2010年12月29日水曜日
今日の想い 237
枝が踊り、幹が揺さぶられるほどの強風が一昼夜続いた後、朝にはやっと落ち着きを見せて所々に青空も確認できる。大気の底が強風でかき回され、よどんでいた空気は新鮮なものと変えられる。目には以前の状況と変わらぬ同じ景色が広がっていても、明らかな異なる環境圏に様変わりしている。目の情報だけで大方の判断をしてしまう癖を直さない限り、内的霊的目はいつまでも閉じられたままだ。暦が天暦にとって変えられたことで、明らかに異なる時代霊が宇宙を統治する。縦的な時間軸にみる数理原則が変えられ、数理を動かすことで下される神様の権能を見る。2012年の閏月を中心として、地上的12数を押さえつけ、全体を飲み込んで消化される。環太平洋逃避城時代の出発は海が全てを飲み込んでしまい、環太平洋地域の非難区域が残されてそこから新世界が出発する13数の権能を見るD-DAYだ。2012の映画で印象付けられ、陽暦2012年12月22日というマヤ暦が終わるその日を終わりの日として注目しているけれど、恐らくその日は何も起こらないだろうし結局何も起こらなかったと人々はまた日常に埋没するだろう。しかし神様は生きた真の父母を通してD-DAYに向けて特命を下される。生きた契約の箱である御父母様に背くのであれば国は審判から逃れられない。アベルUNのそれぞれの特使に国の命運がかけられることになる。今の時点で起こりうることの詳細を見届けることは出来ないし、するべきでもないだろう。真の父母を受け入れさえすればD-DAYは希望の日以外の何ものでもないからだ。強風が吹き荒れることでよどんで生気を失っていた大気はその息を吹き返し、今朝は異なるエネルギーで満ち満ちている。異なるエネルギーは問題の視点を変えることでその威力を発揮する。抱え込んでいる問題を自分流に解決されることに執着すれば、新しい時代の力は私を押さえ込むものでしかない。
2010年12月28日火曜日
今日の想い 236
私が恐れて心配しなければならないことは、生活がどうなって生活基盤を置いているこの国がどうなるかとか、2013年に向けて社会や世界情勢がどうなるかではない。更に、DーDAYを中心として何が起こり何が私に降りかかるのだろうかと心配し浮き足立つことでもない。私が恐れて準備しなければならないことは、如何なる状況に置かれるとしても天の道理を揺らぐことのない私の道理として行動できるかどうかであり、犠牲となり供え物となるその時に、イエス様の公的精神を受け継いだ者として振る舞うことができ、更に御父様の血統に繋がれた者として天情に徹した中心が揺らぐことがないだろうかということだ。私が恐れて心配することは私自身だ。その時その場で私が本物がどうかを私が見ることになる。見物人や証人となる者達の多くの視線の中なのかも知れないし、誰一人として周りには居らず天と私だけがその場で証人になるのかも知れない。誰もが自分が証人となって最後の審判を迎える。人間である以上最後の審判を迎え、誰一人逃れることは出来ない。生きようとする者は死に、死なんとする者は生きるというみ言葉が万民に成就する。審判は誰にも訪れるけれども、その場でふるいにかけられて生命の木に向かうのか、逃げてサタンの死亡圏に落とされるかを理解してるかどうかは人による。その中に死亡圏に堕ちていくのだと認識しながら審判を迎えて逃げ惑う者達もいる。み言葉を戴きながらみ言葉の本質を受け取れず、常に御父様から何か貰えるものはないかという姿勢で信仰が実を結んでいない者達だ。み言葉を知り、御父母様を知った者達は或る意味恐ろしい立場にある。霊的刃を懐に持っている。それはサタンに向ける刃ともなり逆に自分自身を死に至らしめる刃ともなる。私達は流された多くの血と積み上げられた恨の土台の上で存在している。イエス様の流された血と恨であり、四千年歴史を四百年で蕩減すべく殉教で流されたクリスチャン達の血と恨であり、そして御父母様の血と恨の土台の上で存在している。刃を何処に向けるのか、その心積もり一つで存在の土台を完全に無きものにしてしまうかも知れない。償うことだけに生まれて、千回万回殉教の道を辿るとしてもそれでも償いきれない罪が残る。
2010年12月27日月曜日
愛の本流
愛を愛として受け取ることが出来ない、受け取ったものに愛を見ないから、愛が動機となる愛する行動、為に生きる行動として生活行動が為せないでいる。大洋に海流という流れがあってこそ海が活きた海となり、生物を誕生させ育んでいる。そのように宇宙には愛の本流が流れていて存在の全ての根源となっている。堰き止められ滞っていたものを宇宙的な流れとして、あまねく循環すべき愛の本流として通されたのがイエス様だ。更にその霊的愛の本流を、霊肉の愛の本流、即ち真の愛の本流として通されたのが真の御父母様だ。人間に於いても私個人の人生の実りであれ、家庭の実りである子供の繁殖や成長であれ、社会や世界に発展発達をもたらす仕組みや技術の実りであれ、そこには或る流れがあって、その恩恵を受けて活きた人生となり家庭となり社会や世界となる。愛の本流の中に私は存在しているという認識や実感、そして愛の本流から支流として愛を周囲に流して与えていく愛の分配器であり愛の増幅器として生きるという観念、真の愛を生きる愛の哲学が個人や家庭であれ社会や国家世界であれ、活かされ実を結び循環して私自身に返ってくる。与え続けること、為に生き続けること、流し続けることで愛の本流から外されることはないし、更に新たな愛の循環経路を創造してもいく。愛の本流にはその流れの中にエネルギーの根源としての宇宙の真理が生きて働く。愛の支流にはその流れの中に様々な叡智や知恵が生きて働く。真の愛の本流の中で生きる者が真理の全てを相続し、溢れて尽きない叡智や知恵で理想世界建設の旗頭となる。私が惜しまず流して与え続ける愛の存在となれれば無尽蔵に愛は私に流れてくる。血統転換された意味は、堕落圏の偽りの愛の流れから抜け出て、宇宙に流れる真の愛の本流に移籍した自分だということだ。
2010年12月21日火曜日
今日の想い 235
日本語脳なので未だに英語で説明されても入ってこないのだが、人権という言葉だけがトーンを上げて響いてきた。人権。それは何か日本食口の私にとって聞きなれない言葉であり、蕩減の歩みとして私に人権があり要求もできるという発想もなかったし、人権で護られる以前の僕の僕として、その立場が絶対服従だと教えられたのかそれともそういう空気でそういうものだと思い込まされているのか、人権という言葉には疎い。確かに拉致監禁の問題が人権問題であることはその通りだ。しかし随分以前から問題はあったのに敢えて正面から戦うことを避けてきたのにはそれなりの訳があるだろう。それは外的にもそうであるけれど内的にも理由がある。外的なことを言うなら摂理が要求するものが優先され急がれ、その問題に関わる余裕も無かったと、おそらく当時の責任者は言うはずだ。もし関わろうとするなら責任分担も果たさずにという白い目で見られただろうし、事実それどころではなかったはずだ。内的なものを見るなら、日本の在り様としてひとりひとりの自主性はなく、全体の意志に殉じて生きることが即ち信仰でありみ旨であった。それが私的なものであれ公的意識からであれ、自分の感情や考えは全体の前に屈するべきだった。日本食口がその意識でまとめられていたからこそ、それほどの実績を供えることもできたのだろう。しかし影の部分は確実に取り残され積まれていく。それは全体として流されるままにされてきた日本の血であり未だ癒えぬ戦いの傷だ。逆に人権を主張する雰囲気や主張できる体質が備わっていて、ここまで一枚岩となって実績を供えることが出来ただろうかと思うと、首を傾げる。全体の犠牲的傷みがあるように、兄弟それぞれにも深い傷みを負っている。代表姉妹が公的犠牲とされて御父様に認定して戴いたのであれば、日本の食口それぞれの深い傷みも必ずや覚えて下さり労いの想いをかけて下さるだろう。僕の僕から這い上がって来ながら、今人権という輝く言葉を口に出すことを許された。何度も人権という言葉を力強く口にされるのを会場の隅で聞きながら、何か身分不相応なものを頂いている様な、勿論私個人の人権についてのことでは無いにしてもどう受け止めるべきか戸惑っている。
2010年12月20日月曜日
今年のクリスマスを前にして
十字架の摂理は二次的な摂理であり、生きて勝利する摂理が完全に閉ざされた為、他の選択の余地がイエス様にはなかった。しかしサタンによって奪われるイエス様ではなく、最低限の救いの選択をかけて、自らを捧げる決意と覚悟をイエス様が自分の意志でされたと理解しなければならない。しかし十字架の摂理を選択すれば、あまりにも残った者達が天に負債を負ってしまう。確実に歴史を通して用意されてきたイスラエルが滅び、ユダヤ教徒に悲惨な末路が残される。イエス様が十字架を選択する上での多大な禍根が残ることに対してのゲッセマネの祈りだ。ゲッセマネの園で血の滲む闘争的談判祈祷は、残される者達の背負う負債をも思われ、彼らの痛みに対する心痛をも含めた祈りだった。苦杯を飲まざるを得ないのですかと天に問い詰める祈りの意味は、死を飲まざるを得ないということではなく、救いの摂理として霊肉を引き裂かざるを得ないのかと言うことだ。霊肉を中心に地上天国天上天国を完成しようとするみ旨を捨て、肉的世界を切捨て、霊的救いのみを残す道を覚悟せざるを得なかった。多くの者達は人間イエスとしての悲惨な生涯への個人感情を呼び起こし、同情する私が信仰の基となっている。しかしながら原理を知った立場でキリストイエスの本質に迫ろうとするなら、ゲッセマネの祈りに於いても、ゴルゴダへの道を進まれる時も、陰から見ている弟子を振り返られる時も、更に十字架に臥されて晒される時も、自分について弁明されたり愛の眼差しを供えない他への批判判断をされることは一度たりともなく、公的位置に迷い無く殉ぜられた在り様に私も続こうと思わなければならない。御父様のみ言葉に、イエス様は死の友だったので死を早める時にも死を意に介せず、恩讐の為に死ねる余裕の生涯を生きられたとある。為に生き、為に死なれたイエス様を仰ぎ見る自分の位置から、イエス様の在り様を受け取ってイエス様を兄弟と思えるほどに私の生き様を公的なものとしなければならない。教会から十字架を下すように指示されたのは、十字架からイエス様の本当の姿をイメージされずに、同情であったり悲惨さであったり示された愛とは別様のものを受け取っているからだろう。弱弱しい憂いを帯びたイエス様をイメージしているとすれば、それはイエス様ではなく別物だ。今年もクリスマスがやって来る。誰よりもイエス様を身近に感じるとすれば、この一瞬も為に生き公的に生きようとする意志を強くしていくことだ。
2010年を振り返る
今年も逝ってしまう。去年の暮れは年を送って迎える気持ちの余裕もなかった。重いものを抱えながら、これで新年に迎え入れてもらえるのだろうかと、自分だけ置いて行かれそうな気持ちだった。今年はしっかりと気持ちを整理して新年を迎えようとは思うけれど、陰暦と言う時代霊がまわり始めたので、陽暦の締め括りをどう言う感情で送ればいいのか戸惑っている。今年に何が私の中に残り、何を刻んで来たのだろう。時間だけが早送りされたようで、やはり自分は時間に足並みを揃えることが出来ずに、乗り遅れたまま来たのかも知れない。縦的時間に取り残されず着いて行こうとすれば、果たすべきものを確実に結果として残して刻印しなければ、時間のギアは私のギアに噛み合わずに残されて行くのかも知れない。急がれている摂理のそのままに、時間は容赦なく流れ、時間を牽引しておられる御父様は最後のダッシュをかけておられて、私との距離は増すばかりだ。そうだ。私達はこのことに気付かなければならない。着いて来るなら来て、来ないなら好きにしなさいと言う言葉を口にされたのがどうも気にかかる。勿論着いて行くべきでしょう。しがみ付いてでも着いて行くべきでしょう。でも私のギアが空回りしていないだろうか。確実に噛みあわせて着いて行こうという意志のギアを備えているだろうか。皆が同じ堕落人間だと変に安心していると、取り残されることになる。今までそうだったように、あれもできないこれもできないと言うのであれば、ギアは外れている。近い将来はっきりとした階級の差が人間の間に於いても見出されることになるのは、容易に想像できる。心情の隔たりが外的要件にも現れてくる。
2010年12月19日日曜日
ヒエラルキー (階級)
鉱物、植物、動物、人間、と言ったふうにはっきりとした存在の階級がある。地上世界に於いて階級があるように霊界に於いても階級がある。今年八月に語られたみ言葉に天使世界はその立場まで行けなかったとある。低次の鉱物から高次の人間まで、植物の立場まで行けなかったのが鉱物であり、動物の立場まで行けなかったのが植物であり、人間の立場まで行けなかったのが動物である。そして実体を持たない霊的世界に於いても、天使の立場まで行けなかった霊的存在の階級が幾つかあり、そして天使世界は実体を持って相対を持ち得る人間の立場まで行けなかった存在だ。人間は完成して結婚し父母となってこそ人間という階級の完成であって、神様と一体となられた父母が実体を持たれた神様となって天使世界の相対理想の創造を解決していく。時間的流れから見れば逆とになったと言えるかも知れないが、実体を持たれた神様が本来の創造位置に立たれると言うことの方が正しいだろう。しかしその前段階に於いて堕落が生じる。天使長はアダムとエバが頂点であり中心的存在として最後の存在だとは知らずに、自分が最後だと思った。天使世界より後に創られたが、天使世界の弟妹の位置ではなく、完成すれば天使世界を主管する位置として創られたことを知らなかった。知らなければ教えればよかったと思うのは魂存在、実体存在、自由な存在の人間と同じだと認識しようとするからそう思えるのであって、階級の違う動物に対して、どうして知ろうとしないのかと言っているようなものだろう。御父様は多くの隠されていた霊界の真実を理解できるものとして話される。最近のみ言葉の難解さは地上的認識とはまるっきり違う、霊界認識の難しさにある。十分に理解できる時代圏となり私達の理解も高まったと判断されて語られる。上記の解釈が正しいかどうかは別として、動物や植物のいろんな種族の種を並列的に撒いて創造していく、天使世界霊界も恐らくそんな感じだろうと思うのは大間違いだということがわかる。
2010年12月18日土曜日
今日の想い 234
人類を地球村に住むひとつの家族であり、神様のもとに皆兄弟だと言われれば、その通りだと誰しもが思う。しかしただ思うだけで兄弟として接し、兄弟として行動するわけではない。自分の中でぼんやりとした理想はあるにはあるが、他人としての認識で満足しているのに理想を追う理由がないからだ。教会に最初に足を運んだとき、お互いをさん呼びではなく兄や姉と呼び合うことに新鮮さを覚えた。食事を共にし寝起きを共にしお互いの内情まで分けながら、血の繋がった兄弟以上の兄弟関係があったし、その兄弟の一員になりたかったのも献身のひとつの理由だった。今思うと気恥ずかしくなるほどに兄弟誰もが純粋で、その純粋さだけでみ旨に邁進した。生活の上で原理非原理というすみ分け感情が分別という言葉のなかに組み込まれ、自らに問うこともなくそのすみ分けを受け入れ浸透させていたのも純粋故だった。純粋という瑞々しい魂が信仰を受け入れみ旨に走りみ言を伝えようとした。共産主義に心頭していった多くの若者も、この純粋な魂がお互いを同胞と呼び合い共産革命に走らせている。方向性は違うけれども両者とも同じ魂のステージだったと言うことだ。お互いに共通するその感情魂は初恋に似ている。訳もわからず惹かれ心を焦がしていく。しかし初めての恋心に酔いはしても酔いはやがて醒める。酔いが醒めてしまって惰性的に歩む期間が続いてきたが、そこからが本当のみ言の力を受け取れるかどうかだ。惹かれるという感情に動かされて兄弟になるのではなく、兄弟意識を私から創り上げていく。創り上げていく力、即ち兄弟として愛する力は私がどれだけ愛されているかの認識に依る。私が本当に愛されていることを知って、信じて、実践しなければ愛の力は出てこない。復帰された当時の教会の兄弟感情を懐かしむのではなく、家庭に於いても教会に於いても、そして他の人々や職場に於いても、私が湧きいずる愛の源となることを願われてもいるし決意もすれば、愛の源泉の源泉である御父母様から与える愛の何倍をも受け取るだろう。今日の行う事柄に、対する人々に、愛する想いを混入させて、神様のもとの人類一家族、ONE FAMILY UNDER GOD の言葉が私の内面で日増しに生気を溢れさせれば、自ずと善霊を呼び寄せ、善霊は人々を惹きつける。
2010年12月17日金曜日
時間を考える
霊界を否定し、あるいは無視して地上生活に没頭するなら、たとえ社会の規範に合わせて道徳的に生きるとしても、方向性が常に個人的なものに向かう。道徳らしきものは個人を保障する限りに於いて意味を為すものであり、道徳がより為に生き、より高次の公的私となるよう成長させることは無い。地上生活にのみ没頭するなら、それは極めて平面的な生であり、平面的な見方であり感受であり思考でしかない。御父様のみ言葉が難解なのは、私の生が未だに平面的なものであり、立体的な御父様の見方や感受や思考にはついていけないからだ。平面的であるということは内的生活が道徳的領域を脱していないか、超えてはいても平面が厚みを持っているに留まっている。平面という横軸は把握できるが縦軸である縦的なものを捉えることができないでいる。横的縦的という言葉はみ言にも良く出てくるが、その本質を捉えてはいない。空間的な意味での縦的という認識でしかない。縦的なものは時間的なものだからだ。平面の生を立体の生にするという意味は、空間の生から時間の生に重心を置いて生きるということだ。今の現代人に取って、時間は流れるものでしかないのであり、時間の本質を知って時間を生きることを知らないししてもいない。肉体による生活に重心をおいて生きていれば、いつまでたっても新しい次元が開かれることは無い。空間的に自分の位置を知る以上に、時間軸で自分の位置を知らなければならない。空間に於ける授受ではなく時間に於ける授受が必要であり、空間世界に求めるものがあって探すのではなく時間世界にこそ求めるものがあり見出せるものがある。空間世界に神様を見出そうとするのではなく時間世界に働くものを通してより神様は見出される。御父様は血統の重要性を説かれるが、空間世界横的世界では親でも子でも誰もが兄弟として認識される平面世界であって、親としての認識や先祖としての認識、そして人類始祖や神様まで、時間世界縦的世界の把握なくして血統の意味はわからない。親なる神様であるという感情も本人はわかっているつもりでも本当はわからない。
2010年12月15日水曜日
イスカリオテのユダ
表情には出ない目配せを遠目に伺う者達に送ると、おもむろに近寄って主にキスをする。キスという行為を最低に貶めて悪魔への印籠を渡す。十二弟子のひとりにユダがいる。十二弟子は十二に分けられる人類全ての象徴であり代表だ。ユダがイエス様の前に現れたとき、既に近い未来に生じる事件を見通しておられた。本人はわからずともユダが採るであろう行為を見越しておられた。人類全ての救いが主題であれば、救いの圏外に置くべき人間があろうはずがない。或る意味ユダに象徴される人種は群れから最も遠く離れた羊に違いない。ユダを救うためにはユダが差し出す毒杯を受けざるを得なかった。それによって人類全ての救いが棚上げされてしまったと誰かが判断するとしても、愛を打算の僕にすることはキリストの選択の中には一欠けらもない。ユダが背負うものを全ての人類が多かれ少なかれ背負っている。裏切りのユダが私の中に生きている。それを認めずしてはユダを断罪することも出来ないし、イエス様の愛の本質を問うこともできない。ここにひとつの伝説がある。或る父親がお告げを受けた。息子が生まれたら不幸をもたらし父を殺して母と結婚する。その父親はそれを受けて生まれた息子をカリオテ島に捨ててしまう。カリオテの女王には子供がなく、捨てられていたこの息子を引き取った。しかし後になって女王に子供が生まれる。引き取られた息子は実子に対する愛の減少感からこの子供を殺してしまう。息子はカリオテ島から逃げ延びてパレスチナにあるピラドの宮殿に行き着く。宮殿の職を得て暮らしていたがある日隣人と喧嘩になりその隣人を殺してしまう。その後その隣人の妻と結婚する。そして驚きの事実を何処からか知ることになる。殺した隣人は実の父であり、妻は自分の母であることを知る。お告げはその通りとなった。彼は悩み後悔してやがてイエス様の元にやって来る。そしてイエス様は彼を受け入れられた。彼はカリオテ島のユダ、即ちイスカリオテのユダという人物だ。イエス様が十字架刑に処せられたのにはユダの裏切りと切り離せない関係がある。ユダの裏切りはユダの背景とも切り離せない関係がある。人類の全ての負の運命をかかえて産まれたユダは、苦悩の境地を内的にも外的にも歩み、裏切り者の代名詞として今も生き続けている。キリスト教国家アメリカでありながら、近親間の交わりの現実が少なからずある。何でもありの世の中だと言い放って、安易にユダの負の運命を背負わされていることを知らないでいる。神様は人間が悪魔より恐ろしい存在であることを知っておられる。朝に神様の御前に跪いて悔い改めの涙を流したかと思うと、夕には悪魔の片棒を担いでいる。善と悪の狭間で私の内のユダが顔を出す。言い訳という銀貨を払って悪への橋渡しを内なるユダが取り仕切る。
今日の想い 233
湿気を殆ど帯びない粉雪が強い風に舞い上がり、水銀灯のオレンジ色の鈍い光を僅かに浴びて、陽の届かない闇の底で踊っている。半時間もすれば薄い陽の光が届けられるはずだが、低く沈んだ灰色の雲が垂れ込めて、闇が腰を重くしているのを幸いに、闇に踊る霊がその姿を現している。雪にもいろんな表情がある。光の霊が雪をまとうことで光の本質を表すこともあれば、闇の霊が雪をまとって闇の本質を表すこともある。私の中の良心が母神の笑顔で私を慰め慈しむこともあれば、鬼となって私を苛ますこともあるように、、、。この良心を友とし師とすることを決意しようとするなら、自由を取り上げられてしまうと思ってかまえる。良心の前に立ちながら、私は自由を抱え込み手放そうとはしない。この自由への執着が、ルーシェルから受け継いだものとして血の中に流れていることを知っている。しかしそれでもX存在として生きる為には自由は必要なのだ。生きる為に自由が必要であり、しかし自由への執着が私を地の底へ引きずり込みもする。確かに私は自由の使い方を知らないでいる。自由が創造をもたらすことよりも、自由が自己中心的な意志に使われてしまっている。太陽の陽を見ることは今日はないだろうと諦めて、暗いうちに裏の開き戸を開けると、出てきた私を脅すように強く冷たい風が粉雪を私の頬に投げつける。それに構わず朝のうちにやるべき事をひとつひとつ確認する作業に意識を向けはしたが、寒々しい光景から学ぶものを受け取れずに重い感情の中から抜け切れないでいる。大きな飛躍には大きな試練が伴う。試練の中に飛び込む勇気を備えた者だけが、飛躍の為の翼を手に入れることができる。その道理がわかっていながら私はあいも変わらず躊躇する。水に飛び込まなければ泳ぎを学ぶことが出来ないのに、水に飛び込まないまま泳ぎを学ぶ方法を探している。訳のわからない私のこの恐れが諸悪の根源だ。確かに願いを受けてみ旨に向かおうとすれば、必ずといっていいほどこの恐れが顔を出す。この恐れの正体を暴いて立ち向かうことを、遠い過去から背負ってきた蕩減すべきものとして私は負っている。
2010年12月14日火曜日
内界と外界
昼は光の中で行動している。夜にも時代の恩恵が明るい光をもたらし、その中で行動している。生活そのものが、光に溢れている外界が当たり前でそれに依存したまま存在している。外界の情報のみに身を委ね、内界をないがしろにしたままで生を送っている。この外界から、光と言う光全てが途絶えた状況を想像して見るといい。完全な闇の中に投げ出されたら普通の人間は発狂する。普通の人間は外界にこそ足場があり、内界の闇は外界の印象で誤魔化したまま生きているから、いざ外界が閉ざされると存在の為の位置を見失う。外界に生きることで内界にどれだけ光を届けられるかを問われている。外界に光源である太陽を頂いているように、内界の光源をしっかり受け取らない限り、霊界に赴いても薄暗い狭められた周囲のなかで呼吸もままならないままでうずくまるしかない。人それぞれの信仰対象が内界を照らす光源には違いないが、太陽のような恒星存在ではなくカンテラかせいぜい電灯程度で、その強さはそのまま霊界生活の霊の呼吸、即ち愛の呼吸に影響する。イエス様がもたらした愛が、更に真の御父母様がもたらした真の愛が、どれほど内界を明るくし、息を吹き返し、活動範囲を広げるかを知れば、私にとって御父母様の存在がかけがえのないものであることを悟る。更に私達は光を受け取るだけの存在ではなく、星々という恒星存在になって光源体として光を照らす存在となる。太古に於いて神々に近付ける道は二通りあった。ひとつは外界のベールを越えて神様に近付く道であり、今ひとつは魂の奥に下って霊界への領域を超えて神様に近付く道だ。そして外界の先へのベクトルと内界の奥に向かうベクトルとは真逆であると認識していたものが、行き着く先がひとつの同じ神様であることを知った者達がいる。内外のベクトルが円としてひとつに繋がることが認識できれば、外界の印象の中に内界を見、内界に生じるものが外界に現れることが解る。そして私の周囲に起こり社会に見聞することや宇宙に起こること全てを、私の内界の何処に見出すことが出来るかを問いながら生きていく。隣人の事柄や全ての事柄が、他人事ではなく密接に私に関わっているという認識で、為に生きる哲学を導き出し、為に生きることで私の内面に更なる光を届ける。
2010年12月11日土曜日
Bの歌
最近、訓読会の場ではよく日本食口にBの歌を歌わせておられ、御父様御本人も歌っておられる。万物復帰全盛のおり、ある兄弟が作ったマイナー調の曲で、テンポを早く歌えば前線に於いて鼓舞する歌となる。御父様がこの歌の何処に琴線を触れるものを見つけられたのかは良く解らないが、私はこの歌を耳にしたり口ずさんだりすると、何ともメロウな気分になりはっきり言って気が滅入る。心はとっくに折れてしまっているのに、それでも体を引き摺って前線の毎日に漬け込まれた当時の心境が、否が応でも感情として滲み出てくる。吐き気さえ覚えるその感情はトラウマともなり、寝苦しい時には必ずと言っていいほどその感情に羽交い絞めされた万物復帰の状況を夢に見て、目が覚めると嫌な汗をかいている。恐らく霊界に行けば癒されぬこの想い(重い)が私を引き摺り落すのだろう。私に取ってこの感情は涙と共に流せもせず、正面から向き合うことが出来ない心の痛みとなっている。歌のメロディーの最後はフラットが消されて幾分明るい調子になり、希望がその先にあるかのように終っているのだが、私にはその先に希望的感情が待っているとはどうしても思えなかった。訓読会の映像で姉妹が前に出てこの歌を歌い、歌詞の書かれている紙なのか御父様も手にされて目をそれに落されている。私はその映像を辛うじて見続けることができた。あらゆる忌み嫌う感情が放出されそうになるのを嫌な汗をかきながら取り押さえた。それから目を逸らせたら御父様は私の御父様ではなくなってしまうように思えたからだ。その後何の思考も始めないように意味も無く動き回った。暫くしてやっと落ち着いたとき、この感情を消化しない限りは全てに於いて影を引き摺るのだと思った。
2010年12月10日金曜日
今日の想い 232
御父様は御孫様に侍られる。御父様が種ならば御子女様は花と香りであり、そして実として御孫様が立っておられる。御孫様に対しては一段高次の存在とされて侍られる。祝福家庭はサタン世界に於いて御父様の花を咲かせ香りを醸し出す存在であり、祝福子女はサタン世界に於ける御父様の実である。祝福家庭それぞれの氏族圏から見れば祝福子女は氏族圏の王子であり王女で、親の立場で息子娘をどう教育しどのように判断しようとも、氏族圏の王子王女を中心として氏族は再創造される。天に繋がれた氏族圏としては逆の経路となって、私達の親は王子王女である祝福子女の孫にあたるだろうし祖父祖母ともなるとひ孫にあたる。時系列の概念に捕らわれると把握しかねるが、天地が地天になるとはそういうことだ。祝福子女に対しては氏族圏の王子王女として教育する必要がある。サタン世界であるこの世とこの社会が眼前に広がり、別の世界が開けていることなど想像だにしないが、本人が王子王女となって築く氏族の王権が及ぶ世界が開けるし開かざるを得ないだろう。それなくしてはサタン世界を陵駕出来ない。子供にどう接したらいいのか頭を抱える日々が続く現実を否定することはできないが、御父母様が勝利されて全ての救いのプログラムは既に組み込まれている。勿論私達の5%で最短の路程にもなり遠回りにもなるだろうが、どちらにしても天国への道筋には違いない。今の現状や事或る事に感情を乱されず、子供の教育への精誠を供えることに専念すべきだ。生まれたときに奉献式を済ませたのであれば、御父母様が責任をもっておられるのであり、その確信なくしては親の揺らぐ内面を見てしまうだろう。たとえ最悪の状況のように認識されてたとしても必ずや道が残されている。私を含めて祝福家庭の多くが心を痛める祝福子女の問題も、祈って御父様に尋ねて見るなら、御父様は微笑まれて心配するなという表情をされる。
2010年12月9日木曜日
今日の想い 231
既に天と地はひっくり返って真逆になっている。天地が地天になっている。御父様は昨年2009年に行われた戴冠式、金婚式、五十五周年記念式を中心として百十周年の起源を創造された。全ては対になっている。地球に於いては夜と昼が対になり、人間に於いては眠りと目覚めが対になっている。天宙の創造過程に於いて霊の創造が先であり地上世界である肉の創造が霊の創造にタイアップしている。御父様を中心として今までの歩みは霊の創造であり、これからタイアップする実体的な肉の創造に入っていく。それは夜の期間を通過されて昼の期間に入っていくと言うことだ。夜の期間に通過された勝利の布石が、八の時を描くようにタイアップ、相対となって昼の期間を通過されていく。個人個人の救い如何に関係なく夜の勝利の布石がその通りに地上に実体化されていく。個人主義的堕落的な位置に固執すれば吹き飛ばされる。先ず世界が勝利の布石のままに動かざるを得ないのであり、であれば国もそれに合わせざるを得ないし、国に所属するであろう家庭もそれに合わせざるを得ない。よって堕落圏に固執し続ける個人は存在すら否定される。それがこれからの五十五年の意味だ。人間で言えば朝目覚めてこれから昼の一日を送る出発点にあたる。昼の一日の出来事は夜の間に決められている。御父様と共にある教会も、今までは神様と共に霊的創造期間を歩む高次の霊的存在の位置にあった立場から、地上界創造に具体的に関わる創造主としての神様と共に創造に関わる立場を周到していく。そこに夜の神様、昼の神様という言葉を御父様は使われる。霊的イメージとしては認識できない言葉も論理として成り立つのであり、未だに霊的に鈍い私達もせめて論理で理解して、御父様について行く者にならなければならない。堕落的見方は一面的であり、創造過程も歴史路程も直線的時間の流れとしてしか認識できないが、御父様の見方は堕落的なものとは根本的に違っている。勝利され刻印された揺るぎ無いものがどのように地上に実体的に展開されるかを見通しておられる。御父様にとって時間軸の謎は光を充てられて明白なのだ。
2010年12月8日水曜日
故郷について考える
瀬戸内海に面する辺りは、紅葉の時期を過ぎても、未だ色付きをまとった木々が町の並木にも見えるし、洲を囲むなだらかな山々にも見届けられる。しかしバスに乗って北上し、県境近くの山間まで来ると、麓も山も裸の枝が寒々と晒されている。人影もない死んだこの一帯に、主人を失った家々が点々とする風景は、捨て去られ、忘れ去られた虚しさに沈んでいる。この私の田舎の何処に希望があり、何処に美しさがあるのか、それを見出せないと言って誰もが先祖の血と汗が浸み込んだこの村を離れていく。土地整備がされる前はこの地一帯が湿原で、杜若が群生しこの地にしか生息しない動植物も見られたらしい。今では湿原らしいところは猫の額ほどしかない。この村を何とか活性させようと、この湿原を保護したり、範囲を広めようとしたり、杜若の繁殖に手を加えたりと、ここ数年手をかけているようだが、少なくとも十年を超えないと成果は見えてこないだろう。しかしそうなってどうなると言うのだろう。日本のいろんな過疎地で人目を惹こうと躍起になっているが、日本中が総観光地化しても意味は無い。私を含めてここで生まれ、ここで育った者がこの地を愛せないと言うのがそもそもの問題だ。産まれ故郷は私の存在の原点だ。私が存在する意味はこの原点に返らない限りは見えてこない。存在の原点を否定してしまって、喜びを求め幸せに暮らしたいと思うのは存在の矛盾だ。善いも悪いも私を私たらめたものがそこにある。私の意識できない本質がその地に産まれることを選び、そしてその地のあらゆる内外の環境圏が私を育てた。この地の人々に共通する、引き受けて蕩減し欠落したものを取り戻す命題があり、過去の路程で復帰されて取り戻したものがこの地の人々の在り様にどう反映しているのかも解ってくる。私とこの地が繋がれた宿命的なものがあることを悟るなら故郷に背を向けることはできないはずだ。この地を捨てずに生き続けた両親を見るなら、この地の蕩減を背負って生活し、この地の恵みに護られて生活してもいる。この地を捨てた者達はこの地とこの地に生きる者達に大きな負債を負っている。誰もが環故郷しなければならない。もつれにもつれた糸を解こうとすれば、逆の経路を辿りながら解いていかなければならない。私という霊的にもつれた存在を解怨して、神様の元に帰っていこうとするなら、血筋である先祖を無視することは出来ない。先祖とは切っても切れない故郷も無視することは出来ない。先祖を解怨すればするほど、故郷を無視することは出来ないはずであり、そこを目隠ししたまま神様に帰ることができる、或いは本郷の地は韓国だと言うのは少しずれている。
2010年12月7日火曜日
或る従業員について
数年前に国に帰ってしまったが、その従業員は女性ではあることは間違いないのだが、形状的にも性相的にも非常に男性に近いものを持っていた。個人的な事柄なので深く尋ねることはしなかったが、女性でありながら女性に惹かれる自分を持っていることは雰囲気でわかる。私達の認識として男性は男性らしく、女性は女性らしくという頭があって、更にホモやレズに対しては鉄槌を振りかざすような言葉を吐いておられるのでそういう類の人々に対しては受け付けないものがある。しかし贔屓目なしに彼女は良く働いてくれた。二十五年以上レストランに関わり、総計数百人にも上る来ては去る従業員の中で、私の中での従業員としての彼女の点数は満点だった。私の言葉に率先して従い、その行動が実に自然で何の遣らされ感も受け取れなかった。客に対しての応対もテキパキとしており、更に天性の明るさや魅力を備えているようで、一度彼女のテーブルサービスを受けると彼女に会いたくて店に足を運び直ぐに顧客化される。そのサービスセンスたるや魔法の域に達するのかと思えるほどで、でも飲食店であるからサービスと言っても或る程度決まってくるし他のサーバーと変わりないように動いているものの、それなのに客の心を一瞬で引っ掛ける。私は実に感心した。日本のテレビ番組を見ても最近その類の人々が目白押しで、よく観察していると傷つけるような言葉を受けてもうまく抱擁し、逆に相手を打ちのめし感を与えず嫌味なしに屈服させている。ピュアと言う言葉を一般的な意味で使うなら、彼女達というか彼らは実にピュアな存在だ。そして共通しているのは普通の人以上に霊的であるということだ。霊的存在を見たり聞いたりしている。天使に会ったとか妖精に会ったとか、そんな普通人からすれば不可思議な体験をたくさん持っている。御父様が話されているように神様は天使世界に女性は造られなかった。この世で結婚できない者しない者が天使の相対になるというようなみ言葉をどこかで受け取ったような気がするが確かではない。しかし彼らが霊的感性に富み、天使に会えると言うのなら相対基準を立てられると言う事でもある。彼女はタイ人であったが彼女のサービスの天性には明らかに天使の協助が伺える。今年も一度訪米した折に店を訪ねてくれたが、相変わらずの子供のような振る舞いと笑顔は健在だった。
統一的夫婦
食口の多くはみ旨ゆえに夫婦離れ離れに暮らす場合もあるが、私の場合実に感謝すべきことだが、家庭を持ってからずっと一緒にいる。たまにこうして数日離れていると、視界の中に彼女の存在を認める時とは違った別の発見があったり、相手に対して向かう想いや相手から受け取る想いを、頷けるほどにはっきりと純化されて、内面に味わうことが出来たりする。隣にいれば皮膚の輪郭をまとう相手を、見る側からも本人の思い込みの輪郭を相手に嵌めて見てしまっている。外的に唯物的な把握しか出来ないように、内的にも凝り固まった変わらない把握しかできない。相手に対する内的霊的認識に柔軟性をもたらすことができれば、僅かな変化の芽も見逃さず、そこを賛美するなり刺激するなりしながら大きく変容させることができる。人間は柔軟に変わるのだ。変わらないのは勿論本人自身の課題もあるけれど、周囲の、特に夫や妻の、思い込みの輪郭を相手に嵌めてしまっている場合が多い。お互いが馴れ合いになってしまって、相手に対する関心も新鮮さも湧いてこないなら、時間的にも空間的にも少し距離を置いてみることも、より近付いて一体化する為には必要だったりする。どんなにジタバタしても、どんなに一人で生きることが出来ると粋がって見ても、夫婦でひとつ、ハナであることは紛れもない事実だ。夫婦でハナであるから夫婦でひとつの呼吸をするのであり、夫婦で前面から向かい来るもののひとつの本質を二つの目で見れるのであり、夫婦でこそひとつの目標地点に左右をうまく使って歩いて進むことが出来る。私は大いに反省すべきなのだが、家庭に於いてこれが正しいと私だけが言い張っても相対が認めなければそれは正しいとは言えない。正しいという言葉は夫婦二人が認めてこそ初めて言える言葉なのだ。夫婦や家庭に対する概念がこの世のものとは根本的に違うので、この世的秤で相対を判断しているうちは夫婦としての出発点にすら立ってもいない。夫婦が一つになることで、両目をそろえて見えるものがあり、両耳をそろえて聞こえるものがあり、両腕両手をそろえて掴めるものがあり、両足をそろえて進める世界がある。夫婦が一つになることで始めて呼吸ができ存在できる次元世界が開けている。
創造性
神様が創造されたように人間も創造すべき存在なのだ。供えられた創造性を働かせることで人間の意志活動が為されていると言える。創造は真の創造であり、善の創造であり、そして美の創造だ。創造意欲を掻き立てることと為に生きることとは同義のはずだ。人間に取って、御父様は宇宙に備わっている私達の知らない真理を示して下さったと言う認識以上に、御父様は新たな真理を創造されたという認識の方が正しいと私は思っている。御父様は真の父母を創造され、真の家庭を創造され、真の愛すら創造されたと言える。真の愛という概念も認識もかつて無かったのであれば、真の愛と認識されるものを新たに創造されたと言っても決して過言ではないはずだ。御父様が真と名の付くあらゆる概念を創造されたように、その真の概念をもって私達は善の創造を為すべきなのだ。御父様は私達に対してこの世的善悪の基準をもって測られることは無いと見ている。私達が判断する善であるか悪であるかを超えて、”御父様の真”に殉じた善の創造が私達の務めとは言えないだろうか。善の創造を善の追求と言い換えてもいい。そして為に生きるという言葉を受けて新鮮さに欠けるなら、心情に身を焦がすと言い換えてもいい。御父様が私達を苦労の上に苦労を負わすのは、天の心情を私達の胸のうちに燃やすべく苦労の痛みを恨として覚えさせ、そこから生じる噴煙の衝動こそ善の創造の力となる。だから私達食口にすれば御父様の名の元の苦労こそが最大の宝なのだ。そして宝の持ち腐れではなく、善の創造の力、或いは美の創造の力でもいいが、創造性を発揮してこそ祝福を受けた人間として証を立てることができる。
帰郷
帰郷するたびに潰れそうなあばら家を見て胸が痛くなる。元々が安普請の上に七、八十年の風雪に曝されたまま今に至り、その間何の手も加えてはいない。年々老いが進んで小さくなっていく両親を目にするのも胸が痛いが、それと同じくらい傾いた小さなあばら家は見るに切ない。二人が寝起きする一部だけでも改築できないだろうかとも思うが、細い柱で建てられた崩れそうな家は改築という選択は無さそうだ。老夫婦であってもここで生活しているから何とか家の原型を留めてはいるが、空き家にでもなれば三月と持たないだろう。良くも悪くも住人の老いがそのまま家の状態に反映されていて、この潰れそうな家がそのまま二人の姿に違いない。ガタは来ているがそれでも生き永らえている。恐らく新居にでも移転すれば肌に合わなくて一変に体を壊すだろう。着慣れた服でこそ落ち着くように、どんな状態であれ住み慣れたそのままの状態が二人に取ってはベストなのだ。思い出や記憶の中にこそ夫婦や家族の生きてきた証しが見出されるのであり、そしてその殆どがこの住んでいる住居と切っても切れない関係にある。思い出や記憶に取ってはこの住居に血が流れ、神経が張り巡らされている。田舎だからそんなに立派に構えた家は何処にも見当たらないが、それでもうちの家は他のどの家に比べても月とスッポンだ。便所は未だにおつり式で昔の厠特有の臭いに包まれ、窓も壁も隙間だらけ穴だらけで、ストーブを切れば忽ちに霜が降りる外側の冷気と同じ部屋の状態になる。今回寝起きした数日の中で、風が朝まで吹き止まぬ日があったが、家が一晩中ギシギシガタガタと音を立てて一睡も出来なかった。そんなお世辞にも整った環境とは言えないが、それでも二人は今のところ大病もせずに動いている。指し当たって手をかけるほどの金銭の余裕もないし、心配をかけまいと黙っているだけなのか親の口からどうこうしたいということもないので、取り敢えずは柱の一つ一つに頑張ってもらうしかない。この冬、せめて大雪に見舞われないことだけを案じて、後ろ髪をひかれながらも田舎の家を後にした。
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