2014年3月12日水曜日

現実を自分の友とする

どうすることもできない現実に対して、仕方がないという気分になり、当然の如くにそういう自分状態を許したままでいる。現実は現実だけれども、現実の悲観的側面にだけ光を当てていて、希望的側面を見ようとしない頑なな自分があり、現実対処への問題がそこにあるということに気付かない場合が往々にしてある。仕方がないという気分が自分の中にも蔓延し、家庭にも蔓延し、教会にすら蔓延している状況がある。犠牲的精神はもともとが悲観的なものだろうか。為に生きる、与えて忘れるという犠牲的精神を立てようとする統一食口は、どこまでも悲観的であることを運命付けられているのだろうか。悲観的というより悲壮的と言った方がいいのかも知れないが、犠牲的精神に立った過去の聖賢聖者達は悲壮的な気分のみで自己を覆っていたとはどうしても思えない。彼らの中に仕方がないという気分はおそらくなかったはずだ。そんな気分が犠牲的行為に駆り立てる衝動に発展するとはとても思えない。では彼らは一体どんな気分で自己を覆っていたのだろうか。死に面しても希望的側面だけに光を当てて突き進んでいったのだろうか。神懸かり的にそうなれるものだろうか。私が今想起して唯一犠牲的行動に喜びが見出せるとしたら、妻の為ならそうなれるだろうし、子供の為ならそうなれる。妻に対しても子供に対しても私は避けられても愛したいというものがあり、そこには仕方がないという悲観的な気分は微塵もない。愛でひとつになっており愛の一体圏がその気分を一掃している。ここに至って微かな御父様の言葉を思い出す。確かこの苦難が友達だとか、死ですら友達だとか、そんなニュアンスのみ言葉だったような実にあやふやなものなのだが、現実を愛で対処しようとするのであればそういった感覚を蘇らせるべきだろう。この過酷で残酷な現実を友達にしてしまえば現実が希望的側面を差出してくれるかも知れない。哀しみを友とするという言葉は確実にみ言葉としてあるはずで、仕方がないという或る意味突き放した感情は愛の対象としては認めてはいない感情だが、甘受しようとする感情は愛としての意志が込められていて、甘受することで驚きの希望的側面を差出すはずだ。この現実こそが私の友達だ。

0 件のコメント: