2008年10月7日火曜日

逃走記

万物復帰で一軒一軒回っていく。献身して以来、殆どがそういった類の歩みだった。魚を扱うようになっても商品が魚に変わっただけで相変わらず一軒一軒尋ね歩いた。いろんな仕事の中でもその手の事が最も嫌いだった。それでも離れず落ちずしがみ付いて来れたのは、何とか祝福にありつけたいという思いがあったからだ。しかし内的には苦しくて苦しくて、今日一日もつだろうか明日はどうだろうかという状況だった。ある時、苦しさに辟易して限界を感じ、兎に角楽になりたいと或る決意をしてしまった。数日経ってその日は来た。その前日、あらん限りのナケナシのヤル気を振り絞りながら最後の業務についた。歩みを終えていつものように洗車し、いつものように夕食を取った。時間ばかりが気になった。これほどに時間が刻まれる事に対して意識したことはかつて無かった。就寝時間になって布団に入っても、寝れる訳は無い。兄弟達の鼾を耳にしながら布団の中で小さく固くなっていた。皆の目を誤魔化して着衣のまま布団を被り財布を握り締めていた。誰にも悟られないように決行するにはそれなりの知恵が要る。仕入れのメンバーが築地に向かうのは朝四時前。大部屋に皆が寝ていても仕入れの目覚ましは三時半にセットされ、小さい音ながら隣から耳に出来る。しかし三時以前は誰か一人二人は調べものをしたりして起きていたりする。気付かれれば加工場に用事があると言い訳したとして、戻って来なければ疑われる。そう考えると仕入れのメンバーがごそごそと物音を立てながら仕度し、トラックに乗り込んで出掛けた直後が最適時間帯となる。後を追う様にして出てしまえばたとえ誰かが気配に気付くとしても起き上がってまで詮索することはないだろう。仕入れのメンバーが忘れ物をしたぐらいに取ってくれるはずだ。皆の起床は六時で、五時以降には起き出して来る者もいるのでその頃には既に列車に乗り込んでいるべきだ。何度も何度も段取りを頭の中で繰り返しながら、夜目に辛うじて確認できる左手首の時計盤を凝視し続けた。全ての感情は払拭され自分の下した命を遂行することのみ、自分の中で息づいていた。

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