2014年3月10日月曜日

今日の想い 708

総序にあるように、唯物思想は腐ったキリスト教社会の温床から芽生えた。かつては食口だった者が反教会を叫んだり、分派を起こしたり、更には教会を二分しかねないグループ派が出てきたりと、これらの問題は唯物思想がそうであるように教会の状態が温床になって芽生えたものだろう。外に出た彼らが教会が問題だと叫ぶのをそのまま天の父母様が耳を傾けるとは思わないが、実は教会の内部からその認識を持たない限り、真の愛による解決は見ない。法に訴え、力で屈服させるとしても、それは流血を取り敢えず止めなければならないという理由で正当化はできるとしても、それだけでは真の解決にならないことは、真の愛の教えであるみ言葉に立つ我々が一番よくわかっているはずだ。しかし口では真の愛だと言いながら、真の愛の属性でもあるはずの犠牲は払いたくないと、拒んで執着している現状がある。犠牲をどちらが払うか、相手が先ず自分に対して払うべきだとお互いが思い込んでいる。教会とグループ派の問題解決は、教会側はトップの責任者から順次犠牲を払い、それで外に出た食口への吸引力を高める必要があり、グループ派は組する一人一人が悔い改めて、そうすることで組織の足元から崩れていくようになる。共産主義が足元である民衆から崩れていったようにだ。それがアベルがアベルとして立つアベルの正道だ。アベルが先ず責任ある位置で犠牲を供えるべきだし、そのうえでカインが悔い改めるのが筋だと私は思っている。彼らがそうなった経緯は教会にもあったのは事実だろうし、ならばアベルの位置でカインに何の配慮もしない、天にとりなさないのであれば、教会も同じ歴史の失敗を繰り返すことになる。どちらの旗に従うかが先ず問われたから、私も先鋒を切って戦う姿勢を示したけれども、それだけで善しとされるのでは当然なく、次はアベルがアベルとして犠牲を供えることができるように働きかける必要があると思っている。教会がアベルとして立つのでなければ、或いは教会に代わる何かがアベルとして立たなければ、私達の歩みも積み上げてきたものも、総崩れになると思ったほうがいい。実は教会が温床となってカイン的存在が発生すると同時に、アベル的新生教会と言える存在が産み出されていると思っていて、それが御母様を中心とする新しい教会だという認識が私にある。既に御母様は多くの清算をされておられるし、責任者もどんどん変えておられる。グループ派はみ言葉の改悪だと騒ぎ、家庭盟誓を変え神様の呼称も変えるなどにイチャモンを付けるけれども、教会が何をするにしても全てが彼らが言う反御父様だと指摘する。御父様が敢えて霊界に赴かれ、御母様に託された意味を問わないなら、御母様を中心とする教会を旧来の同じ教会だと見て反対し尽すことで大きな誤りを犯すことになる。

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