2014年3月2日日曜日

今日の想い 706

平凡な幸せを望んでいた。高望みを抱こうとしたわけでもなく、極々普通の幸せにありつければそれで良かったはずだ。平凡であり普通であると言うのは、周りを見て言える言葉だ。それぞれの人間もそれぞれの家庭も全て異なるのに、それでも平均的幸せを望んでいる。家族の皆が健康で、中睦まじく暮らし、中程度の生活を営んでいく。それがイメージする平均的幸せだ。しかし平均的幸せなど本当は妄想だろう。平均的幸せなどハナからない。人は幸福を求めて生きる存在だけれども、平均的幸せなどという概念はない。普通、幸せではないと思っている私を、羨んでいる別の誰かがいる。別の誰かはそんなことで不幸ぶる私を見て欲張りだと思っている。平均的幸せなどというものは、明日もこの地上に生きていて、あさってもこの地上に生きていて、更にその次の日も、そしてその次の日も生きていると、そう信じているからこそそんな観念を抱いてしまうのかも知れない。確実に三ヵ月後に死ぬ、一週間後に死ぬ、明日には死ぬということが確定していると、平均的幸せなど意味がなくなる。半永久的に生きる気分を前提にして幸福感を量っているから、平均的幸せがイメージとしてなりたつ。しかし一度は死の境地まで赴きながらも、境界線を越えることなく地上の存在に戻った人間にはそんな気分はないだろう。今日を生きていること自体が奇跡だと思えるはずだ。勿論今日が明日へと続き、日が重なるにつれて慣れてしまって生きることが普通になってしまうかも知れないが、それでも死から蘇ったばかりの人間は今日を生きることが奇跡のはずだ。健康が奪われ、平穏な日々が奪われ、平凡な幸せが奪われ、最初は怒り地団太を踏んでもがくしかないが、どうしようもないことがわかってくると寂寥感や愛の減少感に打ち沈む。そうして自暴自棄になる。しかし、そんな私はまだ偽りの自分に固執している。私から全てを奪われたとしても、それでも変わらない自分を見つけ、その変わらない自分こそ本当の自分だ。自暴自棄になるのは、変わらない自分、神様の完全対象としての自分を見出せず、偽りの自分に翻弄されるからそうなってしまう。何の偏見も、何の人間的(堕落的)感情も侵入されない、天の父母様との完全対象となり、天の父母様との一体圏こそ定着する私であり、愛と生命と血統もそこから湧きいずる。それはいつ儚く散るとも知れない平凡な幸せという妄想ではなく、絶対的幸福がその境地にある。

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