2008年10月15日水曜日

日日

情を与えることは愛を与えることとは違う。愛は与えても情を与えるなと、語られたみ言葉の中にはっきりと書かれている。キリスト教の関わりが希薄な日本人の多くは特にこの違いを曖昧にしている。要するにアガペーの愛とエロスの愛の違いのことだ。日本人のこの曖昧さ故に我々の教会生活も笑えるくらい男女の線引きがなされていた。肩でも触れようものなら本人からも周りからも白い目で睨み付けられ、カップに至るまで男性用女性用と分けられていた。過ぎたるは及ばざるが如しで、かえって意識がそこに釘付けとなり、男子校にうら若い女性教師が就任するような危なさがある。しかし日本の性意識の堕落振りを見れば致し方の無いことなのかも知れない。堕落性の多い自分だから特にそう思うのかも知れないが、優しさとか慰めといった言葉の中に既に肌の触れ合いを想起させるものがあると思う。英語表記に直すと印象が全然違うと思われる含みのある言葉が日本語には多くある。日本語のイントネーション自体、抑揚がなく水が流れるような滑らかな横的印象がある。横的愛のエロスの流れもそのようで、源氏物語の光源氏が、流れ行く想いに身を委ねる様を優雅な趣に捉える日本の民族性が伺える。日日家庭の一家庭として思うに、日本の一つの課題がそこらへんにある。祝福家庭として真の父母に繋がり、縦的な愛に貫かれた夫婦であるべきなのに、横の繋がりが勝手に主体となり、父母がいてもいなくても夫婦の関係性が保てると言うことだ。父母はすすけた神棚に鎮座するものと無意識に捉えており、夫婦や家庭の関係性に関わらない。たまに集合が懸かったり何か頂き物がある時だけすすを取り払いお参りする。生きて袖触れ合いながら歩んでおられるのに死人の扱いと何ら変わらない。祝福の種は頂いたけれど育てる愛の経路に思いが至らず、普通一般の日本的家庭概念で囲んでしまう。交叉結婚と言われるように、ことごとく背景が違うと先ず縦的な愛を立てざるを得ない。縦を立てなければ横も通じない。父母抜きには有り得ない関係性がお互いの中でそして家庭で培われていく。韓国に嫁いだ日本妻達の並々ならぬ苦労をよく耳にし、同情を禁じえなかったけれども、お父様は、本人も日本としてもこれが最善であり神に通じる直短コースであることを知っておられたのだろう。無知なるかな我が家庭も大きく遠回りをしながら、父母が願い父母が共にある本来の家庭に軌道修正しつつある。回り道をすればするほど必要以上の犠牲を払わざるを得ない。

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