2014年3月17日月曜日

私のみ旨

私のみ旨が何であるかを明確に認識しなければならない。責任分担として或るミッションに歩む、献金が願われているから献金する、伝道が願われているから伝道する、それらはみ旨だとして為していると思っているかも知れないが、私のみ旨という認識が本当にあるだろうか。家庭教会が願われた。環故郷が願われた。そして今訓読教会が願われている。御父様が私達に与えて下さったこのみ旨と、今歩んでいるミッションや献金、伝道がどう繋がりを見せるのか。今自分が歩んでいること、歩んでいる生活環境圏が先ずありきで、その基台の上で献金や伝道をしているのなら、家庭教会も環故郷も、そして訓読教会も、それは御題目に過ぎないだろう。御父様の願いに応えているつもりの私を信じているだけで、実は私のみ旨とは関係がない。どれほど献金しようが、どれほど自叙伝を配ろうが、それは私のみ旨とは直接に関係がない。私のみ旨が何かを考えた時に、それが認識できるその基台作りとしての歩みも大きくはみ旨だと言えるとしても、それは復帰摂理ではなく復帰基台摂理という蘇生段階であり、何年経っても蘇生段階であり続けることが本当に私のみ旨なのかを考えてみるべきだ。確かに伝道に燃えて一人一人復帰した人々を祝福し、氏族圏へと束ねていくことで160(180)家庭が為せるかもしれない。しかしその認識は今までの意識と何ら変わりないし、それで実った実績があるならまだしも結局は御題目に過ぎなかったと言わざるを得ない。その低空意識を延長させても先は見えていて、結局は何もできなかったで一生を終えてしまう。私のみ旨を明確にすべきだ。御父様が私の御父様であるなら、私のみ旨が明確にされて当然だ。御父様の天一国のブループリントが明確であるように、私のみ旨のブループリントも明確であり、それで初めて創造工程としての歩みが生きてくる。ブループリントがないまま、闇雲に献金し伝道へと駆り立てても、果たして結果が出せるものかどうか、或る程度出せたとしてそれが私の天一国、私のみ旨と言えるのかどうか。人類全てが歩まなければならない典型路程がある。ヤコブの路程は象徴的路程であり、モーセ路程は形象的路程であり、そしてイエス路程は実体的路程としての典型路程だ。ヤコブはハランからカナンへ、モーセはエジプトからカナンへ、イエス様はエジプト批難から再入国へ、そして私達は環故郷へ、それは復帰摂理として残された人類の宿命的歩みだ。しかし何も持たずに厄介者として環故郷しても証しは立たない訳で、与える何かがなければ復帰は絵空事だろう。万物と奴隷を携えたヤコブ、幕屋と契約の箱を携えたヨシュア、霊的救いをもたらしたイエス様、そして私達は何を携えて環故郷し、アベルの位置を確立し、父母となり王となるか。いきなり父母の位置で祝福を与えるとしても気持ち悪がられて終わりだろう。受け売りのみ旨ではなく、私のみ旨として明確に立てるものがあるかどうかが全てを決定する。

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