2014年3月27日木曜日

今日の想い 715

幕屋は聖所と至聖所とからなり、至聖所には契約の箱があって、その中には二つの石板、マナ、そして芽を出したアロンの杖とが入っている。幕屋はイエス様の象徴的表示体であり、聖所がイエス様の肉身を、至聖所がイエス様の霊人体を象徴している。そうすると至聖所の中にある契約の箱はイエス様の霊人体の中にある何かを象徴していることにもなる。しかし原理では次のようにも言っている。したがって聖所は有形実体世界を、至聖所は無形実体世界を象徴していると、、。そうなるとイエス様の肉身は有形実体世界であり、イエス様の霊人体は無形実体世界となる。さらに契約の箱は大きくは天宙の、小さくは幕屋の縮小体とあるので、イエス様の霊人体の中に天宙、すなわち有形無形の両実体世界を含んでいることにもなる。一方がもう一方を内包していて、そのもう一方が始めの一方をも内包しているという論理をどう理解したらいいのかと言うことだが、その論理が成り立つ次元世界があるなら、イエス様はそこから来られたと言うことができるし、この論理が成り立つものとして次元の円環が考えられる。私が外的世界をどこまでも突き詰めていけば、内的世界をどこまでも突き詰めていった世界が現れ、極と極は円環で通じているというものだ。神様がアダムとエバを創造したのはアダムとエバを通して喜びを得る為とあるけれども、神様がアダムとエバに入られるので神様御自身を知る喜びでもある。円環でいえば神様はアダムとエバを通過して神様御自身を知って喜ばれるのであり、アダムとエバは神様を通過してアダムとエバ自身の神的存在価値を知ることで喜ぶ。しかしその円環はその次元に於いては円環であるけれども、一つ次元を上げれば円環ではなくスパイラルとなるところに、地上存在である人間が把握することの難しさがある。そしてそのスパイラルが何処までも直線的な様相を示すのではなくスパイラルは球形を描いていく。そこまで範囲を展開させていくと低い次元に存在する地上人間は混乱するので、取り合えず円環に留めて理解すべきだが、私達は至聖所を通して天の父母様に会う。二つの石板、マナ、そして芽を出したアロンの杖をツールとして天の父母様に会う。二つの石板はイエス様と聖霊の象徴であり、勝利されたイエス様はみ言葉の完成実体であるから、すなわち実体み言であられる御父様と聖霊実体であられる御母様となる。芽を出したアロンの杖については「平和の主人、血統の主人」に出てくるが、堕落していない伝統の血筋、すなわち真の父母の血統圏を言うのであり、そうなるとマナは真の生命に関すること、すなわち霊的生命だと言うことはわかるが、具体的にどう理解するかとなると難しいだろう。私の独断から離れることは無いが、今の私は真の生命が心情復帰に関わっていると思っている。心情をひとつひとつ復帰しながら生命の木に至ると思っている。

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