2014年3月17日月曜日

今日の想い 712

何とも孤独で、何とも寂しく、ルーシェルが越えられなかった愛の減少感に、今私と私の家族は浸っている。この孤独に浸りながら、この寂しさに浸りながら、それでも私はルーシェルとは異なっていて、抗うほどのルーシェルの知恵もなければ力もない。私が天の父母様に訴えたい想いがあったとしても、訴えることのできる条件もない。だからひたすら受け止める。甘受して抵抗を示さないのが私の在り様だ。いつ終るとも知れない孤独に耐えながら、哀しみに打ちひしがれながら、ある時からそれも限界点を越えたようで、別の感慨が芽生えてきた。孤独な神様を私が身を持って体験していると思えばいい、寂しさをどうすることもできなかった神様を体験していると思えばいい、そう思えるようになった。私には妻がいる。家族がいる。孤独と寂しさを共有する妻がいて、それで孤独と寂しさが半減するわけではないにしても、それでも妻と分かち合えることが私に許されていて、それが私の生きる幸せでもある。喜びを分かち合えればそれも生きる幸せだけれども、孤独と寂しさを分かち合えるのもまた違う幸せだ。要するに幸せは喜びこそが幸せだと思っていたけれども、ここまで生きてきて、孤独も、寂しさも、そして痛みも苦しみでさえも、分かち合えることそれ自体が幸せだと思えるようになった。更に言えば、孤独も寂しさも神様が味わっておられ、御父様も味わっておられ、だから私が孤独に浸り、寂しさに浸りながらそれは一人で浸っているのではなく神様と御父様と分かち合っているとも言える。そう思えたことで、私の孤独と寂しさは、通常の今までの孤独と寂しさとは次元が異なっている。天地人真の父母様が勝利して立たれ、神様は結婚されて天の父母様となられた。御父母様も喜びも哀しみも分かち合われ、天の御父様は天の御母様と喜びも哀しみも分かち合われる幸せをやっと手に入れられた。夫婦一体圏は仲良く笑って暮らすことだけではないだろう。お互いの想いを自分の事として分かち合えれば、泣いて暮らすにしてもやはり夫婦一体圏だ。妻は病と薬のせいで実年齢の二周りも年を重ねているように見える。私は頭髪の一部が薄いけれども、彼女の頭髪は全体が薄くさらに白い。体も枯れ木のように細り動きも随分遅くなった。取り敢えず体調を聞くけれども昨日よりは少し楽だと覇気のない声で呟く。それは今日だけの返事ではなく毎日聞くたびにそう応える。昨日もそう言ったよと告げると少し微笑む。元気だった頃の、妻のよく通る声が好きだったけれども、体調のせいで無口になった今では、この僅かの彼女の微笑みが一番好きだ。

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