2008年10月30日木曜日

今日の想い 22

我々は本当に愛の群れだろうか。愛の動機で繋がれ、愛の道理で動く愛の群れだろうか。我々の歩み全般が、御父母様の真の愛に貫かれたものとなっていると言えるだろうか。我々の中にいつも、何々しないといけない、と考えていると言うことは、したいという思いが出てこない事が前提となっている。全てに於いて、このHAVETO意識で停滞し自主的能動的姿勢にはなれない。御父母様の願いが自分の願いであり、自分の願いが御父母様の願いだと言い切れる自分になっていない。自分が愛されていることを実感すれば、その愛に応えたいと思うのが自然で、その衝動が歩みの力となる。であれば自分は愛されていないのか。御父様は私を愛しておられないのか。そうではなく愛を受ける感性がないのか。それとも自分が愛を必要としていないのか。本当に愛が自分に流れてくるなら、愛されているという実感があるなら、それを他に与えようと思うだろうしそれに応えたいと思うはずだ。しかし敢えて次のように断言することが信仰の基だ。私は愛されている。御父母様も私を愛しておられる。確かに愛を受ける器にはなっていない。でも明らかに私も愛を必要としている。残念ながら、サタンが主管する堕落圏に我々はある。悲しいかな愛は直接的には届かない。堕落圏に於いては神様の直接主管圏にない。堕落圏から神様に会おうとすれば、愛の起点は自分にしかない。自分と神様の間に悪魔がその空間を支配していることを認めなければならない。そこを突破するには闘わざるを得ない。悪魔との戦いだ。私は愛されていると言い切り、そして歩み切る事の戦いであり、神様からの愛によってしか生きれないし、愛に生きるのでなければ生きる意味もないと悪魔の環境圏を捨てる事を覚悟する戦いだ。HAVETO意識からLIKETO意識に意識次元を上げなければ、節理完遂に向けて最後の聖戦に勝利できない。そうして真の愛が無条件に自分の内側に流れ込み、内的ビッグバンを起こす。与えたい愛したいという衝動が爆発的に起こる。個人に於いて、家庭に於いて、社会に於いて、全ての段階に於いて真の愛の衝動が連鎖的に拡張していく。

2008年10月28日火曜日

今日の想い 21

天国がそこまで来ているのを、内的霊的にふつふつと実感として感じえているか。今の今、その息吹を感じられないとしたら、御父母様と同じ世界にはいない。太陽から届く真の愛の光で身を沐浴し、真の愛の空気で胸を膨らます。真の愛の水で細胞を蘇らせ、真の愛の土に育ったものを肉とする。自分と言う、小宇宙に張り巡らされた神経は、み言葉の真の生命で再生され、小宇宙を循環する血液は、真の父母に繋がる真の血統を刻印する。対象物と自分の間を悪魔の勢力が支配し、太陽から来る太陽本来の放つものを受け取る事はできなかった。空気も水もその本来の与えるものを人間は受け取れなかった。肉体の感性で受け取る全てのもの、自分の肉とする全てのものから本来の神の愛に満たされたものを人間は受け取る事ができなかった。ものをものとして捉えると、いつまでも本質は自分に届かない。その元素的存在の内的現われや、形ある物をかたどる内的存在としての霊を見る。その霊を妖精と呼ぶこともあるが、熱には熱の霊が存在し、空気には空気の霊が存在する。水の妖精に感謝を捧げれば水は柔らかく甘くなる。全てのものや事柄の背後にあるものを見ようとすることで、その本質に向き合おうとしている。今まで気付かなかった見えないものが届き、ある時はまだ見ぬ真理を教えられ、またある時は愛おしい気持ちを抱く。そのような本来の受け取り方を学び始めると、漆黒の在り様をしていた内面は、色とりどりの色彩に彩られる。愛の花が咲き乱れ、春爛漫に装った宇宙に様変わりする。それこそが、閉じ込められてきた霊の開放であり、開放された霊は新しい次元に昇華し歓喜の歌を奏でる。受け取る全ての事柄を昇華させながら内面の宇宙に蘇らせる。本来の受け取り方を知る真の人間であればこそ、食される事を万物は喜び、手を通して加工されることを好む。それが霊や妖精たちに取っての開放なのだ。既存の概念を払拭し、真の愛の本来の概念を理解する事を深め、万物を前にして真の愛がどう関わっているかを見ようとする。

2008年10月27日月曜日

みそぎ

そこら中が草いきれでもうもうと臭いたち、至る所に虫くれが這い回る故里の草屋で、見えない暗い影に怯えながら暮らしていた。裸電球が僅かに囲炉裏端は照らしても、すすくれだった垂木が渡る天井の奥までは届かない。障子戸に大きく薄ぼんやりと人影が写り、子供にはそれらが不気味に見える。土間からかわやに通じる渡しには、一頭収めるだけの牛舎があった。牛は知らないうちに処分され、静まった暗がりに広がるその空間が怖くて、夜中かわやには行けなかった。大事なところが腫れるとたしなめられても、まだ外で用を足す方が良かった。得体の知れない何かが自分を覆い、どす黒いものが内まで侵入して魂を食む。自然に圧倒されながら、自然が美しいと思えたことは無かった。自然は妖物の化身としか思えなかった。しかし冬になり雪が降り始めると、全てが純白で覆い尽くされる。地に散乱するもの全てが、怯えていたもの全てが、幾重にも幾重にも覆われていく。雪深く真っ白に覆われた故里だけが好きだった。田畑を覆い山を覆い、藁葺き屋根の家々をすっぽり覆う。吹雪で視界は霞み、風が物悲しい笛を吹きながら雪面を這う。冬眠するように皆閉じこもり、全ての存在が身体を丸めて思いに沈む。粉雪を舞い上げていた風が途切れ、そして深い静寂が訪れる。その狭間こそ不純な要素ひとかけらの侵入も許さない神の領域。冴え渡った大気に氷晶を鏤め神界への扉が開かれる。冷気で顔面の皮膚がカチカチになりながらも、体が冷え切るまでその場に身を曝した。自分が生きる何かが、その神聖な場で届けられていた。得体の知れない何かに苛まされる身体は、寒冷のつるぎで憑依するそれらと一緒に突き通されながら麻痺し、魂の深みにある自分のみ神界への門を通っていく。

2008年10月26日日曜日

創造過程

天宙の生成は熱状態時期、気体生成時期、液体生成時期、そして固体生成時期を経、物質への凝縮を可能としてあらゆる生物が生息できる地球記に至る。しかし今我々が概念として持っている熱で当時の熱の在り様は想像できない。気体に於いても液体に於いても固体に於いてもそのようで今の概念で捉えるのは無理がある。人間を含め全ての存在の原因的存在、その内的現れ、その対象表現となっているのが天宙生成過程のそれぞれの在り様だ。無理は承知で、熱の在り様を表す内的な状態とは何か尋ねてみる。自分の中に熱を感じる時とはどういう時だろうか。熱い思いとはどういう状態だろうか。そう尋ねていく時、恐らく天の内的な在り様、即ち想いに対して通ずるものがあるはずだ。人間的感覚で熱があるとは言いようの無い切望感であるとか物事に打ち込み集中する状態だとか初愛の想いだとか、そういった止めれぬ衝動を言う。神に似せて人間を創造されたのであれば、天宙生成に一貫して言える事はそう言った想い衝動を持ち続けられた、そういう意味で熱状態にあったと言える。では何を求めて投入され続けたのか。愛の対象を求めての止められぬ衝動だった。人間という愛の対象を求めた、それこそが天宙生成の唯一の理由だ。愛の対象としての極致を求めて人間を創造された。人間を創造するために気の遠くなるような一つ一つの創造段階それぞれに完全投入され続けてこられた。天宙生成過程の如何なる創造段階も人間創造の為に必要だった。気体生成時期に於いては気体的なものと光的なものとが生成される。神様の人間創造の想いが、即ち熱が、霊体及び霊界形成の霊的要素、肉体及び地上形成の物的要素の更なる要素として、光要素気体要素を神様の二性性相に似せて創造された。液体生成時期には液体的なもの音的なものを創造され、固体生成時期には個体的なもの磁気的なものを創造された。気体的なもの液体的なものを現在の気体液体と認識する事は間違いで、五感で感知できる創造過程等無い。創造されたからこそ五感で感知できるのであって感性悟性を超えた領域であり、現在の限界的認識の人間がその様相を把握しようとするなら想いによる認識が最も近いだろう。受け取った贈り物に送った人の想いを見、贈り物を受け取る事で想いを受け取った事を感じるように、呼吸する空気、受け取る空気に神様の想いを心に感じ、水に触れ水で喉を潤す時、水の体内に浸み込む過程を感じながら浸み込む神様の想いを受け取る。取り巻く環境の全てに、目に映る創造物全てに、そして愛の直接対象としての一個一個の人間存在に、神様の想いを見ようと探求し続ければ、想いである熱を、打ち震える熱状態を自分の内に経験する。

今日の想い 20

親は子供を育てるのにどれ程の心血を注ぎ込むだろうか。親は子供からの見返りを何一つ期待せずひたすら与え続けひたすら投入し続ける。自分の店や会社に対してもそのようで、育てて大きくする為には主人の惜しみない内外の世話が必要になる。親の想いが子供に通じ、親の期待に応えるように、主人の想いが店や会社に注がれ、実りをもたらす存在になっていく。子供が親の欲目や都合に利用されれば真っ直ぐ育たないように、我欲を満たす為の店や会社であれば、蔵に入れる果実を実らす木には成長しない。環境により人格形成の状況が違うように、時代や周りの状況にも左右される。だから店に於いてはローケーションが大きく関わってくる。立ち上げ当初は自分の事も忘れるくらいに心配し世話する必要があるし、立ち上げにどれ程投入するかで成長期の伸びが違ってくる。一緒に立ち上げに関わった従業員は組織の心臓部や体の重要器官として店の発展と共に、それらの位置にあった素質を備え成長していく。育っていくうちにその店の個性が培われていく。主人の想い、従業員の想い、そして客の想いが合わさり一つになって店としての在り様を形成していく。主人はその店の個性を尊重し十分配慮しながら、店の成長に関わっていく事が大事だ。調子のいい時もあるだろう。状況の悪化で病に臥す時もあるだろう。主人はどのような時であっても店のことを先ず最初に考える必要がある。主人が決定権という中枢神経の一部を担っているとしても、店が苦しい時でありながら自分の給料はそのままで、他の従業員にしわ寄せを押し付けるようでは身体としての店を維持することは出来ない。店としての存在意義、公共的使命を把握し、従業員皆がその認識度を深めていくことで、自分の本当の意味での役割や払うべき貢献内容がわかってくる。今、経済環境は泥沼から抜け出せないでいる。もがけばもがくほど悪化の度合いを深める。店としても大きく左右され、そのままにしておけば遠くない将来、店は虫の息状態になっていく。生き延びる為のあらゆる処置が必要だ。もし店が赤字であるなら、赤字という貧血状態を改善しない限り健全化は進まない。誰かが輸血してくれる事など有り得ない。

2008年10月25日土曜日

今日の想い 19

内なる良心の声に耳を澄ます時、そしてみ言葉を本当の意味に於いて理解する時、自分は神の領域を見ている。しかしこの世に埋もれている身体はサタンの領域にある。良心の声に身体を浸透させようとすると戦いが生ずる。身体を直接司る肉心が良心を跳ね除けようとする。良心と肉心の戦いを見ないものは良心が肉心に覆われ霞んでいる。良心を開放する為に肉の思いを凌駕する戦いを繰り広げて来たのが復帰歴史だと言える。堕落性という肉の思いを人間本来の性相だと思わされながら人間は一生を終える。自分に巣食う堕落性に翻弄されながら、それが人生だと勘違いしたまま生を終える。本質を掴めぬままに生きることの意味を問い続ける事を諦める。悪魔の環境の中で泳ぎ、息を繋ぐ事のみに執着しながら、腹を肥らせるものを追いかける。意味の無い習慣的な毎日の歩みに終止符を打ち、惰性的な五感で外から受け取るものに自分を委ねず、微かに内から湧き出るものに意識を向ける。どれ程霞んでいようとも心の奥から滲み出る思いがある。その良心の思いこそ神様に直結している。良心をしっかりと掴んだなら、肉心の思いにどれほど翻弄されようとも、自分は神様から出たものだ、神様が自分の本当の親なのだと言い切れる。み言葉に触れる恩恵に与りながら、一度目を通して解ったつもりでいたりする。何も解ってはいない。心を打つもの、自分の良心にスパークするものを受け取っていないとするなら、何も解ってはいない。み言葉を悟性で理解しても理解したとは言えない。み言葉は悟性の理解にあるのでなく、心情の理解にある。心情が波打つ事でしかみ言葉は受肉できない。み言葉を受け取り消化する過程は汗を条件とし涙を条件とする。汗を流す事が咀嚼であり、涙を流す事が吸収だ。み言葉を食すことで自分の血となり肉となる。み言葉を食すことで神の細胞に作り変えられる。御父母様の勝利された神霊をいただくのであり神霊を宿すのだ。

2008年10月22日水曜日

天の店として

レストランはひとつの統一体として、どういったリズムを全体として奏でているかを見る必要がある。店の造りにどれ程資金を投入しても、その雰囲気が全体から見て浮いていれば返ってマイナス作用が働く。立派な店を作りはしたが、従業員がその雰囲気に合わずギクシャクして、それに振り回されるようでは主客転倒だ。従業員の配置、客の配置、従業員の動きの流れ、全てにバランスが取られ全体的な流れがスムーズで、場所によって配置が偏ったり動きが堰きとめられるようでは宜しくない。談笑しながら落ち着いて食事をしている客をイメージしながら、それに合わせて照明の強さを調整することも必要である。カウンター内オープンキッチン内の従業員の動きやノイズまでも客に取ってサービスだと言えるほどに全ての従業員が客を意識していること。メインディッシュを最も大切なものとして扱いテーブル上にゆっくり配されるとき、客の驚きの視線を感じ小さいため息が漏れるのを受け取りながら食を供えるセレモニーとしての敬虔さを添える。どれ程忙しい時間帯であっても最低限一言添えることを忘れたくない。本来なら素材の説明、料理法、如何にシェフが心を配ったか等、くどくならない程度に伝えることが大切だ。そういった全ての事がレストランに於ける食への付加価値である。投げるように配された膳と恭しく丁寧に配された膳の味がまったく違うように、店の隅から隅まで心を配った分、付加価値は高まる。それらの内容は別に我々の店に限らず全ての店がその程度の認識は持っている。或る意味文化的生活から距離を置いた我々のほうが無頓着で客に与え喜んでもらおうとする直接的感性は鈍い。実力に於いて追い越せ追い抜けと、この世を目標に歩んできた事業に携わる我々ではあるけれど、それはこの世に迎合することを意味してきたのではないか。この世を目標に置く以上この世を凌駕することは出来ない。天の願いを受け御父母様の代身として我々が携わる事柄が、そのまま御父様が携わる事だという深い認識を持つことを第一義に置けば、事業の在り方も違った表現方法になるのではないか。我々が経験し接する人々に対する御父様の一期一会の想いを強くすれば本当の在り様に近づけるのではないか。それには我々の持つ愛の容量度量を増やす以外ないだろうし今まで気付かなかった愛の領域へも触手を伸ばし新しい世界観を提供することが必要だろう。決して経費削減にエネルギーを消耗させ売上増に躍起になって取り組む事に新しい世界への道は繋がっていない。今のような経済の混乱期であればこそ、今まで気付かなかった或いは気付く必要がなかった事柄に焦点を当てる事ができる。とにかく本物しか生き残れないし生き残るべきではないのだ。整理される時が来たのだ。自分も店も御父様の手足であり御父様に取ってこの世との接点にあるとの認識は持っているけれど、本当の意味で御父母様に繋がっているかどうかが問われようとしている。真の父母に繋がり、真の愛の支流となり、真の愛の花が咲くように。

2008年10月18日土曜日

今日の想い 18

より大きな事業に手を着けたいのは解る。それが天の願いだと言われれば、興奮して我を忘れて飛びつく。ビジネスチャンスは確かにあるだろう。摂理の要求でもあるだろう。天が微笑んでいる今を逃すことは不信仰だとの責めがあるかも知れない。しかし手さえ付けて置けば後は霊界が働くなどと言う魔術的なことを信じるのはどうかしている。霊界はそのようには働かない。そういう霊界の捉え方はここに無いものを一瞬で現せと念ずる黒魔術で、我々の内的な内容に働きかける霊界ではなく外的なものに目に見える形で働く霊界を信じる物信仰にある。要するに宗教的唯物主義だ。イエス様は奇跡を使い目に見える霊として現されたけれど、その奇跡ゆえに条件を無くしたと語られたみ言葉があったと思う。お父様はそのような手法で我々に霊界を示されたことは一度も無い。事が成るにはそこに到達するまでの段階を一つ一つ越える以外ないのだ。大きな話を持ちかけられその度に失敗している様はサタンにすればどれだけ滑稽で天の面目を殺ぐものであったか。苦労に次ぐ苦労を重ねながら紙一重ずつの復帰を重ねる一方で、これが自分の使命だと狂信して大枚を投じ一瞬でぼられる。我々の幼さ馬鹿さ加減も数十年を重ねて流石に経験としてインプットされるものと思いきや、相変わらずその体質は変わらない。信じて飛びつくのはいい。飛びついたのならそれが一つの形になるまであらん限りの精誠を尽くすべきだ。それだけの覚悟が無いのに手を付けるのは本当の意味での責任意識、責任心情に欠けている。霊界が我々を飛び越えて直接的に物事に働くなら、我々の存在意味は無い。訳のわからないお化けのような自分の勝手な霊界概念を捨て、霊界の意味するところを本質的に捉え、この自分という存在の思考、心情、意志にこそ霊界が関わる或いは霊界を関わらせるのであり、理解を超えたものが目の前に現れるのではない。一つの課題を与えられて自分の中に自信確信が持てない限り手を着けるべきではない。関わっている内に見えてくると説得され、それで入っていくならそこに投入される内外の投資に対して、完全なる責任を負う覚悟を持って深入りしていくべきだ。既に我々は大きな負債を内的に抱えている。み旨だからと言う言葉に呪文をかけられて関わったものの、中途で投げ出した多くの摂理に対して莫大な負債を抱えている。我々の認識のないその負債を誰が清算するのか、御父母様に全てを背負わせながらそれに対して他人事のように新たな事業や事柄に頭を突っ込む。

信仰

どれほど信仰歴が長かろうとも過ぎ行く時が自分を成長させてくれる訳ではない。逆に長ければ長いほど、天の願いに沿うた自分の内面の在り方なのか、謙虚に問いただす姿勢が必要になる。中途半端にみ言葉を理解しながらそれなりに忙しく時を過ごして、一人前の信仰者気取り(自分も含めて)でいるのを見れば落胆されるに違いない。信仰者と言うけれど、たとえ信仰があると自分で思いながらも、考え方や生活が内的霊的なことを主軸に置かず、外的物質的なことに重心を置いて歩んでいたりする。信仰の服を装ってはいるが内面は外的事柄に価値を置いて歩んでいる。当の本人はそれで全うな歩みをしていると信じているから始末が悪い。問題を起こさなければ信仰者、言われる事に素直に従えば信仰者、献金等やる事をやっていれば信仰者、条件を立てていれば信仰者、そういったことは自分は村八分にされたくない、一緒に天国に連れて行って欲しいとの願望或いは下心から自分は信仰者だと言い張っているだけで、本来のあり方とはかけ離れている。自分の中に帰依する内容がどれだけあるかを問えば、それが自分の信仰の度合いを表している。物に限らず、内外の自分が所有していると認識しているあらゆる事柄一つ一つに対して、執着しているかゆだねているか、囲っているか解き放っているか、そう問うていけば自分が何者で何処に所属するのかは見えてくる。周囲の目に自分がどう映っているかばかりが気になり、信仰の本質を備えることができず張りぼて信仰となると、他人のことをとやかく材料にして信仰評論をし始める。落ちただとか離れただとか、その言葉には信仰の香りが無いし愛がない。最初に誰がその言葉を使ったのか知れないが、皆にその裁きの思いが宿っているからその言葉が出てきたのだろう。行動はどうあれ、自分に信仰があるかないかは自分が判断するものだと思う。自分がどういう空気の中に存在しているか、自分自身を含め自分の周囲を占めるものがどういう様相をしているか、それは過去に自分がどう生きてきたかの証、何処に価値を置いてきたかという信仰の実体。明日を創り未来を創るのは今日どういう信仰の種を撒くかによる。視線を情けない今の自分の在り様と自分の周囲に釘付けすれば目を逸らし無視し殺すしかない。視線を明日に向けることだ。信仰とは良心を羅針盤として明日を見ようとする意志だ。

2008年10月17日金曜日

中心と自分

中心をどれほど責めようとも責めた言葉が全部自分に跳ね返ってくる。自分が組織の一部であるということは、組織全体の責任の一端を担うことだと思い至ればそうなる。たとえ中心に対して責められる内容があるとしてもその中心の基に、組織に於ける自分の在り様を委ねている。言い換えればその中心を中心として頂いているのも、良し悪しは別として因縁に因るものであり避ける事はできない。日本人でありながら自分は日本人はきらいだから他国の人間になるといっても出来ない相談であるように、その星のもとに生まれた存在であることを認めて受け入れなければ逃げてばかりいても前には進めない。嫌だと言って袂を分けたとしても逃れられる負のしがらみと共に自分が依っていた気付かなかった必要不可欠の部分も失う事になる。分かれてみて初めて、気付かなかった依存していた多くの事柄が見えてくるが、日頃息が出来る事のありがたさに思いが至らぬように、その中心の傘の元にいると気付かない。日本の多くの兄弟は今ある中心者のもとに歩んできた。良くも悪くも日本の代表として御父母様に選ばれたひとつの運命共同体として、その中心者を中心として生死を共にし苦楽を共にしてきた。その中心者に顔を向けて歩む事がみ旨を歩む自分の存在を確定する事であり、父母に繋がる道でもあった。好きだとか嫌いだとか、間違っているとか正しいとか、そういう外からの目線で判断する事自体、自分を否定する事だった。指示系統もそこから流れるが御父様が日本として愛される愛もそこから流れる。御父母様が、自分がその一部である処の日本をイメージされる時、明らかにその中心者のイメージが入っている。であれば腐れ縁どころか、その中心を御父母様の前に立てることが日本を立て、自分をも御父母様の前に立てることとなる。御前で証でもされて、御父様が喜ばれれば、この自分の事で喜んで戴けたように素直に嬉しい。

2008年10月16日木曜日

今日の想い 17

本当の強さは刃(やいば)を内面に保持している者から滲み出る。自分の理想像を捕らえたものがその高みに自分を向け続けるには矛盾する内面を直視しなければならない。山頂に向けてそそり立つ絶壁に沿って足を進めていけば、その足を背後から引き摺り下ろそうとする存在が自分の中に居座るのを視る。精神の高潔さを目指せば目指すほど、自分に居座るこの存在が妖術でも懸ける様に理想像を曇らせ意志を萎えさせる。極めて巧みに、それが自分本人の願いであったかのように魂を抜き取る。内面に保持した刃は常に研ぎ澄まされ、その切っ先は自分に向けて正眼に静かに構え、直ぐにも動に転ずる冴を含ます。心の隙あらばムクムクと湧き上がる物の怪をその刃が切り刻む。萎える気持ちを装って顔を覗かせる悪なる霊を自分の中に視、それを分別して理想像への想いを強くする者は内面の刃を保持している。その時点で悪霊にいとも簡単に魂を許す貞操観念のない人種とは異なるが、しかしながら切れども切れども醜い頭を覗かせ手足をくねくねと躍らせる湧き上がる内なる霊はきりが無い。それらは因縁を持って受け取った、陰の欲望を満たす為にミスユーズされたひとつひとつの霊。恨みに顔を歪めた数え切れぬ霊を内包したまま生き永らえているのが堕落人間の姿だ。内なるこの戦いを本当に終わらせる為には燃やして焼き尽くす以外ない。霊的な火炎であるみ言葉を内面に浸透させるしかない。み言葉の力、み言葉の炎の力に身を委ね、偽りの自我が焼き尽くされる事で真の父母により新生する真の自我が芽を出す。

2008年10月15日水曜日

日日

情を与えることは愛を与えることとは違う。愛は与えても情を与えるなと、語られたみ言葉の中にはっきりと書かれている。キリスト教の関わりが希薄な日本人の多くは特にこの違いを曖昧にしている。要するにアガペーの愛とエロスの愛の違いのことだ。日本人のこの曖昧さ故に我々の教会生活も笑えるくらい男女の線引きがなされていた。肩でも触れようものなら本人からも周りからも白い目で睨み付けられ、カップに至るまで男性用女性用と分けられていた。過ぎたるは及ばざるが如しで、かえって意識がそこに釘付けとなり、男子校にうら若い女性教師が就任するような危なさがある。しかし日本の性意識の堕落振りを見れば致し方の無いことなのかも知れない。堕落性の多い自分だから特にそう思うのかも知れないが、優しさとか慰めといった言葉の中に既に肌の触れ合いを想起させるものがあると思う。英語表記に直すと印象が全然違うと思われる含みのある言葉が日本語には多くある。日本語のイントネーション自体、抑揚がなく水が流れるような滑らかな横的印象がある。横的愛のエロスの流れもそのようで、源氏物語の光源氏が、流れ行く想いに身を委ねる様を優雅な趣に捉える日本の民族性が伺える。日日家庭の一家庭として思うに、日本の一つの課題がそこらへんにある。祝福家庭として真の父母に繋がり、縦的な愛に貫かれた夫婦であるべきなのに、横の繋がりが勝手に主体となり、父母がいてもいなくても夫婦の関係性が保てると言うことだ。父母はすすけた神棚に鎮座するものと無意識に捉えており、夫婦や家庭の関係性に関わらない。たまに集合が懸かったり何か頂き物がある時だけすすを取り払いお参りする。生きて袖触れ合いながら歩んでおられるのに死人の扱いと何ら変わらない。祝福の種は頂いたけれど育てる愛の経路に思いが至らず、普通一般の日本的家庭概念で囲んでしまう。交叉結婚と言われるように、ことごとく背景が違うと先ず縦的な愛を立てざるを得ない。縦を立てなければ横も通じない。父母抜きには有り得ない関係性がお互いの中でそして家庭で培われていく。韓国に嫁いだ日本妻達の並々ならぬ苦労をよく耳にし、同情を禁じえなかったけれども、お父様は、本人も日本としてもこれが最善であり神に通じる直短コースであることを知っておられたのだろう。無知なるかな我が家庭も大きく遠回りをしながら、父母が願い父母が共にある本来の家庭に軌道修正しつつある。回り道をすればするほど必要以上の犠牲を払わざるを得ない。

2008年10月14日火曜日

今日の想い 16

内的在り方、即ち魂の在り方に於いて人間としての理想を何処まで高く掲げられるか。理想的在り方に対する飽くなき追求こそ生きている意味であると認識して行動、思考、感情全てをその認識で浸透させる。その認識で沸き立つほどに行動に熱を持たせ、理想が内なる法となるべく思考を結晶化させ、感情領域が自分と言う枠を飛び越え世界を包む。個としての理想イメージをイエス様が確立されたように、御父母様は家庭理想を確立された。神様が、人が一人でいるのはよくないと語られるように家庭が最小単位となる。家庭理想が掲げられる事で、個としての理想が理想足りうる。神への志向意志が自分の中にあるかどうかは創造理想を追求する思い入れが自分に在るかどうかだ。み言の一つ一つに、天のお父様の息子としての自分本来の理想をイメージでき、そうありたいと切望する熱いものが内なる中に燃えているか。燃え盛る炎としてのみ言を自分の内に宿さない限り、生きて働くみ言とはなりえない。み言を辿る時、その生命を受け取る事が出来ない、その本質を受け取ることが出来ない悔しさを覚えながら、それこそ悪魔の魔法にかけられ獣に姿を変えられ、神の言葉の理解できない自分であることに対して憤りを覚えない限り、魔法のバリアを突破することはできない。あまりにも容易く目の前に広げられたみ言を、容易さゆえに上辺だけをなぞり、それが自分と世界はおろか天宙をも変えるみ言であることに不信を抱き続け、真の意味でみ言に出会うために40年を費やした。しかし大きく迂回路程で40年を越えた今、我々は本当に準備できているだろうか。兄弟一人一人の内なる世界にみ言は燃え盛っているだろうか。神の理想、御父母様の理想をしっかりと捉え切望しているだろうか。天の時計は刻々と刻まれている。我々が消え去ろうともみ旨は完遂される。

2008年10月13日月曜日

霊の本質

人間は二つの状態を行き来している。ひとつは意識圏、今ひとつは無意識圏。起きている状態と眠っている状態。意識圏は物質界に於いて肉的五感と覚醒状態の思考を通して感知し関わっている。眠っている間は五感で物質的感覚を受け取る肉体から抜け出し霊界の入り口付近で守護霊に護られながら存在している。無意識圏が無意識圏である理由は人間が意識できる状態が非常に限られたものであるからで、物質界の荒い状態をのみ意識できるほどに人間の感性は限定的なものとなった。意識するしないに関わらず、地上界で様々な経験(見聞を含め)を通してあらゆる霊を受け取っている。物質と言えどあらゆる物はその霊的本質の表示体であり、霊的なものが見える形となって現れている。唯単に見たり聞いたりする物や事柄であっても、感覚を通して受け取ったと言う事は霊を受け取っている。人間間のやりとりや社会での関係性はより複雑な霊を受け取っている。受けた霊に対して唯物論者は何もしない。受けるばかりであらゆる霊に押しつぶされながら生を送る。本来受けた経験を自分の内なる中で感謝なりより高次的な思考や情や創造意志に昇華されるべきで、地上界の全ての霊は人間のこの働きをして霊的高次の霊に結晶されるのを待っている。それが本当の意味の万物主管だと思う。あらゆる万物はその霊的在り方を人間を通して高められる。高められた霊を集める事の意味するものはより愛のある人間存在と言える。人間の一生を通して地上生活に関わる事で、より深いより広いより大きい愛の理想を自分と言う宇宙に作り上げ集めている。肉体を脱ぐとそこに住むというよりそれが私の在り様そのものとなる。物だけを信じて生を終えた者は死後、受けた霊を昇華できず物質に留まる霊の重みに押しつぶされ霊の恨みに翻弄される。生きている間、霊から護ってくれていた守護霊は生きていればこその守り神である。護られている間、即ち生きていればこその地上に於ける愛の学び愛の訓練に他ならない。

2008年10月9日木曜日

飛躍する

アメリカの経済は底なし沼の様相を現してきた。論理的に考えればこの国は破綻せざるを得ない。諸悪の根源は金融にあるが、実体経済との線引きが為されている訳ではないので影響を受ける。更に金融取引は実体経済とは桁が違うのでその影響は計り知れない。この経済大混乱は摂理的観点から見るとどう説明できるのか。2012年末、或いは2013年初頭に於ける摂理完遂は決定事項で、それに合わせて霊界主導で全ての動向は仕向けられていく。経済の動きも決してそれに漏れる事はない。そこに意志が働いていることは確実だ。摂理の一端を担い歩んできた立場で今我々がどういう状況の中にあるのか、はっきりと認識する必要がある。勿論同じ経済圏内に組し、同じ貨幣同じ価値基準で動いているわけだから、我々だけが浮き上がることは出来ない。しかし摂理動向として経済の流れや方向性が見えるなら、同じように影響を受け同じように混乱の波に曝されるとしても、その対処の仕方は違ったものになるはずだ。前にも述べたように、我々の経済活動は利益そのものにその意義を見出すのでなく、その基盤に意義を見出しその為に利益体制が必要だと捉えるべきだ。神が関与する事ができる真の父母との関連や因縁を付与できれば、そこは我々の基盤として神と霊界にインプットされる。その観点をしっかりと腹に備えてこの混乱期を見渡せば見えるものがないだろうか。予定論に記されているように、復帰摂理の目的も善で、その目的を成就するみ旨もまた善であるべきで、そうであるなら我々の活動が復帰摂理の目的に適っているなら、それに相反する事柄があるはずがない。この混乱期が予定としてあるなら、この混乱期を持って基盤を大きくすることが出来るはずだ。ただ我々の思慮が行き届かない為、津波や大波に翻弄されるしかない。ここが我々事業を担う者に取って、本当に信仰の見せ所であり御父母様に侍り精誠を尽くす踏ん張り処だろう。しかし我々の中に神が相対するものだけなのかどうか、サタンも相対できるものがあるならそれを整理する事が最優先だ。神が相対できる個人となり組織となってこそ、この混乱期を逆手に取る大飛躍が望める。

2008年10月8日水曜日

お迎え

一度だけ、御父様と私と二人だけで同じ部屋に居合わせてしまった事がある。偶然に居合わせただけで、別に個人的に呼ばれた訳でも何でもない。お食事をお世話させて頂いた折、盛り付けた皿を食卓に一つ一つ運んでセッティングしていた。いつもは御付の方やVIPが大勢おられて、お近くで拝見するのにも多くの頭越しに視界が遮られる場合が殆どだ。しかしその時はメインプログラムが終わった後で僅かの御付きの方とゆっくりしておられた。二階のお部屋で御母様と居られるものと思っていたが、何度かダイニングと調理場を往復している間、スッと音も立てずに入ってこられた。上に居られるとばかり思っていたので視界に入ってこられた時は突然の事でびっくりし、立ち尽くすしかなかった。少し余裕でもあれば啓拝を捧げることに思いが至っても良かったはずだが、頭の中は真っ白で手にしていた皿を辛うじてダイニングテーブルに置いて調理場に引き返すのが精一杯だった。後でダイニングに入っていったオンニは慣れた風で、ここに居られましたかと言った様な韓国語で一言謝意を伝え、笑顔で簡単な啓拝を捧げておられた。御父様もそれに応える形で一言口にされた。その時は食事の事で精一杯でそれについてどうこう思う事もなかった。しかし片付けも無事に終わってひと段落し、帰る車の中でやっと余裕が出てきた頃、おもむろにその時の光景がありありと浮かんでくる。自分とオンニのこの対処の違いは余りにも大きい。御父様との距離の違いを認めざるを得なかった。そして今ひとつ気になったことは、御父様が私を目にされた時、瞬時に視線を外された事だ。その時は目にするのも汚らわしい自分なのだと、落ち込みも尋常では無かった。それから何度か要請を頂いて御礼を述べる機会も何度かあったが、目の前にされても直視されたことは唯の一度もなかった。お言葉を頂くこともあったが、目が細すぎる為か何処に視線を合わせておられるのかさえ解らない。私だけにそのような態度を取られる訳でもないということが解り、胸のつかえが降りた。焦点を合わせれば霊的背景が飛び込むだろうし、視線が合えば瞬時に内面を見抜かれるのだろう。普通、皮膚に覆われた身体の輪郭や表情に現れる印象のみでは、本質的なものは見届けられない。その人間の極々一部を受け取り、それで見えない背後を判断するのは殆ど誤解に近い。しかし一瞬だけ目が合った御父様の小さな瞳の奥には、私の全てが映し出されているように思えた。自分は御父母様をどれ程慕っているかが、御父様が御覧になられてどのように映るかの判断材料なのだとも思った。前に一度、数名のスタッフに混じってホテルにお迎えした時、御父様はいつものように花束を受けられウェルカム拍手を受けられた。そして案内されて部屋に足を向けられる時、急に立ち止まられた。そして誰かに呼び止められたかのように、背後を振り返り探すようなそぶりを見せられた。私はその時かつて無いほど慕わしい思い、申し訳ない思いで感極まっていた。いつもは準備の事、時間の事で一杯で形の上でのお迎えに過ぎなかったが、その時はいろんな事情が重なり相当落ち込んでもいた。私は一瞬立ち止まられ振り返られた御父様の様子をみて、私を探しておられるんだと勝手に思うことにした。

2008年10月7日火曜日

逃走記 3

車窓からいろんな景色が飛び込んでくるが、それを楽しむ余裕は全く無かった。自分が消え去ったことはすでに皆の間の周知となっているだろう。朝礼で自分のことはどう触れられたのだろうか。朝食の場で話題の中心となり笑われているだろうか。そんな想像が内面を行き来しながら、何処までも何処までも落ち込んでいった。どんより曇るか雨でも降ってくれれば、自分は不自然なく、その景色と調和し、それが今の自分の居場所となれるものを、、。しかし空は青く澄み渡っている。青い空が余計に自分を孤独な感情に追い遣る。否定的な思いや感情が内面をことごとく蝕みながらも、しかしまだ許される道が途絶えたわけではないという叫びがその下に息づいていることも解っていた。遠くない将来に目を遣っても、教会と全く関係の無い人生をイメージする事はどうしても出来なかった。職場で親元の連絡先はわかっているはずで、数日の内に連絡が来るはずだと言う期待もあった。電車を乗り継ぎ、さらにバスに乗り継いで、久しぶりの故郷に足を着けた。田舎はやはり寂しいところだ。バス停で待っていてくれた父の軽に乗り込んでやっと家まで辿り着いた。家では早々とコタツが出されていた。母は私の顔を見るなり目を伏せながら、コタツにあたってゆっくりするように勧める。母の目に光るものが見える。元気を装って帰ってきても何を思っての事かぐらいは親子であれば察しはつく。祖父の症状の悪化は度を増していた。痩せこけ、布団の上に上体を起こされた祖父は、自分の見覚えの或る祖父と比べて半分に満たないほど小さくなっていた。痴呆も進み、久しぶりの孫の顔を見ながら声にならない声で笑っていた。笑いながら涙をぼろぼろこぼし始めた。居た堪れなくなった。申し訳ない思いが堰を切って溢れだした。くしゃくしゃになった祖父の顔を見ながら、上司に許しを請うてでも再びみ旨に身を預けることをその時決めた。どれ程力なく弱い自分であっても、この祖父の魂を救い親の魂も救えるのは、み言を受け入れたこの私しかいないと思った。祖父や親に対するこの想いを封じ込めてまで逃げて暮らすことはできない相談だった。田舎に帰って二日して連絡があった。「上にはちゃんと説明しておくからゆっくり休んだら帰るように、」上司の声だった。

逃走記 2

玄関辺りの物音が途絶えエンジンのアイドリングの音が耳に入る。ふかしたエンジン音がゆっくりと遠ざかるのを確認しながら起き上がった。散らばっている兄弟達の足を踏まぬよう細心の注意を払い戸口まで移動し、物音を立てぬよう引き戸を開ける。上体を起こした者がいないことを確認するとゆっくりと戸を閉めた。身を返すと直ぐそこは玄関だ。夜目にも判る様、下駄箱の左下隅に作業靴に隠れるように用意した自分の革靴を仕込んで置いた。落ち着くように無理にでも動作に余裕を持たせた。玄関の戸はどれ程慎重に開けても音は発する。であれば体がすり抜けられる幅まで一気に開けたほうがいい。面白いほどに事が運び、ついに私は念願の圏外の身になった。それが何の意味かは考えないようにして、しかし確かに境界線は越えた。駅まで足を速めた。深まった秋の明け方、冷気に身を割り込ませながら、開放感に包まれていた。その興奮に心躍らせながら乗車券を購入しホームに流れ込んだ列車に足を踏み入れる。落ち着いてきたのかやっと周りの景色が目に入ってきた。無表情な通勤族が視線を宙に浮かせて発車を待っている。薄手のジャンパー一つで飛び出してきたが結構みんな厚手ものを羽織っている。聞き取れない車内アナウンスの後、笛が長めに構内に響くと列車は滑り出した。乗換駅を確認して座席深く座りなおした。望み通り車上の人とはなったが、親元の所に取り敢えずは帰るにしても、それ以降のことは全くの白紙状態だった。列車に乗るまでが開放感に浸り興奮の極みだったようで、落ち着いてみるといろんな思いが錯綜し始めた。本当にこれが自分の願いだったのか取り返しのつかない選択をしてしまったのか、いつのまにか開放感はそのまま不安に取って代わった。今まで自分が思うてみても居た堪れないほどの心の責めを浴びてきた。口を割らぬ者が拷問に耐え切れず、我意識せず口に出してしまうように、それほどに切羽詰ったものが自分の中にあったことは事実で、或る意味口を閉ざし応えてくれない神様への最後の自分の抵抗の態度とも言えた。行動に対する負債はかけらも無かった。ただ、自分なりの精一杯の内外の苦労が全く報われなかったと結論づける自分が悲しかった。一言の天の慰めを期待すれども黙して語られる事は無かった。涙が後から後から流れて止まらなかった。袖口で拭いながら、ティッシュを用意しなかったことは唯一計画ミスだったと思った。

逃走記

万物復帰で一軒一軒回っていく。献身して以来、殆どがそういった類の歩みだった。魚を扱うようになっても商品が魚に変わっただけで相変わらず一軒一軒尋ね歩いた。いろんな仕事の中でもその手の事が最も嫌いだった。それでも離れず落ちずしがみ付いて来れたのは、何とか祝福にありつけたいという思いがあったからだ。しかし内的には苦しくて苦しくて、今日一日もつだろうか明日はどうだろうかという状況だった。ある時、苦しさに辟易して限界を感じ、兎に角楽になりたいと或る決意をしてしまった。数日経ってその日は来た。その前日、あらん限りのナケナシのヤル気を振り絞りながら最後の業務についた。歩みを終えていつものように洗車し、いつものように夕食を取った。時間ばかりが気になった。これほどに時間が刻まれる事に対して意識したことはかつて無かった。就寝時間になって布団に入っても、寝れる訳は無い。兄弟達の鼾を耳にしながら布団の中で小さく固くなっていた。皆の目を誤魔化して着衣のまま布団を被り財布を握り締めていた。誰にも悟られないように決行するにはそれなりの知恵が要る。仕入れのメンバーが築地に向かうのは朝四時前。大部屋に皆が寝ていても仕入れの目覚ましは三時半にセットされ、小さい音ながら隣から耳に出来る。しかし三時以前は誰か一人二人は調べものをしたりして起きていたりする。気付かれれば加工場に用事があると言い訳したとして、戻って来なければ疑われる。そう考えると仕入れのメンバーがごそごそと物音を立てながら仕度し、トラックに乗り込んで出掛けた直後が最適時間帯となる。後を追う様にして出てしまえばたとえ誰かが気配に気付くとしても起き上がってまで詮索することはないだろう。仕入れのメンバーが忘れ物をしたぐらいに取ってくれるはずだ。皆の起床は六時で、五時以降には起き出して来る者もいるのでその頃には既に列車に乗り込んでいるべきだ。何度も何度も段取りを頭の中で繰り返しながら、夜目に辛うじて確認できる左手首の時計盤を凝視し続けた。全ての感情は払拭され自分の下した命を遂行することのみ、自分の中で息づいていた。

2008年10月6日月曜日

今日の想い 15

自分で決断すればこそ、自分で責任を取るという意志が芽生える。言われた事をそのまま受けて行動に移したとしても、その行動に責任意識は伴わない。せいぜい不平不満を払拭するのが精一杯だろう。何事にも自分で決め、実行し、そして検証するというプロセスを踏まない限り、自分自身の経験実績とはならない。いつまでたっても、いつも何事かに関わっているにも関わらず、何事にも他人事の域を出ない。言われたままに従うと言う事が、本来その事柄を自分の中で咀嚼し、自分の決定事項として納得し、それに基づいた行動に出てこそ、指示された事柄であっても自分の事柄として責任意識が伴う。受けたことを何の思慮もなく行動に移したところで、本来の願いとずれが生じ時間や距離を置く毎に益々大きくなっていく。組織に於いて願いや使命を受けて結果を出すということは、結果を出すだけの責任意識、責任感情が自分の中に培われない限り有り得ない。責任意識、責任感情は自分の決断した行動にしか伴わない。兄弟の多くは、自分が決意するという自分起点の能動的意識、能動的態度が大きく欠落している。この世では地にしっかり足を着けて自分で歩かなければ生活にも事欠く。決意し行動するというのは欠かせない生きる術なのだが、兄弟はある意味、生活は勝ち取るものではなく与えられるもので事実与えられ飼いならされ、生活向上の意識も無ければやがて向上心という言葉さえ自分の中に見出せない存在まで落ちた。決断することが無いから決断する時の勇気も解らないし、行動結果として失敗した時の心の痛み、成功した時の達成感も理解できない。そういう人間的な味わいを忘れて、どうして社会的人間を感化できたり、この世と渡り合って勝ち抜いていく事ができるのだろうか。祝福家庭だという誇りは大切だが、箸にも棒にもかからない夢想動物から目覚め、生きている事の手応えを覚える者になる必要がある。自分は公金問題もアダムエバ問題もカインアベル問題も無い、それは自分が勝利した内容ではなく唯単に避けていただけの事に過ぎない。出る杭は打たれるから波風立てずじっとしていただけのことだ。何でもいい。自分の社会生活に対する自己欲を利用し先ず行動に着火させることが大切だ。欲に火がついてそれが活力となり行動が回り始めてその利益なり実りが生じる。そうなってからでも十分自分を主管していくことはできる。自分の内から生じる悪、外から流れ込む悪、それらと渡り合う土俵に自分を持って行き、それを主管する過程でこそみ言の力を見出せるだろうし、自分に取り本物の善を勝ち取る事が出来る。避けていれば自分の内なる善悪も把握出来ないし、内的に闘う意味も解らない。中間位置で何の変化もしていない。