2014年3月6日木曜日

病の現実に何を学ぶか

病に苦しむ食口は多いだろう。病に冒される原因の霊的事実がどうであろうと、病に苦しむ現実は逃れようがない。痛みや不安や落胆やら、それがどれほど残酷なものであろうと逃れようがない。救いのみ言葉は心霊の救い、魂の救いであって、直接的な肉体の救いとはならない。信仰の持ちようで肉体的救いを得た証しも、清平の霊界解放によって癒しを得た証しも、その食口にしてみれば肉的恩恵への感謝と信頼は揺るぎないものだろうけれども、未だ病に苦しむ食口は多いはずで、その彼らを不信仰だとは言えないし、蕩減が重いからだとも言えない。当人がどうすることもできない運命的なもの、宿命的なものはあるはずで、それを蕩減と受け取るか責任分担としての使命と受け取るか、どちらにしてもその重荷を背負う現実から逃れられない。私はというと清平摂理で癒しを受けたけれども、今度は妻が病に冒され、祈りもし祈願も出したが未だに逃れることができないでいる。正直なところ、妻も私も天に恨み事を言いかねないところまで弱り切っていて、一言でいいから妻が神様から捨てられていない事実を伝えて欲しいと切実に思っても、未だに妻に取っては黙したままの神様でしかない。残酷な現実、そしておそらく過酷な事実に放り投げられたまま、無情にも時だけが流れていく。病に苦しむ食口にとっての希望はどこにあるのだろうか。病の責め苦を甘受し続けることに疲れた食口の希望はこの地上生にはないのだろうか。この問いは私自身の切実な問いであり、よって感情を越えた位置で答えを出さなければならない自分を用意できないでいる。こと私自身の問題は、それが切実であればあるほど迷宮に迷い込む。だから敢えて答えを出そうとしないことが答えでもあって、苦しむ時には苦しむしかないし、落ち込む時には落ち込むしかなく、感情をそのままに受け取りながら時の流れに身を任す以外ない。敢えて原理的に理解しこの試練を乗り越えたという基準を求めるのでもなく、敢えてサタン的になって神様に恨みを申しつけるのでもない。感情世界にしろ思考世界にしろ、戦いの真っ只中に於いては、これが私の立てるべき感情であり立てるべき考えだと、闇雲に立てようとすれば立てようとするほど、その足腰を払いのけられてしまい被害は益々大きくなる。戦いの最中は感情も思考も柔軟な柳の様相になることで戦いを遣り過ごす必要がある。そこに翻弄されれば翻弄されるほどサタンの思う壺でサタンの餌食になってしまう。戦いの最中は悪神も善神も入り乱れる。

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