2008年10月8日水曜日

お迎え

一度だけ、御父様と私と二人だけで同じ部屋に居合わせてしまった事がある。偶然に居合わせただけで、別に個人的に呼ばれた訳でも何でもない。お食事をお世話させて頂いた折、盛り付けた皿を食卓に一つ一つ運んでセッティングしていた。いつもは御付の方やVIPが大勢おられて、お近くで拝見するのにも多くの頭越しに視界が遮られる場合が殆どだ。しかしその時はメインプログラムが終わった後で僅かの御付きの方とゆっくりしておられた。二階のお部屋で御母様と居られるものと思っていたが、何度かダイニングと調理場を往復している間、スッと音も立てずに入ってこられた。上に居られるとばかり思っていたので視界に入ってこられた時は突然の事でびっくりし、立ち尽くすしかなかった。少し余裕でもあれば啓拝を捧げることに思いが至っても良かったはずだが、頭の中は真っ白で手にしていた皿を辛うじてダイニングテーブルに置いて調理場に引き返すのが精一杯だった。後でダイニングに入っていったオンニは慣れた風で、ここに居られましたかと言った様な韓国語で一言謝意を伝え、笑顔で簡単な啓拝を捧げておられた。御父様もそれに応える形で一言口にされた。その時は食事の事で精一杯でそれについてどうこう思う事もなかった。しかし片付けも無事に終わってひと段落し、帰る車の中でやっと余裕が出てきた頃、おもむろにその時の光景がありありと浮かんでくる。自分とオンニのこの対処の違いは余りにも大きい。御父様との距離の違いを認めざるを得なかった。そして今ひとつ気になったことは、御父様が私を目にされた時、瞬時に視線を外された事だ。その時は目にするのも汚らわしい自分なのだと、落ち込みも尋常では無かった。それから何度か要請を頂いて御礼を述べる機会も何度かあったが、目の前にされても直視されたことは唯の一度もなかった。お言葉を頂くこともあったが、目が細すぎる為か何処に視線を合わせておられるのかさえ解らない。私だけにそのような態度を取られる訳でもないということが解り、胸のつかえが降りた。焦点を合わせれば霊的背景が飛び込むだろうし、視線が合えば瞬時に内面を見抜かれるのだろう。普通、皮膚に覆われた身体の輪郭や表情に現れる印象のみでは、本質的なものは見届けられない。その人間の極々一部を受け取り、それで見えない背後を判断するのは殆ど誤解に近い。しかし一瞬だけ目が合った御父様の小さな瞳の奥には、私の全てが映し出されているように思えた。自分は御父母様をどれ程慕っているかが、御父様が御覧になられてどのように映るかの判断材料なのだとも思った。前に一度、数名のスタッフに混じってホテルにお迎えした時、御父様はいつものように花束を受けられウェルカム拍手を受けられた。そして案内されて部屋に足を向けられる時、急に立ち止まられた。そして誰かに呼び止められたかのように、背後を振り返り探すようなそぶりを見せられた。私はその時かつて無いほど慕わしい思い、申し訳ない思いで感極まっていた。いつもは準備の事、時間の事で一杯で形の上でのお迎えに過ぎなかったが、その時はいろんな事情が重なり相当落ち込んでもいた。私は一瞬立ち止まられ振り返られた御父様の様子をみて、私を探しておられるんだと勝手に思うことにした。

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