2011年5月31日火曜日

今日の想い 314

昨日を生きた私と今日を生きる私が同じ私だと誰もが思っている。私の中には私という一存在だけが存在し、他の人格も私の中にあるとは誰も信じない。認識できるものだけが存在し、認識できないものは存在しないという立場を取るのが、大方の現代人の在り様だ。私という自意識が肉体の奥深くまで強く浸透しているので、私という存在をそれ以上に融解させたり分解したりすることは好まず、私の中にまで入り込もうとし、かかわろうとするものに関しては本能的に排斥する。しかし本質的な宗教はそこにメスを入れようとするし、それ故になかなか受け入れられることはない。私という存在はいくつかの意識の集合体だという言い方は奇異ではあるが決して間違ってはいない。役事を通してどれほど私という存在が純化されたかは計り知れないけれど、私という全体意識の中にへばり付くように存在している多くの霊がいる。霊はそれぞれにおいて意識だ。私の中にうごめく多種多様な意識を感知できれば、大母様が表現されるように蟻の卵のように隙間無くへばり付く霊を霊視できる。多くの霊が憑いていると言われて、私の意識外に霊があり見出そうとするけれど、私が私と意識するその中に、化学反応して一体化して区別できないほどに私自身となっている。統一食口は祝福によって、私という意識の集合体の根幹に御父母様に繋がる霊を埋め込むようにして戴いている。人間が堕落の血統から逃れられなかったように、祝福を戴いて血統転換された者は御父母様の霊を私から排除することはできない。それは祝福という成約の秘儀がもたらす歴史的天宙的偉業であるけれども、私の中の堕落的意識からすれば恐ろしいことでもある。御父母様を慕い侍る私になる為にどれほどの戦いが内面に繰り広げられるかは、食口であれば誰もが経験しているし未だその戦いの中にある。侍儀の歩みとは戴いた御父様の神霊を意識の中心として歩むことだ。前日と次の日の運勢的な状況や内的な状況がこうも違うのかと思えるときがあるけれども、そんな時に限らず霊は常に出たり入ったりしている。特に今の新しい天宙の創造過程では、かせが外され霊と霊との繋がりが緩められて、昨日決意したプラスに対し、今日は既に相対する霊のマイナスが引き寄せられて意識が変化し、状況が百八十度変貌する場合がある。勿論その逆もある。昨日の私と今日の私は明らかに違っている。今日には今日の昨日に捕らわれない異なる私を生きている。その期待感が私の中の神霊を育てる肥料になる。

0 件のコメント: