2010年12月20日月曜日

今年のクリスマスを前にして

十字架の摂理は二次的な摂理であり、生きて勝利する摂理が完全に閉ざされた為、他の選択の余地がイエス様にはなかった。しかしサタンによって奪われるイエス様ではなく、最低限の救いの選択をかけて、自らを捧げる決意と覚悟をイエス様が自分の意志でされたと理解しなければならない。しかし十字架の摂理を選択すれば、あまりにも残った者達が天に負債を負ってしまう。確実に歴史を通して用意されてきたイスラエルが滅び、ユダヤ教徒に悲惨な末路が残される。イエス様が十字架を選択する上での多大な禍根が残ることに対してのゲッセマネの祈りだ。ゲッセマネの園で血の滲む闘争的談判祈祷は、残される者達の背負う負債をも思われ、彼らの痛みに対する心痛をも含めた祈りだった。苦杯を飲まざるを得ないのですかと天に問い詰める祈りの意味は、死を飲まざるを得ないということではなく、救いの摂理として霊肉を引き裂かざるを得ないのかと言うことだ。霊肉を中心に地上天国天上天国を完成しようとするみ旨を捨て、肉的世界を切捨て、霊的救いのみを残す道を覚悟せざるを得なかった。多くの者達は人間イエスとしての悲惨な生涯への個人感情を呼び起こし、同情する私が信仰の基となっている。しかしながら原理を知った立場でキリストイエスの本質に迫ろうとするなら、ゲッセマネの祈りに於いても、ゴルゴダへの道を進まれる時も、陰から見ている弟子を振り返られる時も、更に十字架に臥されて晒される時も、自分について弁明されたり愛の眼差しを供えない他への批判判断をされることは一度たりともなく、公的位置に迷い無く殉ぜられた在り様に私も続こうと思わなければならない。御父様のみ言葉に、イエス様は死の友だったので死を早める時にも死を意に介せず、恩讐の為に死ねる余裕の生涯を生きられたとある。為に生き、為に死なれたイエス様を仰ぎ見る自分の位置から、イエス様の在り様を受け取ってイエス様を兄弟と思えるほどに私の生き様を公的なものとしなければならない。教会から十字架を下すように指示されたのは、十字架からイエス様の本当の姿をイメージされずに、同情であったり悲惨さであったり示された愛とは別様のものを受け取っているからだろう。弱弱しい憂いを帯びたイエス様をイメージしているとすれば、それはイエス様ではなく別物だ。今年もクリスマスがやって来る。誰よりもイエス様を身近に感じるとすれば、この一瞬も為に生き公的に生きようとする意志を強くしていくことだ。

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