2010年3月2日火曜日

恐れに対する考察

私は一体何を恐れているのだろうか。私は神様を恐れているのかと問うてみる。神様が私の親であるという確信と、絶対的な愛の方であるという確信から、神様を恐れるが故に善行を為したりみ旨の道を歩んでいると言うことは自分には当てはまらない。確かに恐ろしい神様ではあるのかも知れないが、恐れてはいない。思い描けるあらゆる仕打ちが私に襲ってくるとしても、そこに愛の神様であり親なる神様への信頼は泣き叫ぶ中にも失うことは無いだろう。アブラハムに対する子イサクの信頼は、献祭という場で証明されたけれど、私に限って言えば、神に対する信頼を見せろと敢えてその場を用意する神様のはずはないのであって、その場をサタンが用意し神様がそれを許さざるを得ないのなら、立派に証明して見せたい。そう言い切ることが神様を親であり絶対的愛の方だと認めることだ。それでは私は他人を恐れているのかと問うてみる。確かに他人の目ばかりを気にしながら生きてきた。神の目を恐れず他人の目を恐れるというのは、確かに恥を最大の恐れとする日本人の在り様を言い表している。人がどう思っているかがいつも最大の関心事であり、周りを気にしながら生きることで自分自身を蔑ろにしている。堕落的自己を否定する事と、自分を適当に扱う事とは違う。私がそうであったように日本食口の多くはその事に気付いていない。他人の目を気にしながら、他人を恐れながら生きることは信仰の本質からは、ずれている。私自身が周りの人を自分の目で判断しているから周りも判断しているに違いないと思えばこそ、他人の目が恐いのだ。私は彼らについて判断もしないし、彼らが私をどう思っているかも気にするべきではない。では私は私自身を恐れているのかと問うてみる。本来、恐れるべきは私自身なのだ。私は御父母様の前に如何様にも報告できるだろう。皆の前ではどのような演技もし、表情も浮かべてそれらしく振舞うことだってできる。しかし、自分だけはどうにも誤魔化すことはできない。何を言った、何をした、何を思った、何を感じた、何をすべきで何をすべきでなかったか、私が私の全てを分析し判断する。この私から私は逃れることができない。だから恐れるべきは他の如何なる存在でもない、自分自身なのだ。

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