2010年12月28日火曜日

今日の想い 236

私が恐れて心配しなければならないことは、生活がどうなって生活基盤を置いているこの国がどうなるかとか、2013年に向けて社会や世界情勢がどうなるかではない。更に、DーDAYを中心として何が起こり何が私に降りかかるのだろうかと心配し浮き足立つことでもない。私が恐れて準備しなければならないことは、如何なる状況に置かれるとしても天の道理を揺らぐことのない私の道理として行動できるかどうかであり、犠牲となり供え物となるその時に、イエス様の公的精神を受け継いだ者として振る舞うことができ、更に御父様の血統に繋がれた者として天情に徹した中心が揺らぐことがないだろうかということだ。私が恐れて心配することは私自身だ。その時その場で私が本物がどうかを私が見ることになる。見物人や証人となる者達の多くの視線の中なのかも知れないし、誰一人として周りには居らず天と私だけがその場で証人になるのかも知れない。誰もが自分が証人となって最後の審判を迎える。人間である以上最後の審判を迎え、誰一人逃れることは出来ない。生きようとする者は死に、死なんとする者は生きるというみ言葉が万民に成就する。審判は誰にも訪れるけれども、その場でふるいにかけられて生命の木に向かうのか、逃げてサタンの死亡圏に落とされるかを理解してるかどうかは人による。その中に死亡圏に堕ちていくのだと認識しながら審判を迎えて逃げ惑う者達もいる。み言葉を戴きながらみ言葉の本質を受け取れず、常に御父様から何か貰えるものはないかという姿勢で信仰が実を結んでいない者達だ。み言葉を知り、御父母様を知った者達は或る意味恐ろしい立場にある。霊的刃を懐に持っている。それはサタンに向ける刃ともなり逆に自分自身を死に至らしめる刃ともなる。私達は流された多くの血と積み上げられた恨の土台の上で存在している。イエス様の流された血と恨であり、四千年歴史を四百年で蕩減すべく殉教で流されたクリスチャン達の血と恨であり、そして御父母様の血と恨の土台の上で存在している。刃を何処に向けるのか、その心積もり一つで存在の土台を完全に無きものにしてしまうかも知れない。償うことだけに生まれて、千回万回殉教の道を辿るとしてもそれでも償いきれない罪が残る。

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