2008年10月6日月曜日

今日の想い 15

自分で決断すればこそ、自分で責任を取るという意志が芽生える。言われた事をそのまま受けて行動に移したとしても、その行動に責任意識は伴わない。せいぜい不平不満を払拭するのが精一杯だろう。何事にも自分で決め、実行し、そして検証するというプロセスを踏まない限り、自分自身の経験実績とはならない。いつまでたっても、いつも何事かに関わっているにも関わらず、何事にも他人事の域を出ない。言われたままに従うと言う事が、本来その事柄を自分の中で咀嚼し、自分の決定事項として納得し、それに基づいた行動に出てこそ、指示された事柄であっても自分の事柄として責任意識が伴う。受けたことを何の思慮もなく行動に移したところで、本来の願いとずれが生じ時間や距離を置く毎に益々大きくなっていく。組織に於いて願いや使命を受けて結果を出すということは、結果を出すだけの責任意識、責任感情が自分の中に培われない限り有り得ない。責任意識、責任感情は自分の決断した行動にしか伴わない。兄弟の多くは、自分が決意するという自分起点の能動的意識、能動的態度が大きく欠落している。この世では地にしっかり足を着けて自分で歩かなければ生活にも事欠く。決意し行動するというのは欠かせない生きる術なのだが、兄弟はある意味、生活は勝ち取るものではなく与えられるもので事実与えられ飼いならされ、生活向上の意識も無ければやがて向上心という言葉さえ自分の中に見出せない存在まで落ちた。決断することが無いから決断する時の勇気も解らないし、行動結果として失敗した時の心の痛み、成功した時の達成感も理解できない。そういう人間的な味わいを忘れて、どうして社会的人間を感化できたり、この世と渡り合って勝ち抜いていく事ができるのだろうか。祝福家庭だという誇りは大切だが、箸にも棒にもかからない夢想動物から目覚め、生きている事の手応えを覚える者になる必要がある。自分は公金問題もアダムエバ問題もカインアベル問題も無い、それは自分が勝利した内容ではなく唯単に避けていただけの事に過ぎない。出る杭は打たれるから波風立てずじっとしていただけのことだ。何でもいい。自分の社会生活に対する自己欲を利用し先ず行動に着火させることが大切だ。欲に火がついてそれが活力となり行動が回り始めてその利益なり実りが生じる。そうなってからでも十分自分を主管していくことはできる。自分の内から生じる悪、外から流れ込む悪、それらと渡り合う土俵に自分を持って行き、それを主管する過程でこそみ言の力を見出せるだろうし、自分に取り本物の善を勝ち取る事が出来る。避けていれば自分の内なる善悪も把握出来ないし、内的に闘う意味も解らない。中間位置で何の変化もしていない。

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