2014年3月22日土曜日

今日の想い 713

先の試練が治まる間もなく次の試練がやってくる。それも突然やってきて体も心魂も振り回される。もはや何とか把握して対処しようとする私を完全に捨てない限り、ようするに振り回されるために存在しているのであり、希望や明日を覗き見ることすらできない私だと諦めない限り、この地上存在であることも否定したくなる。自分がこれほどに弱い存在だったのかと押し寄せる試練の度に思わされる。思わされるも何も、天に恨み事を言い、逃げ回ろうとし、弱者特有の堕落性が心魂から染み出て払拭することができない。唯一の救い、と言うより一縷の救いは、試練を体そのもので受け取る妻がサタン的ではないと言うことだ。前にも触れたけれども彼女は物事を先ず外的に捉える。その意味では決して信仰的ではないが、恨み事は薬に言うし医者に言う。私はと言うと先ず内的に捉える。内的に捉えるから信仰的ではあるけれども、恨み事が出てくれば背後の霊的存在に感情をぶちまけ更に天に訴える。本当に厄介な存在は唯物主義者ではなく、内的霊的なものを認め、しかし中途半端な認識に留まっている信仰者で、中途半端なものだから本質を捉えることなしに愛の反動としての恨みをぶちまけてしまう。グループ派にしろ分派にしろ、一度は教会を受け入れながら反対派に回ったのは、み言葉の本質を受け取れずに中途半端な霊界認識、神様の認識、真の父母への認識がそうさせる。では教会に留まっている者達はみ言葉の本質を受け取った者達かというと、それもまた違うだろう。教会に留まっている食口の多くは、或る意味自分の理解の認識を曖昧にしたまま、中心から下ろされる認識に「さもありなん」と乗っかっているだけの場合が多い。自分の認識は曖昧だから、中心からの認識に整合性があろうが無かろうがそれはどうだっていいことになる。教会が強い吸引力がないという問題は、真理を本来どう認識するかはそれぞれの課題であるにも拘らず、その認識を中心者に丸投げして、中心者の認識を自分の認識にしてしまったことにあるだろう。中心者の認識が間違っていなければ差ほど問題は起こらなかったかも知れないが、多くの中心者は口に長け論理に長け、よって実践現場主義の叩き上げで責任者になったのではなく、頭の良し悪しで責任者になった者達の方が多い。しかし愛は論理ではなく実践だ。要するに実践を、俗に言うところのカインに任せてしまって、頭でっかちの責任者は口を出すだけになってしまった。打たれ強い統一教会であり、私も打たれ強いと信じて疑わなかったが、私自身も中心者をどうこう言える立場にはなく、実にみ言葉の実践ではなく論理の部分だけで人生を理解し、摂理を理解し、霊界や神様を理解したような錯覚に陥っていた。私もひとりの甘やかされた原理坊やに過ぎなかったと言うことだ。どんなにみ言葉の知識が豊富であっても、み言葉が知識である以上、小さなただ一つの試練さへも越えることはできない。み言葉は知識として受け取るものではなく、実践ツールとして受け取るものだろう。それでこそ知識ではなく認識を、み言葉の鞘ではなく本質を受け取るのであり、実践の中でこそ心情は相続されるはずだ。み言葉が未だに知識の部分、即ち頭で理解している部分を徹底的に壊されるまで、私の試練は絶えることは無い。試練の前に知識のみ言葉なぞ何の力にもならない。み言葉の本質、み言葉の生命こそが試練の波を打って割ることができる。

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