2014年3月12日水曜日

今日の想い 710

人生は苦悩の連続であり、この世は苦界であり苦海だ。人間が心魂の存在であればこその苦悩であり苦海なのだが、心魂活動である知情意、そして喜怒哀楽はそれが生きる全てであるはずで、喜び楽しむ人生のみを誰もが願うけれども、しかし人間が心魂の存在である以上に霊の存在であることを多くの者達は知らずにいる。そして私達も学んだはずなのに忘れている。霊の存在としての私は、心魂の存在とだけ私を認識している立場とは大きく異なり、怒る経験も哀しむ経験も、さらに犠牲的な経験までも霊の存在として必要であり更に願ってもいるという事実がある。この世に生まれ出でて、生まれながらの悲運に生きる者達がいるのであり、心魂の存在としては願わないのは当然でも、霊の存在として願うからこそ宿命的悲運の運命を携えて生きている者もいる。地上人としては想像を絶する御父様の過酷で残酷ともいえる人生は、御父様の心魂を八つ裂きにしただろうし常に下ろし金で磨り潰される毎日の連続であったはずだ。誰一人御父様に代わってその悲運極まりない宿命の道を歩もうとする者はいないだろうし、できるものでもない。それを受動的な認識で受け取るなら恨み百倍千倍にならざるを得なかったはずが、御父様は主体的な認識で自分が敢えてそれを望み神様に代わって宿命的道を歩みたいと意志する自分を創造された。心魂を越えた霊の位置であり、霊の位置をも越えた神の位置に立たれた御父様だ。私達は御父様に出会い全てを捧げる者であるなら、この世は苦悩の連続であり苦海だという心魂世界にのみ生きる存在を超えて、さらに霊の存在をも超えて、御父様の宝座を内なる世界に用意して御臨在していただく神霊の存在だと、そう言える程に、み言葉によって内なる太い柱を立てる者となる。私という存在は一人ではなく一柱であると、それでこそこの世の苦海を一刀両断できる鉄の杖となって、モーセが象徴的な杖で紅海を割ったように、私達は実体的な鉄の杖となってこの世の苦海を割って前進する。

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