2010年12月15日水曜日

イスカリオテのユダ

表情には出ない目配せを遠目に伺う者達に送ると、おもむろに近寄って主にキスをする。キスという行為を最低に貶めて悪魔への印籠を渡す。十二弟子のひとりにユダがいる。十二弟子は十二に分けられる人類全ての象徴であり代表だ。ユダがイエス様の前に現れたとき、既に近い未来に生じる事件を見通しておられた。本人はわからずともユダが採るであろう行為を見越しておられた。人類全ての救いが主題であれば、救いの圏外に置くべき人間があろうはずがない。或る意味ユダに象徴される人種は群れから最も遠く離れた羊に違いない。ユダを救うためにはユダが差し出す毒杯を受けざるを得なかった。それによって人類全ての救いが棚上げされてしまったと誰かが判断するとしても、愛を打算の僕にすることはキリストの選択の中には一欠けらもない。ユダが背負うものを全ての人類が多かれ少なかれ背負っている。裏切りのユダが私の中に生きている。それを認めずしてはユダを断罪することも出来ないし、イエス様の愛の本質を問うこともできない。ここにひとつの伝説がある。或る父親がお告げを受けた。息子が生まれたら不幸をもたらし父を殺して母と結婚する。その父親はそれを受けて生まれた息子をカリオテ島に捨ててしまう。カリオテの女王には子供がなく、捨てられていたこの息子を引き取った。しかし後になって女王に子供が生まれる。引き取られた息子は実子に対する愛の減少感からこの子供を殺してしまう。息子はカリオテ島から逃げ延びてパレスチナにあるピラドの宮殿に行き着く。宮殿の職を得て暮らしていたがある日隣人と喧嘩になりその隣人を殺してしまう。その後その隣人の妻と結婚する。そして驚きの事実を何処からか知ることになる。殺した隣人は実の父であり、妻は自分の母であることを知る。お告げはその通りとなった。彼は悩み後悔してやがてイエス様の元にやって来る。そしてイエス様は彼を受け入れられた。彼はカリオテ島のユダ、即ちイスカリオテのユダという人物だ。イエス様が十字架刑に処せられたのにはユダの裏切りと切り離せない関係がある。ユダの裏切りはユダの背景とも切り離せない関係がある。人類の全ての負の運命をかかえて産まれたユダは、苦悩の境地を内的にも外的にも歩み、裏切り者の代名詞として今も生き続けている。キリスト教国家アメリカでありながら、近親間の交わりの現実が少なからずある。何でもありの世の中だと言い放って、安易にユダの負の運命を背負わされていることを知らないでいる。神様は人間が悪魔より恐ろしい存在であることを知っておられる。朝に神様の御前に跪いて悔い改めの涙を流したかと思うと、夕には悪魔の片棒を担いでいる。善と悪の狭間で私の内のユダが顔を出す。言い訳という銀貨を払って悪への橋渡しを内なるユダが取り仕切る。

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