2011年7月2日土曜日

みんな夢の中

魂の故郷から追い払われ魂の故郷を失い、本質に触れることを許されず本質の意味すら失い、存在しているらしいけれども確定もされずに、魂の彷徨い人となり六千年間彷徨い続けたのが偽らざる人類の姿だ。存在も確定されずにどうして生きるという言葉を使うことが出来るだろうか。自分を生きるとは自分としての意志があってこそ言える言葉であって、自分の存在も確定されずに生きるという言葉は当てはまらない。自分を生きているのではなく何か別物が私を使って生きている。私の体を使い、私の魂を操り、本来の私自身は幻想の中に漬け込まれたままで別の何かが私を生きている。別の言い方をするなら、サタン使用の私だということだ。生きているという幻想の中で悲喜こもごもを味わいながら、表面的感情を好きだ嫌いだと言いながら、本来の私自身に取っては霧散して消え失せる感情体験でしかないものを、生きることの意味だと信じ込まされて幻想の中でもがいている。私の好きな歌のなかに高田恭子が歌っていたみんな夢の中という歌がある。色恋の歌ではあるが幻想の中で悲喜を味わう人間の姿が映し出されていて名曲だと思う。ぜひYOUTUBEででも聴いてほしい。御父様が私達を前にされるとき、時折沈黙されて私達を見渡される時がある。その時の御父様の目は、これほどに寂しい目を見たことがあるだろうかと思われるほど寂しい目をされて私達を見渡される。幻想というサタン世界の中に彷徨う我々であり、御父様に会ったと言いながら会ったこと自体も幻想の中の出来事であって、御父様に出会うことの本当の意味もわからずやがては夢の記憶に過ぎない事柄として消え失せてしまう。この集まりの中の何人が、幾つの魂が本当の御父様との出会いを求めて残っていくだろうかという想いが、御父様の中にある。御父様に出会えたと無邪気に喜ぶ私達を御覧になられて、尚更寂しく悲しく思われる御父様であることを私達は忘れてはならないし、何が何でも御父様の袂を掴んで腕がちぎれようとも離さないと決意と覚悟を差し出すことだ。御父様への想いの強さが幻想世界を蹴破って御父様との本質の出会いを為し、故郷である本質の世界へ御父母様に連れられて入っていく。

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