2010年12月7日火曜日

統一的夫婦

食口の多くはみ旨ゆえに夫婦離れ離れに暮らす場合もあるが、私の場合実に感謝すべきことだが、家庭を持ってからずっと一緒にいる。たまにこうして数日離れていると、視界の中に彼女の存在を認める時とは違った別の発見があったり、相手に対して向かう想いや相手から受け取る想いを、頷けるほどにはっきりと純化されて、内面に味わうことが出来たりする。隣にいれば皮膚の輪郭をまとう相手を、見る側からも本人の思い込みの輪郭を相手に嵌めて見てしまっている。外的に唯物的な把握しか出来ないように、内的にも凝り固まった変わらない把握しかできない。相手に対する内的霊的認識に柔軟性をもたらすことができれば、僅かな変化の芽も見逃さず、そこを賛美するなり刺激するなりしながら大きく変容させることができる。人間は柔軟に変わるのだ。変わらないのは勿論本人自身の課題もあるけれど、周囲の、特に夫や妻の、思い込みの輪郭を相手に嵌めてしまっている場合が多い。お互いが馴れ合いになってしまって、相手に対する関心も新鮮さも湧いてこないなら、時間的にも空間的にも少し距離を置いてみることも、より近付いて一体化する為には必要だったりする。どんなにジタバタしても、どんなに一人で生きることが出来ると粋がって見ても、夫婦でひとつ、ハナであることは紛れもない事実だ。夫婦でハナであるから夫婦でひとつの呼吸をするのであり、夫婦で前面から向かい来るもののひとつの本質を二つの目で見れるのであり、夫婦でこそひとつの目標地点に左右をうまく使って歩いて進むことが出来る。私は大いに反省すべきなのだが、家庭に於いてこれが正しいと私だけが言い張っても相対が認めなければそれは正しいとは言えない。正しいという言葉は夫婦二人が認めてこそ初めて言える言葉なのだ。夫婦や家庭に対する概念がこの世のものとは根本的に違うので、この世的秤で相対を判断しているうちは夫婦としての出発点にすら立ってもいない。夫婦が一つになることで、両目をそろえて見えるものがあり、両耳をそろえて聞こえるものがあり、両腕両手をそろえて掴めるものがあり、両足をそろえて進める世界がある。夫婦が一つになることで始めて呼吸ができ存在できる次元世界が開けている。

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