2023年6月28日水曜日

逍遥から本殿に向かって 22.

 アボジが基元節を迎えることができず、それを目前にされながらも聖和されたように、一世達は本体論の中心である絶対性を、自分の概念として捉えることができずにあの世に旅立つ。一世は既に終活の時期に入ってどんどん旅立っているのだから、別にそんなことは関係がないと思うだろう。そうなのかも知れないが信仰の結論であり果実として提示された絶対だという認識がある者にとっては、先行き短い人生を想い、それならばせめて子供達二世にその結論を伝えて霊界人事を迎えたいと思うのは当然だし、絶対という創造秘儀を伝えなくて何を二世達に伝え残すのだろう。二世達には祝福を与えたことで十分親としての役目を果たしている、勿論そう思うだろう。しかし祝福の本質は性による血統転換にあり、親が既に血統転換されているのにどうして子供たちに血統転換が必要なのか。二世に与える祝福は、一世が御父母様を通して受けた祝福とは意味合いが異なっている。一世が祝福の本質を受け取れずに、すなわち祝福を受けても血統転換されずに、その形だけに執着して受け継いでいくのであれば、それは二世を血統転換させて一世がそれに繋がる必要はあるのかも知れない。しかし大方の祝福家庭は、子供達が形の上で祝福を受けるのが最重要課題であって、祝福さえ受ければ安堵しているのが実情だ。おそらくそういう祝福家庭は信仰が実って神に愛された勝ち組だと思っている。しかし全体と個は通じていて、各家庭の血筋という縦割りではなく、全体あっての個であり個あっての全体で、勝ち組も負け組もない。子女が様々な立場にある祝福全体の状況を神様がどう捉えておられ、また摂理的位置付けとしてどう働かせるかだ。その点に関しては御母様の見解を何としても知りたい。その見解次第で私に対する御母様の権威が決まってくる。祝福の本質は血統転換にあるし、血統転換は性なくしてはありえない。

2023年6月27日火曜日

逍遥から本殿に向かって 21.

 クリスチャンはクリスチャンで教条的縛りがある。キリスト教会は人類始祖の堕落によって本来あるべき精神が欠けているという教えだ。本来の人間は体と心と精神(霊)の三段階(三要素?)から成り立っているということだが精神が備わっていないので地獄に落ちるという教えだ。よって教会に繋がってキリストの精神を受け取らない限り天国の民にはなれない、という縛りがある。クリスチャンに取って少なくとも日曜日だけでも教会に行くのは縛りとして刷り込まれているからに他ならない。そして信仰が強まるにつれ縛りは増していく。クリスチャン達に縛りがあり、統一食口にも信仰故の縛りがあり、どちらにしても宗教を超える意識や運動に至る自由の翼は信仰が縛りとして働きお預け状態だ。それでは信仰することで精神の自由を得るためにどうすればいいか。信仰は本来信じることで認識に至ることであり、認識に至ればその認識に対する信仰は役目を果たしたことになる。しかし認識を得ることができなければ信仰を生涯どころが永遠に備えざるをえない。問題は信仰経験に認識を得たという体験が無い、あるいは少なくて無意識のうちに信仰は実らないものと洗脳されたまま、信仰=縛りとなって自動変換されてしまっていることになる。本体論の中心である絶対を得る前段階として、精神の自由(霊的自由)という翼が必要であり、その為には今の現状である信仰が縛りに取って代わった事実を先ず認めなければ先には進めない。私達の思考や歩みが本当に神による善悪に根差したものであるのか、それともただの縛り、すなわち自分の中の恐れの感情がそうしているのにそれを敢えて放置したまま、良心の声だと言い聞かせ神様による善悪観を立てたつもりでいるのかどちらだろうか。後者であれば性は永遠に堕落圏のことであり口にすることすら憚られサタン視され、夜の神様が主管する聖なる性とは永遠にならないだろう。

2023年6月22日木曜日

逍遥から本殿に向かって 20.

 人間の度量は何によって決められるかというと、欲の強弱によって決められる。あくまで度量であって人間性の良し悪しをここでは扱わない。度量は小欲に生きるか大欲に生きるかで決められる。人間は地上存在、すなわち色の世界、欲の世界の存在だから、どんなに聖人君子面していようが欲の存在であり勿論聖人君子すら地上にいる間は欲在りきの存在だ。食口は自分は欲を捨てていると誤解しているけれども、欲を制御してこそ行ける天国を信じそこに行きたいが為に教条生活を頑なに守っている。それを大欲と言えるのかどうかはそれぞれの良心に任せるとして、欲を捨てたつもりでもやはり別の欲に生きている。アボジが、あんた達は欲が強いよと言われたのはその通りだし、しかしその欲心を悪として否定はされなかった。そう言われたのには大欲に生きろという意味が含まれていたと私には思えた。食口は教条生活によって去勢されてしまって、大欲がもてない歪な存在になってしまった。それでも昔は世界復帰の闘志を燃やしていたし、地上天国実現の暁には世界をフリーパスで旅行できるとか様々な地上的成就も中心者を囲みながら毎晩語り合っていた。そんな子供染みた願望だとしても今の食口達はそれすらないだろう。見てもいない天国を夢見て黙々と従い、そんなはずではなかった霊界生活をやがて送ることになるかも知れない。どんなに高い志を持とうとしても、それを本気で自分の事としなければいつまでも御題目を唱えるのみで、御題目を唱えながらこの世を去ることになる。そんなツモリナールで頑張りましたと天に報告できると思ったら大間違いだ。唱えること自体が目標で果たすつもりは最初からなかったことに弁解の余地はない。自分の使命を自分なりに認識したのなら、その使命貫徹の為に自分の欲心ベクトルを同じ方向に合わせた意志として持たない限り実現性はほぼない。会社の資産を増やすとして、それを通して自分の懐も増やすことでその動機や意志を堅固なものとできる。会社が大きくなるために精一杯尽くしますと頑張った社員に対して、何の報酬も与えなければ、たとえ社員の不平はその場では無かったとしても社員の成長は止まったままだ。実際日本の食口達はそんな扱いを受けてしまい、自分への投資を蔑ろにされたままで成長していない。それは私への自戒も含めてのことだ。おそらくここで話している欲は財欲を含めた社会欲と扱われるかも知れないが、食欲と生命力が繋がっているように、性欲と霊力も繋がっている。不倫だとか回数だとかに持っていきがちだがそれは度量の問題ではなく地上的社会的な話であって、本然の性欲は当然愛が関与しているし一つになって創造したいという霊的な創造意志が働いている。

2023年6月20日火曜日

逍遥から本殿に向かって 19.

日本人の道徳観として欲がないことを良しとする傾向がある。金もないしこれといった地位も名誉もないけれども、大病もしてないしそれなりに平安に生活していける。そんなことを有難く思うといった具合だ。しかし地上は欲望を持ってなんぼの色の世界だ。欲がなければ周りの風景や環境圏はモノクロでグレーの世界でしかない。はっきり言って勿体ない。お隣の国韓国を見れば権力者の欲望たるや、降ろされたときの反落人生の酷さを見ればわかるように、今の権力を保持しているうちに使える限り使って欲望を叶える、そんな生き様のオンパレードだ。ギャンブル人生と言えば言えなくもないが、欲望を叶えてなんぼの色の世界を生きている。日本人の感覚からすれば理解できないが、掴める願望が目の前に横たわっているのに手を出さない私達を逆に彼等は理解できない。しかし創造意志が働くのは欲あってのことだ。意志あるところに道ありの前に、創造意志あるところに先ず欲ありだ。将来的イメージ達成への願望が強ければ強いほど、夢は実現して実る。はっきりいって技術がどうだとか頭がどうだとかほぼほぼ関係ない。欲が強くて意志が明確であればそんなものは後から付いてくる。人間の本能に由来する性欲は、それが強いほど生きる力は強いしのし上がる力も強いと言われる。英雄と呼ばれる人物は必ずと言っていいほど下半身が盛んだ。統一信仰を持って戒めとして最も強く言われるのがアダムエバの問題だが、食口の多くは去勢された牛となって従うのみだが、自分を主体に立てる食口もいる。食口の中でも欲の強い者の行動には二通りあって、自分には合わないものとしてすんなり離教するか、逆に中心者として立って権力を欲望実現のために使うか、というこの二つの選択のどちらかを選ぶ。概して中心者、特に韓国の中心者は後者を選択したのであり、何をするにしても欲望を叶えることを考えている。それは願われた目標達成も褒美を自分に与える為に行動している。与えられた目標の公的題目と同時に私的願望も無ければ、どんな目標を立てるにしても絵に描いた餅でしかない。財欲や性欲を権力を用いて満たす者もいる。原理の教えによって抑え込んでいた欲望が、一端それなりの理由や言い訳を得ることで、抑え込んでいただけにその爆発力は何倍にもなる。はからずも彼等は神霊にしろ堕落天使長の霊にしろ自らの願いと駆け引きし、それ相応の創造意志を強くしながら発展させたはずだ。男は女を通して位相を高くし、女は男を通して位相を高くするのであり、そうしながら創造意志を強くするのは歴史を通して明らかであり、教会組織の発展もそれに違うことはない。アボジも女性を経ることで霊的位相を高くされてきた。一言付け足せば、統一信仰を備えてアボジを慕う女性は全てアボジの女であり、祝福は形の上ではアボジの女を天使長の位置にある男たちに下賜された立場だ。相対との性的な深みがあって霊的感性は広がりを見せる。すなわち性を通して心情は深く厚くなる。

2023年6月18日日曜日

逍遥から本殿に向かって 18.

絶対を言霊で降ろされればその本意を受け取れるのかも知れないが、紙面に言葉で表そうとするのは本来無理がある。それは数霊が働く論理を働かせるわけで、どうしても地上的な社会性や道徳観が論理を組み立てる中で幅を効かせるからだ。それでも敢えて取り組もうとするのは、祝福家庭に何とかして地上摂理を牽引できるアボジの霊的権威を相続して欲しいという、老年期の終活に追われる一世のせめてもの想いがある。今、教会組織に期待を持てる何があるか自信をもって答えられる中心者がいるだろうか。年老いて色気に狂った堕落爺と言われながらも、それでも綴るのにはそこに教会組織が担うことが出来ない最後の使命があると思うからだ。祝福家庭を霊的に見るなら、天地が否定できない天の血統圏にあるという自覚が食口に本当にあるなら、その証も立てずに生活に追われる毎日であってはならないはずだ。昼の神様によるイスラエル選民でさえ地上の覇権を握るに至ったのであれば、夜の神様を根源に持つ霊を戴いている統一食口は、地上のみならず天宙の覇権を握って当然だろう。歯がゆくもどれほど地を叩いて天に談判しても、本来のアボジが予定されていた基元節は迎えることができなかった。御父母様を始め多くの食口の犠牲による実りというか最後に残された結論が、基元節で始まるD-Dayだったはずだ。神霊を滝の如く地上に降り注ぐD-Day摂理が腰折れになったのであれば、逆に神霊を迎えるために食口は霊界の位相を駆け昇って神界の神霊にまみえる必要がある。その為には絶対による秘儀以外考えられない。それが私の50年の信仰の結論だ。その動機あっての性に向かう私であり啓蒙であることは理解して欲しい。決して感覚の歓びを得たいだけの堕落的動機では決してない。もちろんそんな青春期はとっくの昔に過ぎ去ってはいるが、、。

2023年6月17日土曜日

逍遥から本殿に向かって 17.

 統一食口が霊界に行くと、同じ霊界位相である食口達が一同に集まって暮らす統一村があるらしい。そして次の話が何とも私達の心の陰りを一層暗くする話なのだが、それぞれが犯した罪をプラカードのように首から下げて会う食口、会う食口全てがそれを目にし、生前の行いや罪状を把握できるとしている。それが天国か地獄かと言うと誰一人それは素晴らしい天国生活だとは言わないだろう。そんな地上的イメージを描いている時点でそれは霊界とは何ら関係のない、敢えて言えば霊的位相の低い私達に恐れを抱かせて、すなわちサタンの知恵を借りて手名付けようとする悪度さが見える。そんな説明で頷くほどに霊的感性の低い時期もあったということだろう。人間は肉身と霊人体とで人間であって、肉身だけの人間などいない。地上生活は肉身だけの生活で肉身を脱いで初めて霊人体が用意される、と言うことではない。地上生活しながら霊人体の成長も為して霊的生活も同時的にしている。というか霊は時空を超えているので同時的という言い方はおかしいが、人間は地上と霊界の両方に跨っている。肉身があり霊人体があり、そして肉身と霊人体を繋ぐ魂がある。そうなると三つの在り様があるとなってしまうが、魂は肉身と霊人体の一つになった在り様と言ってもいいかもしれない。はっきりいって食口には恨みがある。教条的縛りによって抑えられた自我を強いられたことへの恨みだ。それは本人にしてみれば無意識の底に我知らず封をしたままで見ずにいるが、それは人生を通して自由なる精神を奪われているという恨みだ。時としてその恨みの断片が表面に覗こうとすると、その都度浮かぶ思いがある。どうしてみ言葉を聞いてしまったんだろうという恨み言だ。霊界に行って、自分の行くところが天国かどうかはわからないが、その恨みが大方の食口にあって、解放されない世界が自分の内面の表れとして霊界の環境に現れるはずだ。自由精神を育んできた人間であれば、もっと主体的でありもっと能動的で肯定的だ。霊界を知らされながら霊的感性も本当の霊的価値もものにしていないという、この皮肉の悲しさが常に教会に漂っている。常に自分を縛ることに汲々としてきたから、罪を掲げて枷を自らに嵌めて暮らすという霊界の生活は以外と的を射ているのかも知れない。そんな食口達は今こそ一点突破であり全面展開だ。性には内面を開放させる神霊の作用が認められる。解放されればこそ受容の胸襟も大きく開いて邪悪な霊的要素も簡単に受容してしまうということもあるのだが、そこは縛りが正しく働いて相対以外の相手を持つことはないだろうから、相対間でこの創造の秘儀をしっかり研究すればいい。先ずは見つめ合うことからだろうか。海外で生活すればわかることだが、日本人は他と比べて目を見て会話することや見つめ合うことが本当に少ない。授受作用は先ずそこからだ。

2023年6月16日金曜日

逍遥から本殿に向かって 16.

 本体論は講論のような文章表現で表したものではなく、講義案のように箇条書きであったり図が使われたりしていて、それを追っていくだけではさして過去に記されたものと比べ何ら目新しさはないように思える。確かに堕落した下からの目線ではなく、創造された神様からの目線で表されたのが本体論だと説明されればそういうことかと納得するとしても、しかしそれで新たな動機が発動されるわけでもないだろう。おそらく殆どの食口は本体論の名称だけを知っていて内容がどうだったかも説明できない。本体論は夜の神様の目線であっても、昼の神様はまだ論理的に説明されればその在り様は理解できるが、夜の神様は論理を超え知情意を超えているのでこれが本体論ですと差し出されて読み進んでも理解はできない。知情意を超えて、すなわち霊的感性を働かせなければ理解できない。食口の誤った唯物論的霊界観で見通せるものでは決してない。そして本体論の中枢は絶対だ。晩年よく話されていた性と生殖器の話は実は本体論の話だ。そして夜昼の神様も本体論の話だ。堕落圏を超えたその話は堕落圏に留まる限り下ネタと吹聴されてしまって今は誰も触れようとはしない。事実アボジは一連の本体論の話をされながら堕落圏を超えた先のエデンの園を見据えておられた。しかしながらモーセがカナンの地を望みながら足を踏み入れることができずに死んだように、アボジもエデンの園を見据え踏み入れる基元節を目前にしながら、その日時まで示されながら足を踏み入れる前に連れていかれてしまった。今となっては夜の神様を代表する神々が地上に降り下るXdayで直接権威を示される現実を見ることはなかった。驚天動地の指示が下される予定だったはずだが、夜の神様の顕現は下りず宗教圏を超えない昼の神様のまま基元節は遣り過ごされてしまった。夜の神様の出自であるアボジから祝福を通してその分霊を戴いた私達であっても、霊的感性も開拓されておらず摂理的使命に対しても疎いままで、そんな私達にアボジの描かれたエデンの園は見えているだろうか。しかしそうであっても人類の未来は私達に掛かっている。今は良心を通してしかアボジに繋がる道はないとしても、訝しくも下手な神託を仰ぐのではなく、アベルに摂理的願いの判断を丸投げするのでもなく、必ず良心を通してアボジの願いが届くはずでその意識で良心を強くし、また開拓すればいい。言われるがまま闇雲に動いて、社会に独善的脅威を与えて、稚拙な復帰計画を掲げて上げ足を取られて、それはサタンですら相手にしない。

逍遥から本殿に向かって 15.

 歴史は夜創られる。創世記に「夕となり、また朝となった」とあるように、天地創造は夜構想され昼に構想通りに展開された。夜、すなわち夜の神様による構想が創造だ。宇宙はそうして夜の時期と昼の時期を交互に繰り返してきた。人間も同じで夜と昼を繰り返しながら日々を送っていく。そして同じように人間も夜創られる。意識ある昼に経験したものを夜の無意識圏に届けながら、それを踏まえて新たな創造が為される。本来、性は昼の意識圏内、すなわち昼の神様の範疇になく、夜の神様が主管する範疇にあった。その一つの意味として五感を歓ばす動機で性に向かうのではなく、創造的動機があって性に向かうのが性のあるべき本質だ。アダムとエバは、まだ夜の神様の手の内にあるべきものを早々に昼の領域に、すなわち性を中途半端に意識圏に降ろしてしまった。もはや性を通しては創造の神々の居る神界にまで昇っていくことはできなくなった。それはやがては霊界をも見届ける感性すら無くなっていった。性は昼の神様の領域にあっても、この世の神サタンが人間の五感を通してサタンの触手を伸ばす、すなわち罪の繁殖という悪の秘儀に使われてしまうことになる。善なる創造の秘儀を悪の秘儀に使われたというのが、堕ちた天使長たちを介する堕落だ。これを取り戻す、すなわち復帰にどれほどの年月を要してきただろうか。み言葉認識に多くの誤解があるとしても、それでも食口は堕落の意味を表面的ではあっても知っているし、サタンが嚙みついて放さない性の忌まわしさも知っている。しかしそこで認識が止まってしまい、堕落圏を超える創造領域にまで性の在り様を変えることができる後天時代なのに、未だにその絶対の認識を無視しているのは、私達の何が不足でアボジの真意を尋ねることもなく夜の神様へと繋がらないのだろうか。それ以前の問題として、祝福家庭が堕落のない霊を分けて戴いているにも関わらず、罪人に口なしの体制が続いて主体性すら取り戻していない。

2023年6月13日火曜日

逍遥から本殿に向かって 14.

 霊的救いを得るためには神霊と聖霊を迎えなければならない。クリスチャン達の救いは霊的救いに限定されていてサタンの血統圏から逃れられないとするが、そのように食口にしてみれば霊的救いを過小評価しがちだけれども、イエス様が開かれた霊的救いは聖霊を受け入れ神霊と聖霊がひとつとなって霊的救済圏を立てられるという、イエス様の救いの摂理が切羽詰まってからの奇跡的勝利圏だ。イエス様を慕って愛して、さらに愛し抜いてイエス様の相対的立場に立つのだが、愛し抜いた後に私が迎えるのが聖霊であり、聖霊こそイエス様という体を纏っていた神霊の相対だ。絵も言えぬ心地でイエス様に包まれている、愛されているという自分を自覚したとき、それこそが聖霊を迎えているという事実だ。だから聖霊は見るものでも聞くものでも触れるものでもない、私の中に迎えるものだ。本来、生殖器が出会うことで本殿が用意されれば、お互いの体に神霊と聖霊を迎えてその交わり、授受作用を通して創造が為される。本殿が用意されて二者一体が神殿化すれば、そこは叡智と心情と愛する衝動が稲妻の如くほとばしり、溢れて漲る場となる。肉的五感と霊的五感が相通じるその体験は天宙創造に参画している高次の神霊体験だ。そういう本来というか本然の性の交わり、授受作用を祝福家庭こそが経験すべきで、それは人類にとって、霊的に遠い遥か彼方の神霊界を地上に迎えるという、天地創造このかた想像だにしなかった天地開闢時代を牽引する地上生であり地上性の提示だ。

逍遥から本殿に向かって 13.

 初めに言があった。言は神と共にあった。-ヨハネ福音書 冒頭

言霊(ことだま)が共にあり、数霊で構築し、そして性霊で生命の息吹を吹き込む。先ず神の願いとしての想いや心情こそが言霊の本質であり、数霊は原理原則でその願いの実体化を組み立てていく。組み立てられた対象に性霊の働きで神が入り内在することで神の神殿となる。言霊は人間魂の情を対象とし、数霊は人間魂の知を対象とし、そして性霊は人間魂の意に働く。言葉に数霊の知が関与して論理となるのであり、言霊は本来心情から降りる。日本が日本国として立っているのかどうかは、その形を見る以上にその性相部分、すなわち日本の精神が立っているかどうかによっている。日本人全体の中に日本の在り様を想う言霊が降り、その在り様に鑑みて様々な関係性を構築し、そして日本民族として繁栄するという一連の創造作用、日本として継続する為に対応し続ける必要があるという点で、関係性創造を含めた創造行為なくしてあり得ない。私達は地球村を目指し、それは人類一家族という地球国家に他ならないわけだけれども、現実的に考えてそれは或る国家の成長と繁栄により他国家の吸収の延長線上にこそ可能だということだ。アボジは祖国統一の後、どのような地球国家へのプロセスを考えておられたか、今となっては知る由もないけれども、統一祖国と日本が一体化して一つとなり、その経済連携の版図を広げていく以外のどんな道筋があるだろうか、と私は思う。話はそれたようだけれども、日本が本当に立たなければ、統一祖国の相対にはなりえないという意味に於いても、日本は日本民族の言霊を降ろし、日本の精神が立ってこそ地球村に貢献できると信じている。今だけ金だけ自分だけの烏合の衆でしかない今の日本に、どうやって言霊を降ろし日本精神を立たせることができる方法があるだろうか。そう憂いたとき、絶対しかない、聖【性】霊を迎える性革命以外ないと本気で私はそう信じている。

2023年6月11日日曜日

逍遥から本殿に向かって 12.

皆さんが男女関係によって愛し合ったならば、愛したそれ自体において、男性の凸と女性の凹は、何が変わるのでしょうか。それ自体は同じですが、既に変わっているのです。-『平和の主人、血統の主人』より

愛し合ったことによって既に変わっている。目に見えない何か、自分の肉体の背後の関係性を変える何かが変わる。エバがアダムを誘惑して関係を持った時、アダムにエバの、既に変わってしまった血統の背後関係が投入されてアダムもまたサタンの血統圏に堕ちてしまった。普通に考えて、複数の関係性を持てばそれぞれその影響を受けるので、その影響はどれ程のものかということになる。イエス様が生涯そういう関係を持たなかったかどうか、持たなかったと信じたい気持ちはわかるが、おそらく私はあって当然だと思っている。アボジがまさにそうであるように、、。アボジの行動は、アボジならではの神の血統の伝播だったのかも知れないし、真の父母として立つ為に自分にない霊的素質を受け取る為の方法だったのかも知れない。私は両方の動機があってのことだと思っているが、そこを深堀するのは私の立場にはない。わかっているのは堕落に性が関係しているのであれば、復帰にも性が関係せざるを得ないということ。私達はこれをしてはいけない、あれをしてはいけないという縛りの発想から行動を起こそうとするが、それは縛りや枷がない自由に任せてしまえば収集のつかない責任を負うことになると根底で思っていて、それは良心が自分には正しく働かない、良心の働きより悪への指向や衝動が勝っていると思うのと同義だ。確かに多くの者達は良心がどれほど権威があり、悪に向かおうとする時の良心による負債感がどれほど強烈に働くかの経験がない。祝福家庭がその自覚や経験なくしてどうして人類に良心革命ができるだろうか。性に対しても全く同じで、信仰という縛りで未だに見ており、良心に問い従う接し方とは雲泥の差がある。人はそう簡単には変わらない。しかし地球、そして天宙全体は良心作用、すなわち良心として神霊が個々に内在する天宙的運動は増すばかりだ。縛りと枷に封じ込められた私という存在が、その縛りと枷を打ち破ると意志もしなければ、正しく良心は働かない。良心作用が自ずと増すようになると思っていたら大間違いだ。その覚悟と決意が必要なのに、縛りと枷に慣れすぎてその意志すら失ってしまったとしたら、それは神様にとってどれほど悲劇だろうか。先の者が後になり後の者が先になるという聖句は食口こそ噛みしめるべき聖句だ。たとえ信仰によるとしても、その安寧の位置から離れないのは自己中心のサタンの在り様そのものだ。

2023年6月10日土曜日

逍遥から本殿に向かって 11.

エバは神のように目が開けると思い行いに至った。そしてエバはアダムにもそのように誘惑しアダムも行いに至った。時ならぬ時にということだが、何を待てば判断を間違えなかったのかと問うと、それは成長して良心がその判断をすべきだったのが良心が霊肉を主管する前にサタンが主管してしまったということになる。神様を内在すべきがサタンを内在させてしまった。祝福摂理が正しいのであれば、人類全てがサタンの血統だった状態からその牙城は崩れていき、神の血統圏がジワジワと広がっているということだ。しかしその状態をサタンの血統の様相と神の血統圏の様相が目に見えて異なっていると捉えるとしたら、それは祝福摂理を唯物的というか地上的な事としてのみ理解しようとしていて、霊的な事実に目を向けていない。同じように祝福子女(御父母様であれ祝福家庭であれ)に対する固定的なイメージ(内的イメージも含めて)は、勝手に公序良俗的なイメージを抱いて判断してしまい、同じく霊的事実を無視している。宗教というか信仰の恐ろしいところはそういう思い込みにあって、堕落の固定的イメージを持ち、祝福や祝福子女のあるべきイメージを持ち、霊界についても神様やサタンについても固定的イメージを崩せないでいることだ。堕落は性と関係性があるのは間違いないが、復帰も性と関係しており個性完成も性と関係しているのであって、であるのに性そのものに対する穿った感情、堕落的感情を手放さない限り、絶対の概念は永遠に受け取ることが出来ない。私が社会性を否定し、道徳観を否定しているかのように見られるとするならそれも望むところだ。否定しているのではなく超える位相の話をしている。宗教の本質はそういった地上の囚われに左右されない。さらにその宗教を超えようとするのがアボジの願いであったはずだ。食口は教えられてきたイメージを先ずぶっ壊す必要がある。全てのイメージを壊して、み言葉によって今の時代圏に相応しいイメージを構築する。勿論その作り上げるイメージもまた、将来的には壊されるものだとしてもだ。真の父母に接ぎ木され、戴いた神の分霊は時代を超えて繁栄する、或いは創造する力を備えていて、その力は常に神様から溢れんばかりに投入されている。それをただ信じるのではなく、食口にはその霊的な迫力を実感してほしい。それを実感できるのは絶対にある。

2023年6月9日金曜日

逍遥から本殿に向かって 10.

食口の大きな関心事にアボジの数回の結婚(聖婚)とそれ以上の6マリアの問題がある。そのことに関して教会は数回の結婚に関しては認めてもいるし、その理由はそれなりに(それで全ての食口が納得しているかどうかは別として)摂理的状況的に説明されている。しかし6マリアの件に関しては、H2は認め、摂理的(?)に説明されてもいるが、教会は否定してその事実はないとしている。しかし大方の食口はそれでも事実だろうなとは言わずとも思っているし、何らかの摂理的理由があるのだろうと黙認している。今までの記事から察することができるように、私の理解はそのことを問い、問題視すること自体が間違っているという立場だ。性は社会性やその上での道徳観の領域外のことだからだ。結婚は社会性による判断が問われるとしても、性の問題は結婚観を超えている。敢えて言えば、6マリアは10マリアかも知れないし100マリアかも知れないし、さらにアボジが摂理観から論理的に理解してそういう行動に出られたとも思っていない。神霊に導かれるがままに(堕落のない本能的衝動のままに)為された夜の神様の主管圏内の話だ。そうなると私達が教えを乞う位相段階でありながら、とやかく口に出せる話ではないだろう。社会性道徳性を超えた性について、敢えて楔を打ち込んだのが血統転換としての三日儀式だ。み言葉を信じるとして、その上で放蕩生活に堕しようが、逆に生涯、一人の伴侶以外の関係を一切持たなかろうが、それで霊的血統が変わることはない。しかし唯一、三日儀式を通して霊的血統は変わる。さらに変わった後、相対関係が崩れるとしても、不倫などの問題を起こしたとしても、それで血統が元帰って堕落の血統になることも本当はない。と、私は確信している。そんなに性の習慣性や性の一過性の過ちで血統が行ったり来たりするなら、祝福も三日儀式も地上のこの世の主管圏から脱せず霊的意味はないからだ。

2023年6月8日木曜日

逍遥から本殿に向かって 9.

 口があって、二つの乳房があって、そして聖殿がある。アボジは性の話をされる時、その巡礼の順番を重んじるように話された。この話でピンとくるのは、そう正分合の三段階の話だ。神様、そしてアダムエバに分立され、そして子女繁殖、この三段階を経て人類の創造が為される。人間も同じように、口を通して神霊に挨拶し、陽のアダム神、陰のエバ神を巡り、そうして聖殿に踏み入れるという三段階を経る。お互いが位相の下位位置から位相の上位神霊に挨拶するプロセスを先ず経る。吸引しながら上位神霊を私の中に御迎えし、迎えた上位神霊が下位神霊であるアダム神、エバ神を愛撫しながら開放させ、聖殿の扉が潤うにつれて開かれる。子宮までの参道が十分に用意され聖所から至聖所の奥の院にまで迎え入れる準備が一方で出来る間に、迎えた上位神霊は漲る生殖器へと移動され、参道を降り神霊の種子を放って高揚と繁栄の感情を爆発される。アダムは東の端の存在であり、エバは西の端の存在だ。その極と極の存在が相見えることの奇跡は、半分の存在が男で後の半分の存在が女である地上に於いては、いささか理解しづらいことはよくわかるが、私という存在が地上に現れ生きることの奇跡を理解し、驚嘆するほどの感謝が沸き起こる私でなければ益々その理解は難しいだろう。霊界は心情世界であり地上感情の数百倍の情の世界がそこにある。霊的無知の克服の道は、日々のルーティーンによって感情のない時間を流されるのではなく、同じ景色でも同じ人でも刻々と変わる異なる表情をしっかりと意識し、そこに息づく感情を捉え相対できる己が感情を発動させる。自分自身が受け取るチューナーとなり増幅させるアンプとなり、韓民族を超えるほどに喜怒哀楽を覚え心底からの感謝を供えるそんな日々を送れれば、夫婦生活も性生活も全く色合いを増してくるはずだ。祝福家庭は霊的無知を克服し、誰よりも輝く地上生活を送ってほしい。アボジが差し出された絶対という概念は、この言葉で霊的無知を克服し神霊と相交わることができる奇跡の言葉だ。アボジは勝利されて既に秘儀を差し出された。要は私達の生きる態度の問題だ。

逍遥から本殿に向かって 8.

 後天時代は道徳観も善悪観も先天のそれとは異なっているし、その違いは時が進むにつれて更に差は広がっていくだろう。子孫繁栄という創造意志は性が当然関わるのであり、創造は夜の神様の分野であれば性も本来は夜の神様の領域だ。性の領域では地上の道徳観であるとか社会性は通じない。不倫や淫乱が表沙汰されて、教育者も教会関係者も当然のように批判非難はしているけれども、恐らく非難されるようなことを誰だって少なからず望んでいると私は信じる。私に言わせれば性は道徳性社会性を充てることが出来ない、とても人には言えない奔放で淫らであって混沌そのものが性だ。性を表沙汰すること自体が批判非難の対象であっても、その在り方に対してはとやかく言うには当たらないし口を閉ざすべきだ。不倫は悪だというけれども、社会性を宛がうから不倫になるのであって、結婚が形だけでそこに夫婦の愛は培われていない場合が殆どで、形だけの夫婦に縛りを押し付けるのが、愛である神様の願いだろうかと私は疑問に思う。もちろん不倫は善だというつもりは全くない。言いたいことは、教会でも愛という言葉はよく使うしみ言葉にも愛という言葉は限りなく使われているけれども、愛の形骸化は愛とは言えないし、大体愛の意味も知らず愛してもいないのに愛という言葉をみだりに口にすべきではない。同じように性に対しても恥ずかしいとかイヤらしいとか不道徳の感情レッテルがしっかり貼られていて、そんな洗脳人間に絶対など理解もできないし、理解しようともしていない。レイカン商法だとか多額献金だとか、社会性を逸脱するほどの信仰があるなら、愛の何たるか、性の何たるかを社会性を逸脱するほどに求めて見ようという食口はいないのだろうか。日本の同調圧力に屈すまいと決意していても教会の同調圧力に屈してしまうということは、結局自分の良心が立っていないということにはならないだろうか。自分の歩みは霊的に生きているかどうかを自分に問うてほしい。先ず霊的に生きる道を歩み始めて、それでこそみ言葉も相対できるし、絶対に必要不可欠な霊的無知克服に臨むことができる。

2023年6月5日月曜日

逍遥から本殿に向かって 7.

 ホモセクシャルやレズビアンを感情的に受け入れなかったり、御言葉を掲げてダメなものはダメとはなから取り合わなかったりするとしても、正しく(?)夫婦の交わりを持つもそれが肉欲のみであるかぎりは、同じ地上的歓びに留まるという点ではどちらも神の御意からは離れている。その意味では子供が欲しいという切なる願いで関係を持つのであれば、彼等に対して一言はできるのかもしれない。が、全ての問題の根底には人類の霊的無知という課題が横たわっていて、その解決に目を向けない限りLGBTの問題も夫婦や家庭の在り方もいつまでも捉えどころのない浮島のままだ。食口がどれほど熱く人類に対する神の願いを語るとしても、この霊的無知の本当の意味を捉えた上での観に立たなければ、み旨だ摂理だと騒いでも神の御意からは随分ズレたままで独善感が漂ってしまう。しかしアボジが提唱した絶対に向き合えば、自ずと霊的無知に向き合わない訳にはいかない。アボジからみ言葉を受ければ、全ての言葉が何の脈絡もなく箇条書きされて詰め込まれ、それらがぶつかり合っているが、実際は全ての御言葉はおもしろいほどに関係しあっている。親としての子供の誕生は、今まで覚えたことのない歓びの感情をもたらしてくれる。実はその感情は性本能に関与する神霊の創造心情から来ており、そうであればその時の歓びや不安の感情の些細な一つであっても等閑にせずに全て魂に刻んでほしい。その感情の中に神霊と分かち合え共感もできて一つになれる、創造意志への新たな扉が用意されている。そして、ここが重要なのだが、突き動かされる性的交わりへの衝動にも、我が子と言える地上的実体の創造はなくとも、同じように私の新たな分身だと言える霊的関係性の創造動機が隠れている。だから闇雲に的を射るような衝動任せであってはならないし、また一人の相対にのみ許された行為だと戒律の中に頑なに囚われての衝動であっても創造意志はそこにない。もちろん別の相手と行為を持ってもいいんだという話では毛頭ない。性に関心を持ったり表現しようとするとき、恥ずかしさ故に触れたくないのと、余りにも尊いから尊厳の想いから簡単には触れたくないのとでは天地の差があり、前者は堕落性であり後者は神性だ。絶対の実体表象として立たれているのが御父母様がどうかはわからない。しかしアボジが未だその途上にあると語られたことは、先輩食口から聞いたことがある。人類が真の父母によって堕落圏を脱したことは事実だ。そしてその勝利圏のために力不足であったとしても祝福家庭が貢献したことも事実だろう。しかし、本来の人類としての成長発展は堕落圏を超えて出発したばかりだ。霊的無知をどう克服していくか、絶対の在り方をどう人類に示していけるかという摂理的使命を、先天の摂理と同じように祝福家庭が牽引していくのかどうかは疑問だ。私の感覚からとしか言えないが、堕落の極み、淫乱の極みにいる者達の中に、意外とその使命を認識している者がいるかも知れない。食口が聞く耳を持つかどうかは別にして、極と極は認識の壁一枚で隣合わせている。

2023年6月4日日曜日

逍遥から本殿に向かって 6.

本来であれば人間は興奮し、そして絶頂に達して頂きの彼方、すなわち彼岸を観ることができる。しかし人間が霊的無知に陥ったために、肉体の興奮から霊界に参入し霊界を見届ける感性を失っている。要するに性に何らかの創造意志が働いていることは理解できるとしても、頂きに立ちながら彼岸を見通せない為に創造意志の正体は掴めない。絶対の譲れない在り方として、それは霊界を見通せる性であることだ。しかし何度も言及しているように、地上で視界が見通せるように同じ視覚で霊界が見通せると信じている唯物的霊界観が食口間にも罷り通っているが、そんな地上的次元世界が霊界であるはずがない。少なくとも叡智や心情の視覚化可能な世界くらいのことは言及してほしい。霊界に行けば地上で慣れ親しんで獲得した、或いは染み付いた思考や感情が霊人体として実体化している。横道にそれたが、絶頂の彼方を見通せる性であるためには、すなわち性本能に働いている創造意志としての神霊への尊厳感情を先ず自分のものとするところから出発し、その上で一つになって師であり友ともなるその神霊を私の霊的屋台骨として一つの霊的柱とすれば、創造意志溢れる神界への翼を用意できる。性の交わりは私一人で為せるものではなく、そうなるとお互いがその基準に立つべく切磋琢磨する必要がある。そんな性の交わりは既に悦楽の欲を超えていて、性がまさしく聖と同一となる。夫婦の交わりが天地創造に関与した神霊達の交わりの基準に届くようになる。霊的無知の無知である食口ですら天地創造が神様が神の杖でかき回しながら創造したなどと信じてはいないだろう。創造は神霊達の相対的関係、すなわち陰陽の交わりで創造過程の段階を発展させてきたことは明らかだ。

2023年6月3日土曜日

逍遥から本殿に向かって 5.

 自由と責任は表裏の関係であり、自由のない責任はないし責任のない自由もない。さらに自由度がより増せば責任度合いもより増すというのもその通りだ。私達は絶対愛という言葉を提示されている。私達は絶対愛を立てるという驚嘆すべき責任度合いを負っているが、ということはそれだけの自由度を増す必要性が私達にあるということだ。絶対愛と絶対の関係性とは何だろうか。あるいは敢えて関係性のない二つの言葉だろうか。私は絶対なくして絶対愛は到達できないと思っている。だから私は、先ず絶対の概念を得て絶対愛に到達できる、という仮定を立てる。愛とは創造意志だ。神様にとって愛すること即ち創造することだ。与えれば与えるほど愛は深まるように、創造すればするほど心情は深まる。創造は別に形を作ることに拘らず、いやそれ以上に創造とは関係性の創造であって心情創造という造語を用いてもいい。親の愛、夫婦の愛、子女の愛、兄弟愛、更には万物への愛、私達の中にそれなりの基準で備わっている諸々の愛は、全ては神様の、更には数柱の神霊達の、そして歴史を通した人類の創造意志のお蔭で備わっている。しかし私達の人生の意味は既に開拓された愛に留まるのではなく新たな愛、すなわち新たな創造意志への挑戦だということができる。人類が肉体を持って意志する創造の極みは性にある。だから人類の性への果敢な試みが為されるのも理解できる訳だが、私達祝福家庭の試みとしての創造意志は、人間の本能と魂だけに囚われることのない様々な霊的観点から性の観を立てることにある。私達はかつて歴史上なかった言葉、絶対をそれでこそ見通す可能性を得る。御言葉は、霊人体の繁殖は地上の繁殖によって為されると教えている。その意味は当然のこと霊人体の繁殖も性が関わっているということだ。そして子を妊娠しないまでも性的関係がお互いの霊人体への影響を及ぼすこともわかっている。アボジの絶対と本体論はまさしく霊に関わる性をどう見通すかという、新しい性の見方(性観)の教育だ。