2014年3月10日月曜日

今日の想い 709 (UCI 問題)

マタイ伝に、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい、とある。UCIが奪った教会の財産はUCIのものだとは誰も認めない。UCI当人がどう説明したって言い訳でしかない。教会に献金された尊い万物が正しく使われていないということが前提としても、泥棒が盗んだものを奪ってそれを自分の所有だとは誰も言えないのと同じことだ。もし彼らが、み旨のために正しく使うことが彼らにこそできると思っているなら、それは傲慢極まりない。返すべきものは先ず返すべきで、誰に返すべきかとなると、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返すべきだ。本来UCIがアセットを処分すべきではなかったしその権限もなかったし、しかし処分して金銭価値に変えてしまうと、何の負債もなく自分の所有にしてしまえるのが理解できない。献金の使途がおかしいと言うなら、先ず献金した人物に返すべきだ。良心に従えと叫ぶ彼らの良心を私は疑う。彼らが言うように、教会が或る責任者によって牛耳られ責任者は私腹を肥やしてきたのだと言うなら、その責任者が外された時点で教会に返すべきものを、そんな気配は全く見受けられない。だからUCIは泥棒でしかない。どれほど尤もらしい原理的論理を指し示すとしても、どれほど御父母様を認めると口にしても、どれほど彼らが信仰的だとしても、所詮確信犯的大泥棒でしかない。そして教会財産を奪った大泥棒の配下でしかないUCIで働く食口達に対しては、生活の為に信仰と生命を売ったという小ユダの札を首に下げていて、それさえ気付かない彼らの哀れさを見る。彼らの目指す天国は私の地獄のようで、もし許しを得て本当に天国の門を潜るとしても、私ならその恥ずかしさの火に焼かれて居たたまれなく、御父様の御前は地獄以上の地獄と化すだろう。それでも彼らはそこを天国と言うのだろうか。彼らが何を生きる糧にし、何を御父様に差し上げようとしているのか全く分からない。彼らは言う。ビジネスはビジネス、信仰は信仰だと、、。そんな論理にもならない論理で自分を騙せるものだろうか。ビジネスから受け取る給与が発生し、給与で生活が成り立っている。よって生活は生活、信仰は信仰となる。生活と信仰が相容れないならそれは自分が矛盾性を敢えて内包させる破壊的自己であるし、その方向性の異なる生活と信仰に矛盾を覚えないと言うならそれは偽りの信仰だ。何某かの献金を教会に捧げてバランスを取っているのかも知れないが、天の父母様は乞食ではない。お金を要求されるのではなく精誠を願われる。差し出す献金が光り輝く精誠なのか、それとも顔を背けられる糞尿なのか、それを見分ける霊的に見る感性さえ翳ってしまっている。

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