2010年12月14日火曜日

内界と外界

昼は光の中で行動している。夜にも時代の恩恵が明るい光をもたらし、その中で行動している。生活そのものが、光に溢れている外界が当たり前でそれに依存したまま存在している。外界の情報のみに身を委ね、内界をないがしろにしたままで生を送っている。この外界から、光と言う光全てが途絶えた状況を想像して見るといい。完全な闇の中に投げ出されたら普通の人間は発狂する。普通の人間は外界にこそ足場があり、内界の闇は外界の印象で誤魔化したまま生きているから、いざ外界が閉ざされると存在の為の位置を見失う。外界に生きることで内界にどれだけ光を届けられるかを問われている。外界に光源である太陽を頂いているように、内界の光源をしっかり受け取らない限り、霊界に赴いても薄暗い狭められた周囲のなかで呼吸もままならないままでうずくまるしかない。人それぞれの信仰対象が内界を照らす光源には違いないが、太陽のような恒星存在ではなくカンテラかせいぜい電灯程度で、その強さはそのまま霊界生活の霊の呼吸、即ち愛の呼吸に影響する。イエス様がもたらした愛が、更に真の御父母様がもたらした真の愛が、どれほど内界を明るくし、息を吹き返し、活動範囲を広げるかを知れば、私にとって御父母様の存在がかけがえのないものであることを悟る。更に私達は光を受け取るだけの存在ではなく、星々という恒星存在になって光源体として光を照らす存在となる。太古に於いて神々に近付ける道は二通りあった。ひとつは外界のベールを越えて神様に近付く道であり、今ひとつは魂の奥に下って霊界への領域を超えて神様に近付く道だ。そして外界の先へのベクトルと内界の奥に向かうベクトルとは真逆であると認識していたものが、行き着く先がひとつの同じ神様であることを知った者達がいる。内外のベクトルが円としてひとつに繋がることが認識できれば、外界の印象の中に内界を見、内界に生じるものが外界に現れることが解る。そして私の周囲に起こり社会に見聞することや宇宙に起こること全てを、私の内界の何処に見出すことが出来るかを問いながら生きていく。隣人の事柄や全ての事柄が、他人事ではなく密接に私に関わっているという認識で、為に生きる哲学を導き出し、為に生きることで私の内面に更なる光を届ける。

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