2014年3月26日水曜日

今日の想い 714

霊的イエス様と聖霊によって霊的救いが為されるように、祝福による重生は御父様と御母様、御父母様によって為される。御父様の骨髄に入っていくだけでは祝福の血統の種のままだが、種は御母様の胎に着床し、御母様の養分を得て、御母様によって産み出される。ある期間まで御母様が御子女様を宿された状態で祝福式が行われたのは私達の重生と御母様の懐妊とに重要な関連があるからだ。私の伺い知れないところで、新しい私の霊が生まれることを信じれない我々であることは、人間として霊的存在であるにも関わらず霊的無知であり霊について殆ど認識できない者達にとっては当然かもしれない。ヨハネ伝にこうある。「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなければならないと、私が言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者もみな、それと同じである。」 これはニコデモが「人が年を取って生まれることがどうしてできますか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」の疑問をイエス様に投げ掛けた時の答えだ。どうしてそんなことが有り得るのかと更に問い詰めると、イエス様は、教師なのにそんなこともわからないのかとたしなめられた。夜昼の神様について御父様に尋ねられた方がおられて、その時、御父様は既に説明済みだとして不機嫌になられたことがある。当時のイエス様もそれと同じだ。堕落人間にとっては説明が雲を掴むような事柄であって、イメージできる実体がないからリアル感がない。ようするに霊的なものがわからないから満足のいく理解の仕様がない。だからこそ霊的に見えないもの、わからないものに対する信仰が要求されるのであって、更に信じるのは当然で信仰を越えて侍る心魂を用意するのでなければ、み旨の道を進むことはできない。見えなくて当然、わからなくて当然ではあるけれども、問い続けることは重要で、肉体の実感を通して象徴的な霊的事実を、心魂の実感を通して形象的な霊的事実を把握することはできる。愛という概念も、肉体的愛は理解できるし心魂的愛も理解できる。しかし真の愛となると象徴と形象を通して霊的愛を紐解けるようにならなければ理解はできない。生命という概念も、肉体的生命は理解できる。そして心魂的生命も曖昧ではあるけれども理解できる。しかし真の生命となると霊的生命を紐解いて理解する必要がある。真の血統もまたしかりだ。象徴的である肉体的現実を霊的事実そのままだとすることはできないように、象徴的である肉体的血統イコール霊的血統だとは言えないと思っている。将来的には全人類が御父様の肉体的血統圏に属するようになると言えるとしても、御父様の肉体的血統に繋がることでしか真の血統圏には入れないと言うことはできない。

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