては、イエス様が地上におられた当時とさして変ってはいない。私達は再臨のメシヤに出会い、そして信じ、そして慕い侍ってきた。しかし私達が出会い、信じ、慕い侍ってきたのは、肉体を持つ生きた生身の再臨のメシヤだった。要するに私達は、イエス様が処刑されるや否や一瞬で消え去った群衆達と同じ立場だということを先ず忘れてはならない。御父様が人間であり生身であっただけに、御父様の地上的なものに価値を置いて当然で、そうなると霊的価値を捉えようとはしなくなる。もちろんみ言葉を訓読すれば内的霊的言葉であるし、私達も地上的なものより霊的なものに価値を置いていると信じて疑わない。しかし本当にそうだろうか。群衆達が奇跡や肉身の癒しを得たいが為に寄り集ったと同じように、私達は本質的霊的意味もわからないまま、御父様の祝福、それも生きた体を持たれた御父様からの祝福を受けたいが為に寄り集っただけではなかったのか。その問いかけは御父様が聖和された今、ひとりひとりが霊的御父様から問いかけられ、自分自身でも問いかけているはずだ。奇跡や肉身の癒しを与えられて満足した群衆のように、祝福を受けた時点で既に満足したのなら、既に御父様が聖和された時点で、御心情からは離れている。もっと厳しい言い方をするなら堕ちている。あとは惰性で教会に行って献金し、習慣性で御父様を口にし、しかし実のところ霊として熱く燃えるものは心魂の中には消えてなくなっているか、燻ぶっている。祝福がどれほど尊く、それを戴いた私であると明言するなら、それに応じた歩みを、精誠を、犠牲を供えてこそ、その明言が私の明言だと証明できる。しかし食口の内のどれほどがそう言い切れる位置にいるだろうか。祝福を受けたことで、既に満足して終わっている者達が少なからずいる。

2014年3月27日木曜日

今日の想い 715

幕屋は聖所と至聖所とからなり、至聖所には契約の箱があって、その中には二つの石板、マナ、そして芽を出したアロンの杖とが入っている。幕屋はイエス様の象徴的表示体であり、聖所がイエス様の肉身を、至聖所がイエス様の霊人体を象徴している。そうすると至聖所の中にある契約の箱はイエス様の霊人体の中にある何かを象徴していることにもなる。しかし原理では次のようにも言っている。したがって聖所は有形実体世界を、至聖所は無形実体世界を象徴していると、、。そうなるとイエス様の肉身は有形実体世界であり、イエス様の霊人体は無形実体世界となる。さらに契約の箱は大きくは天宙の、小さくは幕屋の縮小体とあるので、イエス様の霊人体の中に天宙、すなわち有形無形の両実体世界を含んでいることにもなる。一方がもう一方を内包していて、そのもう一方が始めの一方をも内包しているという論理をどう理解したらいいのかと言うことだが、その論理が成り立つ次元世界があるなら、イエス様はそこから来られたと言うことができるし、この論理が成り立つものとして次元の円環が考えられる。私が外的世界をどこまでも突き詰めていけば、内的世界をどこまでも突き詰めていった世界が現れ、極と極は円環で通じているというものだ。神様がアダムとエバを創造したのはアダムとエバを通して喜びを得る為とあるけれども、神様がアダムとエバに入られるので神様御自身を知る喜びでもある。円環でいえば神様はアダムとエバを通過して神様御自身を知って喜ばれるのであり、アダムとエバは神様を通過してアダムとエバ自身の神的存在価値を知ることで喜ぶ。しかしその円環はその次元に於いては円環であるけれども、一つ次元を上げれば円環ではなくスパイラルとなるところに、地上存在である人間が把握することの難しさがある。そしてそのスパイラルが何処までも直線的な様相を示すのではなくスパイラルは球形を描いていく。そこまで範囲を展開させていくと低い次元に存在する地上人間は混乱するので、取り合えず円環に留めて理解すべきだが、私達は至聖所を通して天の父母様に会う。二つの石板、マナ、そして芽を出したアロンの杖をツールとして天の父母様に会う。二つの石板はイエス様と聖霊の象徴であり、勝利されたイエス様はみ言葉の完成実体であるから、すなわち実体み言であられる御父様と聖霊実体であられる御母様となる。芽を出したアロンの杖については「平和の主人、血統の主人」に出てくるが、堕落していない伝統の血筋、すなわち真の父母の血統圏を言うのであり、そうなるとマナは真の生命に関すること、すなわち霊的生命だと言うことはわかるが、具体的にどう理解するかとなると難しいだろう。私の独断から離れることは無いが、今の私は真の生命が心情復帰に関わっていると思っている。心情をひとつひとつ復帰しながら生命の木に至ると思っている。

2014年3月26日水曜日

今日の想い 714

霊的イエス様と聖霊によって霊的救いが為されるように、祝福による重生は御父様と御母様、御父母様によって為される。御父様の骨髄に入っていくだけでは祝福の血統の種のままだが、種は御母様の胎に着床し、御母様の養分を得て、御母様によって産み出される。ある期間まで御母様が御子女様を宿された状態で祝福式が行われたのは私達の重生と御母様の懐妊とに重要な関連があるからだ。私の伺い知れないところで、新しい私の霊が生まれることを信じれない我々であることは、人間として霊的存在であるにも関わらず霊的無知であり霊について殆ど認識できない者達にとっては当然かもしれない。ヨハネ伝にこうある。「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなければならないと、私が言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである。」 これはニコデモが「人が年を取って生まれることがどうしてできますか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」の疑問をイエス様に投げ掛けた時の答えだ。どうしてそんなことが有り得るのかと更に問い詰めると、イエス様は、教師なのにそんなこともわからないのかとたしなめられた。夜昼の神様について御父様に尋ねられた方がおられて、その時、御父様は既に説明済みだとして不機嫌になられたことがある。当時のイエス様もそれと同じだ。堕落人間にとっては説明が雲を掴むような事柄であって、イメージできる実体がないからリアル感がない。ようするに霊的なものがわからないから満足のいく理解の仕様がない。だからこそ霊的に見えないもの、わからないものに対する信仰が要求されるのであって、更に信じるのは当然で信仰を越えて侍る心魂を用意するのでなければ、み旨の道を進むことはできない。見えなくて当然、わからなくて当然ではあるけれども、問い続けることは重要で、肉体の実感を通して象徴的な霊的事実を、心魂の実感を通して形象的な霊的事実を把握することはできる。愛という概念も、肉体的愛は理解できるし心魂的愛も理解できる。しかし真の愛となると象徴と形象を通して霊的愛を紐解けるようにならなければ理解はできない。生命という概念も、肉体的生命は理解できる。そして心魂的生命も曖昧ではあるけれども理解できる。しかし真の生命となると霊的生命を紐解いて理解する必要がある。真の血統もまたしかりだ。象徴的である肉体的現実を霊的事実そのままだとすることはできないように、象徴的である肉体的血統イコール霊的血統だとは言えないと思っている。将来的には全人類が御父様の肉体的血統圏に属するようになると言えるとしても、御父様の肉体的血統に繋がることでしか真の血統圏には入れないと言うことはできない。

2014年3月25日火曜日

み旨に対する意識の目覚め

先天時代、私達統一食口はみ旨に対しては夢模様の中に生きていた。何も理解していなかったにも拘らず、み旨が何かも曖昧であるのに、それでもみ旨に燃えて生きてきた。私の霊が燃えたのではなく私の体と心魂を預けていた霊的存在がみ旨に燃えて生きたのであって、私の霊は夢模様の中に、すなわち体と心魂を預けている霊的存在に意識も預けて生きてきた。それが先天時代の食口の在り様だったと言えないだろうか。だから先天時代の私と、後天時代の私とは明らかに異なっていなければならない。み旨に対して目覚めた部分もあるし、今目覚めようとしている部分もあるけれども、意識の違いが見えなければならない。後天時代は開闢時代でもあるけれども、開闢とは個体それぞれに於いては意識の目覚めとなる。それでは、先天時代私達が夢模様の中に生きていたように、原理を知らないこの世の者達も夢模様の中に生きていたのかと言うと、この世の者達はみ旨に対して夢を見るほどの意識程度も備えられてはおらず完全に眠っていた。それを原理の言葉でいうと、完全なサタン圏にあると言うことができる。勿論私達もサタン圏から脱していた訳ではないが、少なくとも夢を見ることができる意識程度は備えていたということだ。しかし後天時代に入って夢から覚めようとすると、すなわち霊界と地上界の一致、霊肉一致の時代を生きようとすると、み旨の観点から意識とは何かをわからなければ、この時代を主観的、創造的に生きることはできない。旧約、新約、成約時代と分ければ、旧約は象徴的時代、新約は形象的時代、成約は実体的時代であるように、完全な睡眠という無意識、夢見る意識、そして目覚めた意識という意識の三段階があり、み旨に対する意識も、完全なるサタン圏内でみ旨に対して想像すらできなかった眠った状態、夢模様の状態、そして目覚めた状態がある。後天開闢時代は人類がみ旨に対して目覚めた意識を持つべきなのは確定的なので、眠った者達は、私達が御父様と共に歩んだと思っている夢模様の状態から目覚めた状態へ移行するのではなく、眠った状態の者達は突然に目覚めさせられるだろう。イエス様と共に歩んだ経験のないパウロに突然神霊が働きかけたように、或いは肉欲に溺れふしだらな生活を送っていたアウグスチヌスに読めという言葉に誘われ、手元に合ったローマ人への手紙を読むことで回心したように、突然に目覚めされられる。問題は夢模様の食口達で、夢見る状態から目覚めるためにはどうしたらいいのかだ。み旨に対する夢模様状態に固執して目覚めることを拒むなら、私達はカナンの地目前で荒野で死んでいったイスラエル民族と同じ運命を辿ってしまうだろう。

2014年3月22日土曜日

今日の想い 713

先の試練が治まる間もなく次の試練がやってくる。それも突然やってきて体も心魂も振り回される。もはや何とか把握して対処しようとする私を完全に捨てない限り、ようするに振り回されるために存在しているのであり、希望や明日を覗き見ることすらできない私だと諦めない限り、この地上存在であることも否定したくなる。自分がこれほどに弱い存在だったのかと押し寄せる試練の度に思わされる。思わされるも何も、天に恨み事を言い、逃げ回ろうとし、弱者特有の堕落性が心魂から染み出て払拭することができない。唯一の救い、と言うより一縷の救いは、試練を体そのもので受け取る妻がサタン的ではないと言うことだ。前にも触れたけれども彼女は物事を先ず外的に捉える。その意味では決して信仰的ではないが、恨み事は薬に言うし医者に言う。私はと言うと先ず内的に捉える。内的に捉えるから信仰的ではあるけれども、恨み事が出てくれば背後の霊的存在に感情をぶちまけ更に天に訴える。本当に厄介な存在は唯物主義者ではなく、内的霊的なものを認め、しかし中途半端な認識に留まっている信仰者で、中途半端なものだから本質を捉えることなしに愛の反動としての恨みをぶちまけてしまう。グループ派にしろ分派にしろ、一度は教会を受け入れながら反対派に回ったのは、み言葉の本質を受け取れずに中途半端な霊界認識、神様の認識、真の父母への認識がそうさせる。では教会に留まっている者達はみ言葉の本質を受け取った者達かというと、それもまた違うだろう。教会に留まっている食口の多くは、或る意味自分の理解の認識を曖昧にしたまま、中心から下ろされる認識に「さもありなん」と乗っかっているだけの場合が多い。自分の認識は曖昧だから、中心からの認識に整合性があろうが無かろうがそれはどうだっていいことになる。教会が強い吸引力がないという問題は、真理を本来どう認識するかはそれぞれの課題であるにも拘らず、その認識を中心者に丸投げして、中心者の認識を自分の認識にしてしまったことにあるだろう。中心者の認識が間違っていなければ差ほど問題は起こらなかったかも知れないが、多くの中心者は口に長け論理に長け、よって実践現場主義の叩き上げで責任者になったのではなく、頭の良し悪しで責任者になった者達の方が多い。しかし愛は論理ではなく実践だ。要するに実践を、俗に言うところのカインに任せてしまって、頭でっかちの責任者は口を出すだけになってしまった。打たれ強い統一教会であり、私も打たれ強いと信じて疑わなかったが、私自身も中心者をどうこう言える立場にはなく、実にみ言葉の実践ではなく論理の部分だけで人生を理解し、摂理を理解し、霊界や神様を理解したような錯覚に陥っていた。私もひとりの甘やかされた原理坊やに過ぎなかったと言うことだ。どんなにみ言葉の知識が豊富であっても、み言葉が知識である以上、小さなただ一つの試練さへも越えることはできない。み言葉は知識として受け取るものではなく、実践ツールとして受け取るものだろう。それでこそ知識ではなく認識を、み言葉の鞘ではなく本質を受け取るのであり、実践の中でこそ心情は相続されるはずだ。み言葉が未だに知識の部分、即ち頭で理解している部分を徹底的に壊されるまで、私の試練は絶えることは無い。試練の前に知識のみ言葉なぞ何の力にもならない。み言葉の本質、み言葉の生命こそが試練の波を打って割ることができる。

2014年3月17日月曜日

私のみ旨

私のみ旨が何であるかを明確に認識しなければならない。責任分担として或るミッションに歩む、献金が願われているから献金する、伝道が願われているから伝道する、それらはみ旨だとして為していると思っているかも知れないが、私のみ旨という認識が本当にあるだろうか。家庭教会が願われた。環故郷が願われた。そして今訓読教会が願われている。御父様が私達に与えて下さったこのみ旨と、今歩んでいるミッションや献金、伝道がどう繋がりを見せるのか。今自分が歩んでいること、歩んでいる生活環境圏が先ずありきで、その基台の上で献金や伝道をしているのなら、家庭教会も環故郷も、そして訓読教会も、それは御題目に過ぎないだろう。御父様の願いに応えているつもりの私を信じているだけで、実は私のみ旨とは関係がない。どれほど献金しようが、どれほど自叙伝を配ろうが、それは私のみ旨とは直接に関係がない。私のみ旨が何かを考えた時に、それが認識できるその基台作りとしての歩みも大きくはみ旨だと言えるとしても、それは復帰摂理ではなく復帰基台摂理という蘇生段階であり、何年経っても蘇生段階であり続けることが本当に私のみ旨なのかを考えてみるべきだ。確かに伝道に燃えて一人一人復帰した人々を祝福し、氏族圏へと束ねていくことで160(180)家庭が為せるかもしれない。しかしその認識は今までの意識と何ら変わりないし、それで実った実績があるならまだしも結局は御題目に過ぎなかったと言わざるを得ない。その低空意識を延長させても先は見えていて、結局は何もできなかったで一生を終えてしまう。私のみ旨を明確にすべきだ。御父様が私の御父様であるなら、私のみ旨が明確にされて当然だ。御父様の天一国のブループリントが明確であるように、私のみ旨のブループリントも明確であり、それで初めて創造工程としての歩みが生きてくる。ブループリントがないまま、闇雲に献金し伝道へと駆り立てても、果たして結果が出せるものかどうか、或る程度出せたとしてそれが私の天一国、私のみ旨と言えるのかどうか。人類全てが歩まなければならない典型路程がある。ヤコブの路程は象徴的路程であり、モーセ路程は形象的路程であり、そしてイエス路程は実体的路程としての典型路程だ。ヤコブはハランからカナンへ、モーセはエジプトからカナンへ、イエス様はエジプト批難から再入国へ、そして私達は環故郷へ、それは復帰摂理として残された人類の宿命的歩みだ。しかし何も持たずに厄介者として環故郷しても証しは立たない訳で、与える何かがなければ復帰は絵空事だろう。万物と奴隷を携えたヤコブ、幕屋と契約の箱を携えたヨシュア、霊的救いをもたらしたイエス様、そして私達は何を携えて環故郷し、アベルの位置を確立し、父母となり王となるか。いきなり父母の位置で祝福を与えるとしても気持ち悪がられて終わりだろう。受け売りのみ旨ではなく、私のみ旨として明確に立てるものがあるかどうかが全てを決定する。

今日の想い 712

何とも孤独で、何とも寂しく、ルーシェルが越えられなかった愛の減少感に、今私と私の家族は浸っている。この孤独に浸りながら、この寂しさに浸りながら、それでも私はルーシェルとは異なっていて、抗うほどのルーシェルの知恵もなければ力もない。私が天の父母様に訴えたい想いがあったとしても、訴えることのできる条件もない。だからひたすら受け止める。甘受して抵抗を示さないのが私の在り様だ。いつ終るとも知れない孤独に耐えながら、哀しみに打ちひしがれながら、ある時からそれも限界点を越えたようで、別の感慨が芽生えてきた。孤独な神様を私が身を持って体験していると思えばいい、寂しさをどうすることもできなかった神様を体験していると思えばいい、そう思えるようになった。私には妻がいる。家族がいる。孤独と寂しさを共有する妻がいて、それで孤独と寂しさが半減するわけではないにしても、それでも妻と分かち合えることが私に許されていて、それが私の生きる幸せでもある。喜びを分かち合えればそれも生きる幸せだけれども、孤独と寂しさを分かち合えるのもまた違う幸せだ。要するに幸せは喜びこそが幸せだと思っていたけれども、ここまで生きてきて、孤独も、寂しさも、そして痛みも苦しみでさえも、分かち合えることそれ自体が幸せだと思えるようになった。更に言えば、孤独も寂しさも神様が味わっておられ、御父様も味わっておられ、だから私が孤独に浸り、寂しさに浸りながらそれは一人で浸っているのではなく神様と御父様と分かち合っているとも言える。そう思えたことで、私の孤独と寂しさは、通常の今までの孤独と寂しさとは次元が異なっている。天地人真の父母様が勝利して立たれ、神様は結婚されて天の父母様となられた。御父母様も喜びも哀しみも分かち合われ、天の御父様は天の御母様と喜びも哀しみも分かち合われる幸せをやっと手に入れられた。夫婦一体圏は仲良く笑って暮らすことだけではないだろう。お互いの想いを自分の事として分かち合えれば、泣いて暮らすにしてもやはり夫婦一体圏だ。妻は病と薬のせいで実年齢の二周りも年を重ねているように見える。私は頭髪の一部が薄いけれども、彼女の頭髪は全体が薄くさらに白い。体も枯れ木のように細り動きも随分遅くなった。取り敢えず体調を聞くけれども昨日よりは少し楽だと覇気のない声で呟く。それは今日だけの返事ではなく毎日聞くたびにそう応える。昨日もそう言ったよと告げると少し微笑む。元気だった頃の、妻のよく通る声が好きだったけれども、体調のせいで無口になった今では、この僅かの彼女の微笑みが一番好きだ。

今日の想い 711

逝くなら逝くでジタバタせず、醜い姿を見せずに逝く。生きて朝に晩にジタバタして、さらに死ぬときでさへもジタバタするのは美しくない。統一精神として美しくない。御父様を証ししきれない歩みなら、罪多く悔い改めることの多い歩みなら、せめて最後だけでも美しく、御父様の息子娘だと誇れるようでありたい。史吉子先生のみ言の証しにこうあった。食口は先祖の功労がないから、先に復帰されてみ旨の為に人一倍苦労するようだ。功労がないからこそ御父様に出会えたという、何とも逆説的であるけれどもそれでこそ御意だろう。善人ですら往生するのに悪人なら尚更往生するという親鸞の逆説的教えと同じで、そこが奥妙な働きをされる神様故のことだと不思議と納得するものがある。私も妻も生きることに執着し続けながら、さして生きて何ができる訳でもなく、生きて何をしたい訳でもなく、み旨の為に生きたいと言えるほど信仰に燃える訳でもなく、この世の者達と同じように、いやそれ以上に生きることに執着している自己中心的で大馬鹿者であり大罪人だ。そして大罪人ほど生き永らえる。ジタバタしながら、病を抱えながら、悶々としながら生き永らえる。本当の功労者は綺麗に、美しく、そして静寂の彼方に吸い込まれるように天に昇る。未練たらしく地上の生に執着するのは醜い。自分の醜さを嫌というほど見続けてきた。そうであるにもかかわらず、それでも地上生に執着している。地上では尤もらしい言葉を並べているけれども、天国の隅ではできるだけ目立たないように腰を屈め、遠目に御父様を確認できるかできないかの位置でひっそりと佇んでいるだろう。しかしそんな私であっても、せめて逝くときぐらいは美しく、そして潔く天に昇って逝きたいと思う。生きて何ができるわけでもないからせめてその時の準備をと思いながら、信仰者の体(てい)で、み言葉を理解している体で、御父様を慕い侍る体で、醜い自分を生きている。天の父母様はこんな私に声などかけられるはずがない。願いに応えられるはずがない。そんなことは分かっていて、相も変わらずジタバタしながら生きている。死に切れなくて生きている。人間は執着して、執着して、さらに執着して、これ以上固まれないほどの自己中心的塊となり、やがて瓦解して崩壊する。結局は行き着くとこまで行かない限り、他体自覚に向かおうとはしない。私という自己中心のオバケに辟易しながら今日も生き延びてしまった。昨日、朝に生まれて夕に死んだ。今日も朝に生まれて夕に死んでいく。そして、もし明日に生まれることを許されるなら、朝に生まれて夕に死んでいく。しかし来る日も来る日も、願いに応えきれずに、死に損ないのまま今日を終える。

2014年3月14日金曜日

疑問に思うこと

私達がいう伝道とは、教会に取り込んで抱え込むことなのか、それとも教会にあるものを提示して真の幸せの道を差し出そうとすることなのか、どちらだろう。私達が持っている伝道の観念は多分に前者であって、与えて差し出すのではなく招き入れる、善く言えばサタン主管圏から抜け出させ霊的に救援するけれども、悪く言えば教会をして心魂的縛りをかけると言えなくもない。それではみ言葉を聞いて教会に属していると自覚する私達は、新鮮な復帰された当時のままに、いやそれ以上に、感謝もし幸福だと思っているだろうか。教会に属している私達が感謝し復活し幸福だと感じていないのに、どうして敢えて引き摺りこもうとする伝道が実ると思えるのだろうか。今一つ別の問いをすると、私達がいう祝福とは何だろうか。一方で祝福の世界化がなされてきた訳だが、一方では二世祝福という祝福家庭の子女同しであるべきという選ばれし者としての特殊化、選別化がある。私の頭ではそれをどう論理的に理解すべきなのか、一世の祝福と二世の祝福は同じ祝福ではないのかという問いがあって未だにわからない。子供にも二世祝福を受けさせたいという親としての感情があってそれは否定できないけれども、しかしよくわからない。前の問いに返ると、伝道して祝福に繋げることが第一関門であるけれども、真の父母を真の父母として受け入れなければ祝福は真の父母から受けるものであるからなりたたない。伝道と祝福、伝道から祝福へ、祝福のための伝道、という認識があるから教会としては抱え込むことの伝道であっても、すなわち伝道が方便であっても良しとされるのだろうけれども、伝道方式、というより伝道に対する認識が旧来と変わらなければ2020年に向けての爆発的伝道は絵に描いた餅でしかないように思える。確かにフィリピンのように指導者が復帰されることで組織丸ごと祝福を受けるということもあり得る訳だが、取り敢えず祝福を受けさせてみ言葉教育を後に回すとなると、キャンディー祝福のように祝福を与えたけれども何の戦力にもならない(霊的にどのような意味があるのかは別)ということになってどれほど発展が見込めるのかはわからない。私達には祝福に対する思い込みがある。それは霊的な感性が芽生え霊的に理解する程度が高まるにつれて真の父母様が与える祝福本来の意味に修正されるはずだが、思い込みは確かにある。この思い込み故に祝福本来の恩恵を受けたり与えたりできない部分もあるけれども、逆に思い込み故に祝福が祝福として護られている部分もある。おそらく私達の祝福に対する思い込みから、キャンディー祝福をどう理解していいものやらわからずじまいの食口が殆どだと思うが、きっと将来的には解けないものが解けていくはずだし、思い込みから解放される日が食口にも訪れるはずだ。しかし現段階に於いては教会に属することによって、そして教会祝福を受けることによって、受け取れる恩恵もあるし知らずに排除してしまう恩恵もきっとあるはずだ。もし超宗教の位置で祝福が与えられるのであれば、教会に属さなくとも真の父母を認めれば祝福に与れるはずだが、教会を通さなければ為されない祝福式があり、それを祝福だという認識(思い込み?)もある。天地人真の父母定着実体み言宣布大会で述べられておられるラスベガス特別宣布に、天はすでに重生と復活の昇華権の恩賜を家庭単位まで許諾されたとある。我々が言うところの結婚祝福は重生であり、そうであれば祝福権は祝福家庭が持っていることになる。しかし自分のところは教会の祝福式以外で祝福したという話は聞いたことがないし、それを教会は祝福とも認めないだろう。しかし結局は氏族的メシヤといわれるように、メシヤの称号を与えられたのだから私の家庭に於いてどう認めるかで決定されるものであり、天はそれを許諾されるように思えるのだがどうだろうか。超宗教と言われながら、教会の縛りは現実にある。しかし敢えて言っておくべきだが、その縛りが悪だとは言えない。

2014年3月12日水曜日

現実を自分の友とする

どうすることもできない現実に対して、仕方がないという気分になり、当然の如くにそういう自分状態を許したままでいる。現実は現実だけれども、現実の悲観的側面にだけ光を当てていて、希望的側面を見ようとしない頑なな自分があり、現実対処への問題がそこにあるということに気付かない場合が往々にしてある。仕方がないという気分が自分の中にも蔓延し、家庭にも蔓延し、教会にすら蔓延している状況がある。犠牲的精神はもともとが悲観的なものだろうか。為に生きる、与えて忘れるという犠牲的精神を立てようとする統一食口は、どこまでも悲観的であることを運命付けられているのだろうか。悲観的というより悲壮的と言った方がいいのかも知れないが、犠牲的精神に立った過去の聖賢聖者達は悲壮的な気分のみで自己を覆っていたとはどうしても思えない。彼らの中に仕方がないという気分はおそらくなかったはずだ。そんな気分が犠牲的行為に駆り立てる衝動に発展するとはとても思えない。では彼らは一体どんな気分で自己を覆っていたのだろうか。死に面しても希望的側面だけに光を当てて突き進んでいったのだろうか。神懸かり的にそうなれるものだろうか。私が今想起して唯一犠牲的行動に喜びが見出せるとしたら、妻の為ならそうなれるだろうし、子供の為ならそうなれる。妻に対しても子供に対しても私は避けられても愛したいというものがあり、そこには仕方がないという悲観的な気分は微塵もない。愛でひとつになっており愛の一体圏がその気分を一掃している。ここに至って微かな御父様の言葉を思い出す。確かこの苦難が友達だとか、死ですら友達だとか、そんなニュアンスのみ言葉だったような実にあやふやなものなのだが、現実を愛で対処しようとするのであればそういった感覚を蘇らせるべきだろう。この過酷で残酷な現実を友達にしてしまえば現実が希望的側面を差出してくれるかも知れない。哀しみを友とするという言葉は確実にみ言葉としてあるはずで、仕方がないという或る意味突き放した感情は愛の対象としては認めてはいない感情だが、甘受しようとする感情は愛としての意志が込められていて、甘受することで驚きの希望的側面を差出すはずだ。この現実こそが私の友達だ。

今日の想い 710

人生は苦悩の連続であり、この世は苦界であり苦海だ。人間が心魂の存在であればこその苦悩であり苦海なのだが、心魂活動である知情意、そして喜怒哀楽はそれが生きる全てであるはずで、喜び楽しむ人生のみを誰もが願うけれども、しかし人間が心魂の存在である以上に霊の存在であることを多くの者達は知らずにいる。そして私達も学んだはずなのに忘れている。霊の存在としての私は、心魂の存在とだけ私を認識している立場とは大きく異なり、怒る経験も哀しむ経験も、さらに犠牲的な経験までも霊の存在として必要であり更に願ってもいるという事実がある。この世に生まれ出でて、生まれながらの悲運に生きる者達がいるのであり、心魂の存在としては願わないのは当然でも、霊の存在として願うからこそ宿命的悲運の運命を携えて生きている者もいる。地上人としては想像を絶する御父様の過酷で残酷ともいえる人生は、御父様の心魂を八つ裂きにしただろうし常に下ろし金で磨り潰される毎日の連続であったはずだ。誰一人御父様に代わってその悲運極まりない宿命の道を歩もうとする者はいないだろうし、できるものでもない。それを受動的な認識で受け取るなら恨み百倍千倍にならざるを得なかったはずが、御父様は主体的な認識で自分が敢えてそれを望み神様に代わって宿命的道を歩みたいと意志する自分を創造された。心魂を越えた霊の位置であり、霊の位置をも越えた神の位置に立たれた御父様だ。私達は御父様に出会い全てを捧げる者であるなら、この世は苦悩の連続であり苦海だという心魂世界にのみ生きる存在を超えて、さらに霊の存在をも超えて、御父様の宝座を内なる世界に用意して御臨在していただく神霊の存在だと、そう言える程に、み言葉によって内なる太い柱を立てる者となる。私という存在は一人ではなく一柱であると、それでこそこの世の苦海を一刀両断できる鉄の杖となって、モーセが象徴的な杖で紅海を割ったように、私達は実体的な鉄の杖となってこの世の苦海を割って前進する。

2014年3月11日火曜日

霊の存在、自由の存在、御父様一体圏の存在

人間は本来自由な存在だ。霊の存在であることが既に自由な存在だ。この地上で肉体という枷の中に生きているけれども、人間の形姿と形態は自由な存在である人間を最大限に表現しているし、表現できるようになっている。しかし人間は堕落してはっきりとした霊の存在とも言えず、自由の存在とも言えない。人間は地上に生きて魂の試練を経験する。波立たぬ、至って平穏な心魂生活でありたいと望むとしても、試練は自由の前進的側面であり、自由な存在でありたいと意志するなら試練は付きものだ。責任のない自由がないように、試練のない自由もない。自由な存在であり続けるという時間経過の中に人間を見る時、過去に対する責任と未来に対する試練は逃れられないし、それを逃れたいというなら自由存在であることを返上すること、それはすなわち一塊の動物として霊の存在であることを否定し知情意の魂を捨てることだ。試練を越えれば越えるほど、試練が大きければ大きいほどより自由な存在になれるのであり、自由の翼は試練をして鍛えられていく。しかし堕落人間は霊ともいえない霊を基とする軟弱な心魂であり、試練を超えようとするより感覚的な刺激をより好むという堕落性があって、その心魂を霊的に見るなら、光り輝くというより鈍い光を放つに留まっている。人間が堕落し、私が堕落人間であることの知的理解は、私が霊的無知であることで認識できる。自由という概念は霊的精神的概念であり、自由の概念が私の中に本当にあるならば、私が霊的知に目覚めて堕落圏を越えたと認識できるはずだ。私は自由な存在だとはっきり言えるのは自由な気分にあるときではなく、如何なる試練を前にして乗り越える決意と覚悟を私の中に見出すことができれば、私は既に自由な存在だ。そしてそれは死を乗り越え如何なる作用にも屈しない核を持った霊の存在だ。御父様の霊を私の中に宿した存在だ。差し出す決意と覚悟が本当にあると自覚できるなら、それは堕落人間から発するものではない。私の中に御父様が生きておられ、御父様の衝動として決意と覚悟が発せられる。それでこそ私という存在は霊の存在であり、自由の存在であり、そして御父様と一体圏にある存在だ。死生決断、決意と覚悟が自分の中にはないと言うなら、御父様は私の中にはおられない。食口が食口であることは、彼や彼女のなかにみ旨に対する決意と覚悟が見られるかどうかを見定めて、それが見届けられるなら、御父様の血統圏にある私と同じ兄弟であり、同じ姉妹だ。パウロがキリストを自分の中に宿し、キリスト衝動として発するものに従ったように、私達統一食口は、御父様を自分の中に宿し、復帰の執念ともいえる御父様御自身の衝動として発するものに従ってこそ統一食口だ。

2014年3月10日月曜日

今日の想い 709 (UCI 問題)

マタイ伝に、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい、とある。UCIが奪った教会の財産はUCIのものだとは誰も認めない。UCI当人がどう説明したって言い訳でしかない。教会に献金された尊い万物が正しく使われていないということが前提としても、泥棒が盗んだものを奪ってそれを自分の所有だとは誰も言えないのと同じことだ。もし彼らが、み旨のために正しく使うことが彼らにこそできると思っているなら、それは傲慢極まりない。返すべきものは先ず返すべきで、誰に返すべきかとなると、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返すべきだ。本来UCIがアセットを処分すべきではなかったしその権限もなかったし、しかし処分して金銭価値に変えてしまうと、何の負債もなく自分の所有にしてしまえるのが理解できない。献金の使途がおかしいと言うなら、先ず献金した人物に返すべきだ。良心に従えと叫ぶ彼らの良心を私は疑う。彼らが言うように、教会が或る責任者によって牛耳られ責任者は私腹を肥やしてきたのだと言うなら、その責任者が外された時点で教会に返すべきものを、そんな気配は全く見受けられない。だからUCIは泥棒でしかない。どれほど尤もらしい原理的論理を指し示すとしても、どれほど御父母様を認めると口にしても、どれほど彼らが信仰的だとしても、所詮確信犯的大泥棒でしかない。そして教会財産を奪った大泥棒の配下でしかないUCIで働く食口達に対しては、生活の為に信仰と生命を売ったという小ユダの札を首に下げていて、それさえ気付かない彼らの哀れさを見る。彼らの目指す天国は私の地獄のようで、もし許しを得て本当に天国の門を潜るとしても、私ならその恥ずかしさの火に焼かれて居たたまれなく、御父様の御前は地獄以上の地獄と化すだろう。それでも彼らはそこを天国と言うのだろうか。彼らが何を生きる糧にし、何を御父様に差し上げようとしているのか全く分からない。彼らは言う。ビジネスはビジネス、信仰は信仰だと、、。そんな論理にもならない論理で自分を騙せるものだろうか。ビジネスから受け取る給与が発生し、給与で生活が成り立っている。よって生活は生活、信仰は信仰となる。生活と信仰が相容れないならそれは自分が矛盾性を敢えて内包させる破壊的自己であるし、その方向性の異なる生活と信仰に矛盾を覚えないと言うならそれは偽りの信仰だ。何某かの献金を教会に捧げてバランスを取っているのかも知れないが、天の父母様は乞食ではない。お金を要求されるのではなく精誠を願われる。差し出す献金が光り輝く精誠なのか、それとも顔を背けられる糞尿なのか、それを見分ける霊的に見る感性さえ翳ってしまっている。

今日の想い 708

総序にあるように、唯物思想は腐ったキリスト教社会の温床から芽生えた。かつては食口だった者が反教会を叫んだり、分派を起こしたり、更には教会を二分しかねないグループ派が出てきたりと、これらの問題は唯物思想がそうであるように教会の状態が温床になって芽生えたものだろう。外に出た彼らが教会が問題だと叫ぶのをそのまま天の父母様が耳を傾けるとは思わないが、実は教会の内部からその認識を持たない限り、真の愛による解決は見ない。法に訴え、力で屈服させるとしても、それは流血を取り敢えず止めなければならないという理由で正当化はできるとしても、それだけでは真の解決にならないことは、真の愛の教えであるみ言葉に立つ我々が一番よくわかっているはずだ。しかし口では真の愛だと言いながら、真の愛の属性でもあるはずの犠牲は払いたくないと、拒んで執着している現状がある。犠牲をどちらが払うか、相手が先ず自分に対して払うべきだとお互いが思い込んでいる。教会とグループ派の問題解決は、教会側はトップの責任者から順次犠牲を払い、それで外に出た食口への吸引力を高める必要があり、グループ派は組する一人一人が悔い改めて、そうすることで組織の足元から崩れていくようになる。共産主義が足元である民衆から崩れていったようにだ。それがアベルがアベルとして立つアベルの正道だ。アベルが先ず責任ある位置で犠牲を供えるべきだし、そのうえでカインが悔い改めるのが筋だと私は思っている。彼らがそうなった経緯は教会にもあったのは事実だろうし、ならばアベルの位置でカインに何の配慮もしない、天にとりなさないのであれば、教会も同じ歴史の失敗を繰り返すことになる。どちらの旗に従うかが先ず問われたから、私も先鋒を切って戦う姿勢を示したけれども、それだけで善しとされるのでは当然なく、次はアベルがアベルとして犠牲を供えることができるように働きかける必要があると思っている。教会がアベルとして立つのでなければ、或いは教会に代わる何かがアベルとして立たなければ、私達の歩みも積み上げてきたものも、総崩れになると思ったほうがいい。実は教会が温床となってカイン的存在が発生すると同時に、アベル的新生教会と言える存在が産み出されていると思っていて、それが御母様を中心とする新しい教会だという認識が私にある。既に御母様は多くの清算をされておられるし、責任者もどんどん変えておられる。グループ派はみ言葉の改悪だと騒ぎ、家庭盟誓を変え神様の呼称も変えるなどにイチャモンを付けるけれども、教会が何をするにしても全てが彼らが言う反御父様だと指摘する。御父様が敢えて霊界に赴かれ、御母様に託された意味を問わないなら、御母様を中心とする教会を旧来の同じ教会だと見て反対し尽すことで大きな誤りを犯すことになる。

2014年3月6日木曜日

病の現実に何を学ぶか

病に苦しむ食口は多いだろう。病に冒される原因の霊的事実がどうであろうと、病に苦しむ現実は逃れようがない。痛みや不安や落胆やら、それがどれほど残酷なものであろうと逃れようがない。救いのみ言葉は心霊の救い、魂の救いであって、直接的な肉体の救いとはならない。信仰の持ちようで肉体的救いを得た証しも、清平の霊界解放によって癒しを得た証しも、その食口にしてみれば肉的恩恵への感謝と信頼は揺るぎないものだろうけれども、未だ病に苦しむ食口は多いはずで、その彼らを不信仰だとは言えないし、蕩減が重いからだとも言えない。当人がどうすることもできない運命的なもの、宿命的なものはあるはずで、それを蕩減と受け取るか責任分担としての使命と受け取るか、どちらにしてもその重荷を背負う現実から逃れられない。私はというと清平摂理で癒しを受けたけれども、今度は妻が病に冒され、祈りもし祈願も出したが未だに逃れることができないでいる。正直なところ、妻も私も天に恨み事を言いかねないところまで弱り切っていて、一言でいいから妻が神様から捨てられていない事実を伝えて欲しいと切実に思っても、未だに妻に取っては黙したままの神様でしかない。残酷な現実、そしておそらく過酷な事実に放り投げられたまま、無情にも時だけが流れていく。病に苦しむ食口にとっての希望はどこにあるのだろうか。病の責め苦を甘受し続けることに疲れた食口の希望はこの地上生にはないのだろうか。この問いは私自身の切実な問いであり、よって感情を越えた位置で答えを出さなければならない自分を用意できないでいる。こと私自身の問題は、それが切実であればあるほど迷宮に迷い込む。だから敢えて答えを出そうとしないことが答えでもあって、苦しむ時には苦しむしかないし、落ち込む時には落ち込むしかなく、感情をそのままに受け取りながら時の流れに身を任す以外ない。敢えて原理的に理解しこの試練を乗り越えたという基準を求めるのでもなく、敢えてサタン的になって神様に恨みを申しつけるのでもない。感情世界にしろ思考世界にしろ、戦いの真っ只中に於いては、これが私の立てるべき感情であり立てるべき考えだと、闇雲に立てようとすれば立てようとするほど、その足腰を払いのけられてしまい被害は益々大きくなる。戦いの最中は感情も思考も柔軟な柳の様相になることで戦いを遣り過ごす必要がある。そこに翻弄されれば翻弄されるほどサタンの思う壺でサタンの餌食になってしまう。戦いの最中は悪神も善神も入り乱れる。

2014年3月4日火曜日

今日の想い 707

心魂世界では山を呑み尽すほどの大波が途切れることなく襲っている。第一波を避けても第二波が襲い、第二波も避けたとしても第三波が襲ってくる。地上にいる人間誰もがこの心魂の大波から逃れることはできない。それは霊界にいる霊人達が御父母様の到来によって、壁という壁、仕切りという仕切り、全てが取り払われた為に霊界自体が大きく揺れているからだ。霊界全体の揺れが地上人間の心魂世界へと、大波津波となって押し寄せているということだ。地上の物質世界に天変地異が見出されるのではなく、地上人間の心魂世界に上を下への大混乱が起こっているのであり、偽りの自分にしがみ付いている以上誰もが波に呑みこまれていく。物質的な波に呑みこまれれば犠牲となって物質的に終結するが、心魂の波に呑みこまれても終結を見ない。終結を見ないどころか度重なる大波に益々翻弄され続ける。波に抗うのではなく波に身を委ねれば浮かぶように、執着を捨て偽りの自分を捨てることでしか、心魂の波に翻弄され続けることから解放されることはないし、心魂の安らぎは訪れないだろう。天と地がひとつになる、霊界と肉界がひとつになるということは、その接点であり両界に跨っている人間の中に、特に接点の中の接点である人間心魂の中に、霊界の事実と肉界の現実の両方をどう抱え、相争うことのない、しかし妥協することもない統一的心魂、太平聖代を享受し幸福を享受できる心魂に変容させていけるかという問題だ。それは先天時代の人情時代とは全く異なる心魂様相であり、それは時代から時代の産道を潜りぬけて天情時代に相応しい心魂が用意されるのでなければならないのであり、それを簡単に言うなら為に生きる人生を願う心魂ということになる。統一的心魂は自体自覚を他体自覚にという意識転換が必要で、どういう歩みの形であっても為に生きるという意識ベクトルの180度方向転換が要求される。統一的心魂に変容するなら、どんな大波であってもそれを乗りこなすという姿勢や態度が変に構えることなく備わるのであり、そうなるともはや内向きで悶々とすることもなく、開放的心魂としてあらゆる現実も事実も取り込んで美味しく呑み込んでしまう。喜怒哀楽を美味しく呑み込んでしまう。

2014年3月2日日曜日

今日の想い 706

平凡な幸せを望んでいた。高望みを抱こうとしたわけでもなく、極々普通の幸せにありつければそれで良かったはずだ。平凡であり普通であると言うのは、周りを見て言える言葉だ。それぞれの人間もそれぞれの家庭も全て異なるのに、それでも平均的幸せを望んでいる。家族の皆が健康で、中睦まじく暮らし、中程度の生活を営んでいく。それがイメージする平均的幸せだ。しかし平均的幸せなど本当は妄想だろう。平均的幸せなどハナからない。人は幸福を求めて生きる存在だけれども、平均的幸せなどという概念はない。普通、幸せではないと思っている私を、羨んでいる別の誰かがいる。別の誰かはそんなことで不幸ぶる私を見て欲張りだと思っている。平均的幸せなどというものは、明日もこの地上に生きていて、あさってもこの地上に生きていて、更にその次の日も、そしてその次の日も生きていると、そう信じているからこそそんな観念を抱いてしまうのかも知れない。確実に三ヵ月後に死ぬ、一週間後に死ぬ、明日には死ぬということが確定していると、平均的幸せなど意味がなくなる。半永久的に生きる気分を前提にして幸福感を量っているから、平均的幸せがイメージとしてなりたつ。しかし一度は死の境地まで赴きながらも、境界線を越えることなく地上の存在に戻った人間にはそんな気分はないだろう。今日を生きていること自体が奇跡だと思えるはずだ。勿論今日が明日へと続き、日が重なるにつれて慣れてしまって生きることが普通になってしまうかも知れないが、それでも死から蘇ったばかりの人間は今日を生きることが奇跡のはずだ。健康が奪われ、平穏な日々が奪われ、平凡な幸せが奪われ、最初は怒り地団太を踏んでもがくしかないが、どうしようもないことがわかってくると寂寥感や愛の減少感に打ち沈む。そうして自暴自棄になる。しかし、そんな私はまだ偽りの自分に固執している。私から全てを奪われたとしても、それでも変わらない自分を見つけ、その変わらない自分こそ本当の自分だ。自暴自棄になるのは、変わらない自分、神様の完全対象としての自分を見出せず、偽りの自分に翻弄されるからそうなってしまう。何の偏見も、何の人間的(堕落的)感情も侵入されない、天の父母様との完全対象となり、天の父母様との一体圏こそ定着する私であり、愛と生命と血統もそこから湧きいずる。それはいつ儚く散るとも知れない平凡な幸せという妄想ではなく、絶対的幸福がその境地にある。

先天時代と後天時代

先天時代と後天時代はどう違うのだろうか。その違いがわかり、後天時代に入って多大な恩恵圏に入った私だと認識するに至っているだろうか。簡単に言うなら、その違いがわからないと思う者は、地上的な感性を主体として存在しているか、或いは地上的感性しかないと思って存在しているかのどちらかだろう。逆にその違いを認識する者は、霊的な感性を主体として存在している者達だと言うことができる。地上は時間と空間の枷がはめられて存在する物質世界であり、人間にとっては感覚世界だ。地上に存在している全ては時間と空間の法度から逃れては存在できない。それが、肉体を貰ってそれを着て生きているという意味でもある。肉体を着ているけれども私とあまりにも一体化している為に、肉体=私という観念で生きている者達が殆どだが、その観念で生きている以上、先天と後天の違いはわからない。肉体=私という観念は横的観念であり、完全にその観念に縛られると、心が上の位置であり体が下の位置にあるという縦的観念は導き出せない。人間それぞれが生活している基である観念に焦点をあてて先天時代と後天時代の違いを見るなら、地上に於いてはこの横的観念の揺らがなかったものが縦的観念が導き出せるようになったことを意味している。要するに心、更に言えば良心が主体であり、良心が上の位置にあって肉体が対象であり下の位置にある。この縦的観念が導き出せれば縦的に更なる広がりを見い出せ、良心が対象の位置で主体であり上にある存在を求めていける。良心の主体である神霊存在(神様?)を見い出せれば、肉体=私という観念から地上的空間世界しか認識しなかったものが、神様の頂点までに至る縦的な各段階(位相)に於いて横的な広がりの世界を認識していける。地上の現実にも生きるけれども段階的霊的事実のそれぞれのステージにも生きるという、立体的に生きる私に生まれ変わる。霊界があることは原理によって認めるけれども、地上的喜び、地上的幸せだけに執着して霊界や神様に地上的な事柄だけを要求し、霊的喜び、霊的幸せを無視するのであれば、肉体=私という観念で生きているこの世の者達と何ら変わりない。変わりないどころか原理を、御父様を、サタン的に利用していると言われても返す言葉がない。しがみ付いている地上的なものは抱える手を緩めて放してやるべきだ。犠牲は、抱えているものを無理矢理取り上げたなら、天が受け取れず祭物にはなれない。しかし執着を捨て、犠牲が祭物として供え物になるなら天は受け取り、換わりに思いもよらない贈り物を用意されるはずだ。胎盤にしがみついて生きていた胎児は、胎盤を放つことで新たな次元へのトンネルを潜り抜ける。地上という次元内であっても、私達は執着の一つ一つを捨てながら、新たな霊の段階へとステージアップしていく。最終的に地上人間は、地上界という胎盤を放ち、時空を超越した天上天国への次元トンネルを潜り抜ける。