2010年12月17日金曜日

時間を考える

霊界を否定し、あるいは無視して地上生活に没頭するなら、たとえ社会の規範に合わせて道徳的に生きるとしても、方向性が常に個人的なものに向かう。道徳らしきものは個人を保障する限りに於いて意味を為すものであり、道徳がより為に生き、より高次の公的私となるよう成長させることは無い。地上生活にのみ没頭するなら、それは極めて平面的な生であり、平面的な見方であり感受であり思考でしかない。御父様のみ言葉が難解なのは、私の生が未だに平面的なものであり、立体的な御父様の見方や感受や思考にはついていけないからだ。平面的であるということは内的生活が道徳的領域を脱していないか、超えてはいても平面が厚みを持っているに留まっている。平面という横軸は把握できるが縦軸である縦的なものを捉えることができないでいる。横的縦的という言葉はみ言にも良く出てくるが、その本質を捉えてはいない。空間的な意味での縦的という認識でしかない。縦的なものは時間的なものだからだ。平面の生を立体の生にするという意味は、空間の生から時間の生に重心を置いて生きるということだ。今の現代人に取って、時間は流れるものでしかないのであり、時間の本質を知って時間を生きることを知らないししてもいない。肉体による生活に重心をおいて生きていれば、いつまでたっても新しい次元が開かれることは無い。空間的に自分の位置を知る以上に、時間軸で自分の位置を知らなければならない。空間に於ける授受ではなく時間に於ける授受が必要であり、空間世界に求めるものがあって探すのではなく時間世界にこそ求めるものがあり見出せるものがある。空間世界に神様を見出そうとするのではなく時間世界に働くものを通してより神様は見出される。御父様は血統の重要性を説かれるが、空間世界横的世界では親でも子でも誰もが兄弟として認識される平面世界であって、親としての認識や先祖としての認識、そして人類始祖や神様まで、時間世界縦的世界の把握なくして血統の意味はわからない。親なる神様であるという感情も本人はわかっているつもりでも本当はわからない。

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