2014年3月17日月曜日
今日の想い 711
逝くなら逝くでジタバタせず、醜い姿を見せずに逝く。生きて朝に晩にジタバタして、さらに死ぬときでさへもジタバタするのは美しくない。統一精神として美しくない。御父様を証ししきれない歩みなら、罪多く悔い改めることの多い歩みなら、せめて最後だけでも美しく、御父様の息子娘だと誇れるようでありたい。史吉子先生のみ言の証しにこうあった。食口は先祖の功労がないから、先に復帰されてみ旨の為に人一倍苦労するようだ。功労がないからこそ御父様に出会えたという、何とも逆説的であるけれどもそれでこそ御意だろう。善人ですら往生するのに悪人なら尚更往生するという親鸞の逆説的教えと同じで、そこが奥妙な働きをされる神様故のことだと不思議と納得するものがある。私も妻も生きることに執着し続けながら、さして生きて何ができる訳でもなく、生きて何をしたい訳でもなく、み旨の為に生きたいと言えるほど信仰に燃える訳でもなく、この世の者達と同じように、いやそれ以上に生きることに執着している自己中心的で大馬鹿者であり大罪人だ。そして大罪人ほど生き永らえる。ジタバタしながら、病を抱えながら、悶々としながら生き永らえる。本当の功労者は綺麗に、美しく、そして静寂の彼方に吸い込まれるように天に昇る。未練たらしく地上の生に執着するのは醜い。自分の醜さを嫌というほど見続けてきた。そうであるにもかかわらず、それでも地上生に執着している。地上では尤もらしい言葉を並べているけれども、天国の隅ではできるだけ目立たないように腰を屈め、遠目に御父様を確認できるかできないかの位置でひっそりと佇んでいるだろう。しかしそんな私であっても、せめて逝くときぐらいは美しく、そして潔く天に昇って逝きたいと思う。生きて何ができるわけでもないからせめてその時の準備をと思いながら、信仰者の体(てい)で、み言葉を理解している体で、御父様を慕い侍る体で、醜い自分を生きている。天の父母様はこんな私に声などかけられるはずがない。願いに応えられるはずがない。そんなことは分かっていて、相も変わらずジタバタしながら生きている。死に切れなくて生きている。人間は執着して、執着して、さらに執着して、これ以上固まれないほどの自己中心的塊となり、やがて瓦解して崩壊する。結局は行き着くとこまで行かない限り、他体自覚に向かおうとはしない。私という自己中心のオバケに辟易しながら今日も生き延びてしまった。昨日、朝に生まれて夕に死んだ。今日も朝に生まれて夕に死んでいく。そして、もし明日に生まれることを許されるなら、朝に生まれて夕に死んでいく。しかし来る日も来る日も、願いに応えきれずに、死に損ないのまま今日を終える。
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