2008年10月17日金曜日

中心と自分

中心をどれほど責めようとも責めた言葉が全部自分に跳ね返ってくる。自分が組織の一部であるということは、組織全体の責任の一端を担うことだと思い至ればそうなる。たとえ中心に対して責められる内容があるとしてもその中心の基に、組織に於ける自分の在り様を委ねている。言い換えればその中心を中心として頂いているのも、良し悪しは別として因縁に因るものであり避ける事はできない。日本人でありながら自分は日本人はきらいだから他国の人間になるといっても出来ない相談であるように、その星のもとに生まれた存在であることを認めて受け入れなければ逃げてばかりいても前には進めない。嫌だと言って袂を分けたとしても逃れられる負のしがらみと共に自分が依っていた気付かなかった必要不可欠の部分も失う事になる。分かれてみて初めて、気付かなかった依存していた多くの事柄が見えてくるが、日頃息が出来る事のありがたさに思いが至らぬように、その中心の傘の元にいると気付かない。日本の多くの兄弟は今ある中心者のもとに歩んできた。良くも悪くも日本の代表として御父母様に選ばれたひとつの運命共同体として、その中心者を中心として生死を共にし苦楽を共にしてきた。その中心者に顔を向けて歩む事がみ旨を歩む自分の存在を確定する事であり、父母に繋がる道でもあった。好きだとか嫌いだとか、間違っているとか正しいとか、そういう外からの目線で判断する事自体、自分を否定する事だった。指示系統もそこから流れるが御父様が日本として愛される愛もそこから流れる。御父母様が、自分がその一部である処の日本をイメージされる時、明らかにその中心者のイメージが入っている。であれば腐れ縁どころか、その中心を御父母様の前に立てることが日本を立て、自分をも御父母様の前に立てることとなる。御前で証でもされて、御父様が喜ばれれば、この自分の事で喜んで戴けたように素直に嬉しい。

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