2008年10月18日土曜日

信仰

どれほど信仰歴が長かろうとも過ぎ行く時が自分を成長させてくれる訳ではない。逆に長ければ長いほど、天の願いに沿うた自分の内面の在り方なのか、謙虚に問いただす姿勢が必要になる。中途半端にみ言葉を理解しながらそれなりに忙しく時を過ごして、一人前の信仰者気取り(自分も含めて)でいるのを見れば落胆されるに違いない。信仰者と言うけれど、たとえ信仰があると自分で思いながらも、考え方や生活が内的霊的なことを主軸に置かず、外的物質的なことに重心を置いて歩んでいたりする。信仰の服を装ってはいるが内面は外的事柄に価値を置いて歩んでいる。当の本人はそれで全うな歩みをしていると信じているから始末が悪い。問題を起こさなければ信仰者、言われる事に素直に従えば信仰者、献金等やる事をやっていれば信仰者、条件を立てていれば信仰者、そういったことは自分は村八分にされたくない、一緒に天国に連れて行って欲しいとの願望或いは下心から自分は信仰者だと言い張っているだけで、本来のあり方とはかけ離れている。自分の中に帰依する内容がどれだけあるかを問えば、それが自分の信仰の度合いを表している。物に限らず、内外の自分が所有していると認識しているあらゆる事柄一つ一つに対して、執着しているかゆだねているか、囲っているか解き放っているか、そう問うていけば自分が何者で何処に所属するのかは見えてくる。周囲の目に自分がどう映っているかばかりが気になり、信仰の本質を備えることができず張りぼて信仰となると、他人のことをとやかく材料にして信仰評論をし始める。落ちただとか離れただとか、その言葉には信仰の香りが無いし愛がない。最初に誰がその言葉を使ったのか知れないが、皆にその裁きの思いが宿っているからその言葉が出てきたのだろう。行動はどうあれ、自分に信仰があるかないかは自分が判断するものだと思う。自分がどういう空気の中に存在しているか、自分自身を含め自分の周囲を占めるものがどういう様相をしているか、それは過去に自分がどう生きてきたかの証、何処に価値を置いてきたかという信仰の実体。明日を創り未来を創るのは今日どういう信仰の種を撒くかによる。視線を情けない今の自分の在り様と自分の周囲に釘付けすれば目を逸らし無視し殺すしかない。視線を明日に向けることだ。信仰とは良心を羅針盤として明日を見ようとする意志だ。

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