2014年3月11日火曜日

霊の存在、自由の存在、御父様一体圏の存在

人間は本来自由な存在だ。霊の存在であることが既に自由な存在だ。この地上で肉体という枷の中に生きているけれども、人間の形姿と形態は自由な存在である人間を最大限に表現しているし、表現できるようになっている。しかし人間は堕落してはっきりとした霊の存在とも言えず、自由の存在とも言えない。人間は地上に生きて魂の試練を経験する。波立たぬ、至って平穏な心魂生活でありたいと望むとしても、試練は自由の前進的側面であり、自由な存在でありたいと意志するなら試練は付きものだ。責任のない自由がないように、試練のない自由もない。自由な存在であり続けるという時間経過の中に人間を見る時、過去に対する責任と未来に対する試練は逃れられないし、それを逃れたいというなら自由存在であることを返上すること、それはすなわち一塊の動物として霊の存在であることを否定し知情意の魂を捨てることだ。試練を越えれば越えるほど、試練が大きければ大きいほどより自由な存在になれるのであり、自由の翼は試練をして鍛えられていく。しかし堕落人間は霊ともいえない霊を基とする軟弱な心魂であり、試練を超えようとするより感覚的な刺激をより好むという堕落性があって、その心魂を霊的に見るなら、光り輝くというより鈍い光を放つに留まっている。人間が堕落し、私が堕落人間であることの知的理解は、私が霊的無知であることで認識できる。自由という概念は霊的精神的概念であり、自由の概念が私の中に本当にあるならば、私が霊的知に目覚めて堕落圏を越えたと認識できるはずだ。私は自由な存在だとはっきり言えるのは自由な気分にあるときではなく、如何なる試練を前にして乗り越える決意と覚悟を私の中に見出すことができれば、私は既に自由な存在だ。そしてそれは死を乗り越え如何なる作用にも屈しない核を持った霊の存在だ。御父様の霊を私の中に宿した存在だ。差し出す決意と覚悟が本当にあると自覚できるなら、それは堕落人間から発するものではない。私の中に御父様が生きておられ、御父様の衝動として決意と覚悟が発せられる。それでこそ私という存在は霊の存在であり、自由の存在であり、そして御父様と一体圏にある存在だ。死生決断、決意と覚悟が自分の中にはないと言うなら、御父様は私の中にはおられない。食口が食口であることは、彼や彼女のなかにみ旨に対する決意と覚悟が見られるかどうかを見定めて、それが見届けられるなら、御父様の血統圏にある私と同じ兄弟であり、同じ姉妹だ。パウロがキリストを自分の中に宿し、キリスト衝動として発するものに従ったように、私達統一食口は、御父様を自分の中に宿し、復帰の執念ともいえる御父様御自身の衝動として発するものに従ってこそ統一食口だ。

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