2014年3月29日土曜日

私は消え去った群衆の中のひとりなのか。

原始キリスト教社会として芽吹かせた者達は、イエス様が地上におられる間のイエス様の元に集った多くの群衆達とは異なる者達だということを先ず理解すべきだ。ユダヤ教徒達がイエス様を槍玉に挙げたのは、イエス様の人心の吸引力にあったし、歴史もあり社会的影響力もあるユダヤ教社会が、ぽっと出のイエス様によって崩されるのではないかという不安がユダヤ教徒の彼らにあったからだ。それほどにイエス様のところに集う群衆は当時引きも切らない状況だった。しかしイエス様が処刑されることで押し寄せていた群衆達は一瞬で消え去った。イエス様の御側で仕えていた12弟子さへも散り散りになったのだから数多の群衆達は言うに及ばない。2000年のキリスト教を支えて発展させてきた力は、実はイエス様が処刑された後、復活されたイエス様によって感化を受けた者達から出発したのであり、新約の四大福音書がそれぞれで異なるイエス様を描いており、それは作者がより霊的に、より心魂的に見えるイエス様を描いたからであり、イエス様の具体的現実的な足跡がどうだったかは象徴的なものとして理解されても、キリスト教の霊的価値にとってはさして意味を為さない。奇跡を行ったという具体的現実的な御生存当時のイエス様に寄り添った群衆達には、後に評価されるイエス様の霊的な足跡など到底理解できなかったはずだ。時代が変わり、世相が変わった今でも、人心に於いては、特に群集的心理に於いては、イエス様が地上におられた当時とさして変ってはいない。私達は再臨のメシヤに出会い、そして信じ、そして慕い侍ってきた。しかし私達が出会い、信じ、慕い侍ってきたのは、肉体を持つ生きた生身の再臨のメシヤだった。要するに私達は、イエス様が処刑されるや否や一瞬で消え去った群衆達と同じ立場だということを先ず忘れてはならない。御父様が人間であり生身であっただけに、御父様の地上的なものに価値を置いて当然で、そうなると霊的価値を捉えようとはしなくなる。もちろんみ言葉を訓読すれば内的霊的言葉であるし、私達も地上的なものより霊的なものに価値を置いていると信じて疑わない。しかし本当にそうだろうか。群衆達が奇跡や肉身の癒しを得たいが為に寄り集ったと同じように、私達は本質的霊的意味もわからないまま、御父様の祝福、それも生きた体を持たれた御父様からの祝福を受けたいが為に寄り集っただけではなかったのか。その問いかけは御父様が聖和された今、ひとりひとりが霊的御父様から問いかけられ、自分自身でも問いかけているはずだ。奇跡や肉身の癒しを与えられて満足した群衆のように、祝福を受けた時点で既に満足したのなら、既に御父様が聖和された時点で、御心情からは離れている。もっと厳しい言い方をするなら堕ちている。あとは惰性で教会に行って献金し、習慣性で御父様を口にし、しかし実のところ霊として熱く燃えるものは心魂の中には消えてなくなっているか、燻ぶっている。祝福がどれほど尊く、それを戴いた私であると明言するなら、それに応じた歩みを、精誠を、犠牲を供えてこそ、その明言が私の明言だと証明できる。しかし食口の内のどれほどがそう言い切れる位置にいるだろうか。祝福を受けたことで、既に満足して終わっている者達が少なからずいる。

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