2014年3月14日金曜日

疑問に思うこと

私達がいう伝道とは、教会に取り込んで抱え込むことなのか、それとも教会にあるものを提示して真の幸せの道を差し出そうとすることなのか、どちらだろう。私達が持っている伝道の観念は多分に前者であって、与えて差し出すのではなく招き入れる、善く言えばサタン主管圏から抜け出させ霊的に救援するけれども、悪く言えば教会をして心魂的縛りをかけると言えなくもない。それではみ言葉を聞いて教会に属していると自覚する私達は、新鮮な復帰された当時のままに、いやそれ以上に、感謝もし幸福だと思っているだろうか。教会に属している私達が感謝し復活し幸福だと感じていないのに、どうして敢えて引き摺りこもうとする伝道が実ると思えるのだろうか。今一つ別の問いをすると、私達がいう祝福とは何だろうか。一方で祝福の世界化がなされてきた訳だが、一方では二世祝福という祝福家庭の子女同しであるべきという選ばれし者としての特殊化、選別化がある。私の頭ではそれをどう論理的に理解すべきなのか、一世の祝福と二世の祝福は同じ祝福ではないのかという問いがあって未だにわからない。子供にも二世祝福を受けさせたいという親としての感情があってそれは否定できないけれども、しかしよくわからない。前の問いに返ると、伝道して祝福に繋げることが第一関門であるけれども、真の父母を真の父母として受け入れなければ祝福は真の父母から受けるものであるからなりたたない。伝道と祝福、伝道から祝福へ、祝福のための伝道、という認識があるから教会としては抱え込むことの伝道であっても、すなわち伝道が方便であっても良しとされるのだろうけれども、伝道方式、というより伝道に対する認識が旧来と変わらなければ2020年に向けての爆発的伝道は絵に描いた餅でしかないように思える。確かにフィリピンのように指導者が復帰されることで組織丸ごと祝福を受けるということもあり得る訳だが、取り敢えず祝福を受けさせてみ言葉教育を後に回すとなると、キャンディー祝福のように祝福を与えたけれども何の戦力にもならない(霊的にどのような意味があるのかは別)ということになってどれほど発展が見込めるのかはわからない。私達には祝福に対する思い込みがある。それは霊的な感性が芽生え霊的に理解する程度が高まるにつれて真の父母様が与える祝福本来の意味に修正されるはずだが、思い込みは確かにある。この思い込み故に祝福本来の恩恵を受けたり与えたりできない部分もあるけれども、逆に思い込み故に祝福が祝福として護られている部分もある。おそらく私達の祝福に対する思い込みから、キャンディー祝福をどう理解していいものやらわからずじまいの食口が殆どだと思うが、きっと将来的には解けないものが解けていくはずだし、思い込みから解放される日が食口にも訪れるはずだ。しかし現段階に於いては教会に属することによって、そして教会祝福を受けることによって、受け取れる恩恵もあるし知らずに排除してしまう恩恵もきっとあるはずだ。もし超宗教の位置で祝福が与えられるのであれば、教会に属さなくとも真の父母を認めれば祝福に与れるはずだが、教会を通さなければ為されない祝福式があり、それを祝福だという認識(思い込み?)もある。天地人真の父母定着実体み言宣布大会で述べられておられるラスベガス特別宣布に、天はすでに重生と復活の昇華権の恩賜を家庭単位まで許諾されたとある。我々が言うところの結婚祝福は重生であり、そうであれば祝福権は祝福家庭が持っていることになる。しかし自分のところは教会の祝福式以外で祝福したという話は聞いたことがないし、それを教会は祝福とも認めないだろう。しかし結局は氏族的メシヤといわれるように、メシヤの称号を与えられたのだから私の家庭に於いてどう認めるかで決定されるものであり、天はそれを許諾されるように思えるのだがどうだろうか。超宗教と言われながら、教会の縛りは現実にある。しかし敢えて言っておくべきだが、その縛りが悪だとは言えない。

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