2008年10月25日土曜日

今日の想い 19

内なる良心の声に耳を澄ます時、そしてみ言葉を本当の意味に於いて理解する時、自分は神の領域を見ている。しかしこの世に埋もれている身体はサタンの領域にある。良心の声に身体を浸透させようとすると戦いが生ずる。身体を直接司る肉心が良心を跳ね除けようとする。良心と肉心の戦いを見ないものは良心が肉心に覆われ霞んでいる。良心を開放する為に肉の思いを凌駕する戦いを繰り広げて来たのが復帰歴史だと言える。堕落性という肉の思いを人間本来の性相だと思わされながら人間は一生を終える。自分に巣食う堕落性に翻弄されながら、それが人生だと勘違いしたまま生を終える。本質を掴めぬままに生きることの意味を問い続ける事を諦める。悪魔の環境の中で泳ぎ、息を繋ぐ事のみに執着しながら、腹を肥らせるものを追いかける。意味の無い習慣的な毎日の歩みに終止符を打ち、惰性的な五感で外から受け取るものに自分を委ねず、微かに内から湧き出るものに意識を向ける。どれ程霞んでいようとも心の奥から滲み出る思いがある。その良心の思いこそ神様に直結している。良心をしっかりと掴んだなら、肉心の思いにどれほど翻弄されようとも、自分は神様から出たものだ、神様が自分の本当の親なのだと言い切れる。み言葉に触れる恩恵に与りながら、一度目を通して解ったつもりでいたりする。何も解ってはいない。心を打つもの、自分の良心にスパークするものを受け取っていないとするなら、何も解ってはいない。み言葉を悟性で理解しても理解したとは言えない。み言葉は悟性の理解にあるのでなく、心情の理解にある。心情が波打つ事でしかみ言葉は受肉できない。み言葉を受け取り消化する過程は汗を条件とし涙を条件とする。汗を流す事が咀嚼であり、涙を流す事が吸収だ。み言葉を食すことで自分の血となり肉となる。み言葉を食すことで神の細胞に作り変えられる。御父母様の勝利された神霊をいただくのであり神霊を宿すのだ。

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