2014年3月25日火曜日

み旨に対する意識の目覚め

先天時代、私達統一食口はみ旨に対しては夢模様の中に生きていた。何も理解していなかったにも拘らず、み旨が何かも曖昧であるのに、それでもみ旨に燃えて生きてきた。私の霊が燃えたのではなく私の体と心魂を預けていた霊的存在がみ旨に燃えて生きたのであって、私の霊は夢模様の中に、すなわち体と心魂を預けている霊的存在に意識も預けて生きてきた。それが先天時代の食口の在り様だったと言えないだろうか。だから先天時代の私と、後天時代の私とは明らかに異なっていなければならない。み旨に対して目覚めた部分もあるし、今目覚めようとしている部分もあるけれども、意識の違いが見えなければならない。後天時代は開闢時代でもあるけれども、開闢とは個体それぞれに於いては意識の目覚めとなる。それでは、先天時代私達が夢模様の中に生きていたように、原理を知らないこの世の者達も夢模様の中に生きていたのかと言うと、この世の者達はみ旨に対して夢を見るほどの意識程度も備えられてはおらず完全に眠っていた。それを原理の言葉でいうと、完全なサタン圏にあると言うことができる。勿論私達もサタン圏から脱していた訳ではないが、少なくとも夢を見ることができる意識程度は備えていたということだ。しかし後天時代に入って夢から覚めようとすると、すなわち霊界と地上界の一致、霊肉一致の時代を生きようとすると、み旨の観点から意識とは何かをわからなければ、この時代を主観的、創造的に生きることはできない。旧約、新約、成約時代と分ければ、旧約は象徴的時代、新約は形象的時代、成約は実体的時代であるように、完全な睡眠という無意識、夢見る意識、そして目覚めた意識という意識の三段階があり、み旨に対する意識も、完全なるサタン圏内でみ旨に対して想像すらできなかった眠った状態、夢模様の状態、そして目覚めた状態がある。後天開闢時代は人類がみ旨に対して目覚めた意識を持つべきなのは確定的なので、眠った者達は、私達が御父様と共に歩んだと思っている夢模様の状態から目覚めた状態へ移行するのではなく、眠った状態の者達は突然に目覚めさせられるだろう。イエス様と共に歩んだ経験のないパウロに突然神霊が働きかけたように、或いは肉欲に溺れふしだらな生活を送っていたアウグスチヌスに読めという言葉に誘われ、手元に合ったローマ人への手紙を読むことで回心したように、突然に目覚めされられる。問題は夢模様の食口達で、夢見る状態から目覚めるためにはどうしたらいいのかだ。み旨に対する夢模様状態に固執して目覚めることを拒むなら、私達はカナンの地目前で荒野で死んでいったイスラエル民族と同じ運命を辿ってしまうだろう。

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