2010年12月21日火曜日

今日の想い 235

日本語脳なので未だに英語で説明されても入ってこないのだが、人権という言葉だけがトーンを上げて響いてきた。人権。それは何か日本食口の私にとって聞きなれない言葉であり、蕩減の歩みとして私に人権があり要求もできるという発想もなかったし、人権で護られる以前の僕の僕として、その立場が絶対服従だと教えられたのかそれともそういう空気でそういうものだと思い込まされているのか、人権という言葉には疎い。確かに拉致監禁の問題が人権問題であることはその通りだ。しかし随分以前から問題はあったのに敢えて正面から戦うことを避けてきたのにはそれなりの訳があるだろう。それは外的にもそうであるけれど内的にも理由がある。外的なことを言うなら摂理が要求するものが優先され急がれ、その問題に関わる余裕も無かったと、おそらく当時の責任者は言うはずだ。もし関わろうとするなら責任分担も果たさずにという白い目で見られただろうし、事実それどころではなかったはずだ。内的なものを見るなら、日本の在り様としてひとりひとりの自主性はなく、全体の意志に殉じて生きることが即ち信仰でありみ旨であった。それが私的なものであれ公的意識からであれ、自分の感情や考えは全体の前に屈するべきだった。日本食口がその意識でまとめられていたからこそ、それほどの実績を供えることもできたのだろう。しかし影の部分は確実に取り残され積まれていく。それは全体として流されるままにされてきた日本の血であり未だ癒えぬ戦いの傷だ。逆に人権を主張する雰囲気や主張できる体質が備わっていて、ここまで一枚岩となって実績を供えることが出来ただろうかと思うと、首を傾げる。全体の犠牲的傷みがあるように、兄弟それぞれにも深い傷みを負っている。代表姉妹が公的犠牲とされて御父様に認定して戴いたのであれば、日本の食口それぞれの深い傷みも必ずや覚えて下さり労いの想いをかけて下さるだろう。僕の僕から這い上がって来ながら、今人権という輝く言葉を口に出すことを許された。何度も人権という言葉を力強く口にされるのを会場の隅で聞きながら、何か身分不相応なものを頂いている様な、勿論私個人の人権についてのことでは無いにしてもどう受け止めるべきか戸惑っている。

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