2011年8月28日日曜日

今日の想い 361

真の家庭の様々な問題を御父様がどのように説明されておられるかは、2000年11月、ハワイで語られた父子協助時代宣言のみ言葉の中にある。概要を述べるとこうなる。再臨主が来る前までの女性は血筋を正す役割があり、サタンが手を付けることができる子供に母子協助することで反対を受け、天使長の位置にある男性は全ての女性を蹂躙してきた。母子協助から父子協助へと言うのは、御父様が子女が生まれたために真の父として立たれ、母が子を助けて血筋を正す蕩減的内容から、(真の)父が直接子を助けることができるようになったということだ。神様を中心とした真の父が現れ、真の父を中心として真の母が現れ、そこから生まれた息子娘たちはサタンは手を付けられず、変わって真の父が直接手を付けることができ助けることができる。真の家庭に様々な問題があったということは、サタン世界にいる祝福家庭たちが責任を果たせなかった為であり、御子女様たちはどんなに誤ったとしてもサタンとは関係がない。よってこれを収拾し解決することが父子協助として御父様はできる。その為に御父様は聖人たちと悪人たちを祝福し、地獄と天国を崩す権限をもって真の家庭圏内の傷も赦される。と、大体こう言う内容として私は理解したが、私にとっては難解な御父様のみ言葉なのでそれぞれに読んでみて確認して欲しい。しかし赦されてそれで良しとされるのではなく直系の子女としての難しい路程があることもはっきりと言及しておられる。このみ言葉で先ず私が理解すべきことは、私達は表面的なことだけを捉えてああだこうだと言っているが、御父様は確実に背後を見通され、私達には見通せない幾次元もの霊界に通じ、神様とサタンとの遣り取り、取引をされながら摂理を進めておられると言うことだ。疑心で目が曇らされてしまえば、どのようにも避難できるしどのようにも解釈できる。批難一辺倒の者に対して敢えて説明しようと思わないし、説明すべきでもないだろう。すべての解決はみ言葉にあり、本人自身にあると言えるだけだ。

今日の想い 360

地震の次はハリケーンだ。東部海岸沿いをハリケーンアイリーンは北上している。ワシントンはチェサピーク湾を挟んで外海の大西洋から100マイル内陸に位置している。店や私のアパートは更に50マイル西に入っている為ダイレクトには影響はないが、それでも雨量は半端なく、朝からの雨が日を越して明日一日降り続くようだ。店もアパートも建物自体は古いので、雨が続くといつも雨漏りに悩まされる。雨漏りは天井の裏だから相当量水が溜まるまで気が付かず、漏り始めるとたらいをひっくり返したように雨水が落ちてくる。それでもランチ開けで客が引いた後だったので良かったが、下手すると客に雨水の洗礼を浴びせることになりかねなかった。今回はこの地域に強風が吹かないだけ有り難い。風が強ければ確実に停電する。一度停電すれば復旧に二日や三日はかかる。そうなると営業が出来ないこともさることながら、冷蔵庫や冷凍庫の在庫が全部駄目になってしまう。アパートのリビングも雨が漏っている。安普請で備えられたサッシの隅から、侵入した雨水が窓枠の桟を打つ。壁板の背後を伝わって滲み出た雨水がフロアーの絨毯を濡らす。絶え間ない雨漏りの音を聞き、絨毯のシミが広がっていくのを見ながら、田舎のあばら家で吹き込む雪に煩わされていた、子供の頃の当時の情景を思い出した。早めに処置すべきだという認識は一方で持ちながらも、五十を超えアメリカに住みながらもあの頃と同じように外部からの侵入物に煩わされているのが可笑しくて笑えた。どれほど人生の問題に悩もうと、どれほど内的霊的問題があろうと、日常は溢れる生活の対処事項に追われながら過ぎていく。でも生活上の些細な事柄であっても、そのひとつひとつが万物との関わりの中で万物を愛する行為でもある。子供のオムツを替えたり嫌がる子を風呂に入れていた煩わしさが恋しく思われるように、最近は生活の煩わしさが愛おしく思えてくるようになった。店でも毎日何かはある。下水やトイレが詰まることも度々だし、エアコンが効かないフライヤーのバーナーが働かない水が漏れる、、次から次へと対処すべきことが起こって終わることはない。でもそれは子供のように駄々をこねる店としての愛を求め愛の証しを求める表現だ。手を尽くした分だけ、愛した分だけ、私は愛の主管性を復帰する。

2011年8月27日土曜日

今日の想い 359

私の中には漠然としたものであってもみ言葉に照らした善悪の基準があり、その基準から外れないように意志として行動に働きかけている。私達は今まで、特に献身制度の上で原理、非原理という言い方をしてきたが、それは原理圏、非原理圏というすみ分けであり境界線を引くものであり、原理圏が善で非原理圏は悪であるという基準を備えたということだ。献身制度という隔離された状態から少しずつ境界線が取り払われ、私達は非原理圏に生きており、非原理圏の価値判断を備えており、非原理圏の社会生活に浸透している。ではそれは私が悪に染まってしまったのだという言い方をするなら、私は原理圏という無菌状態に置かれない限り悪から離れられないのであり、悪を善に変える意志を備えてはいないと言うことになる。それは自由意志を備えた自由な人間ではない。神様はアダムとエバが堕落する時でさえ自由意志に任せておられる。自由意志の前に先ず善悪の基準が先立つなら、神様は裁き第一の神様であり世界は善の牢獄としか言いようがなくなる。神様が自由意志を立てられるのであれば、私も裁きの為の善と悪のすみ分けをすべきではない。真の愛に浸透された意志を働かせて、より悪に傾いているものをより善になるように働きかけて行くことで、私の内にある善悪基準は正しく使われたと言うことができる。私自身を裁くならまだしも、周りを見て裁きのひとかけらも内なる私に見出せるなら、私の善悪の基準は真の愛に浸透されたものではなく、堕落的なものに使われ堕落的なものに留まったままだ。親が子供に対する時、子供に悪の要素があるからと言って突き放すことはない。悪の要素を取り除いて善の要素に満たされるよう働きかける衝動が親の愛だ。子供は親に取ってかわいいから愛をもって接し、隣人や社会には善悪基準で裁いて突き放すなら、私は自己中心というルーシェルから受け継いだ堕落性から抜け出すことはない。

2011年8月26日金曜日

地球の胎動

ワシントンで、一年の間に既に二回の地震を経験している。今回の地震は実に広範囲だった。北はカナダのトロントから南はフロリダまで、中西部はシカゴまで揺れたらしいからアパラチア山脈あたりからアメリカ東部全域に及んでいる。プレートの断層がないこのエリヤで地震を起こす原因が何なのか。地球は今、大きな変革期にある。内的霊的なことと、外的宇宙的なこととが全く別様に動いているように思えるのは、人間の唯物的な思考と感性に拠っている。五感で見聞している今の世界や宇宙が、過去にも同じ様相であり未来も変わらず同じ様相を呈すると信じ込んでいる。天地の創造が完成した後に、人間は創造されたと信じ込んでいる。それは原理を受け入れ、御父様を信奉している食口だって同じことだ。地上天国という私達の認識はあくまで内的なことに関することだと思っており、それを踏まえた人間と人間との関係性のことだと思っている。要するに人間の心の問題として捉えている。私の中に心があると言うのは信仰を持たない者であっても理解しているが、心という非常に漠然とした捉え方ではなく、心の作用を分析して魂があることを見抜き、魂の背後に霊があることを見抜かなければ唯物主義者と差ほど変わりなく、信仰の根が深く根付くことはない。創造が始まると同時に人間の創造も始まったのであり、今の状態も未だ創造過程にあり、人間の創造も完成した訳ではない。人間の形姿の状態、人間の感覚の状態、人間の生命の状態、人間の魂の状態、現代人と古代人とは似ても似つかぬ差が有る。人間始祖アダムとエバが現代人と同じだったと思えること自体が間違っている。人間の形姿、感覚、生命、魂の様相を人間始祖以来ここまで完成形に近付けたことは、ルーシェルと戦ってきた神霊存在の恩恵だ。ルーシェルの影響をもろに受ければ、今の肉体形姿に見るような統一形は有りえないし、視覚聴覚を通して受け取るものが痛みや苦痛であるような粗雑な感覚器官と、無茶苦茶食い無茶苦茶吐くような極端な生命活動しか為しえない動物以下の存在になっていただろう。更に魂の中に良心を植え込むまでにどれほどの戦いが繰り広げられてきたことか。人類の魂に良心が植え込まれて初めて人類存在の根源を変える救世主を迎えることが出来る。人間が変革してきたように、合わせて地球も変革してきた。人類歴史が後天時代を迎える大きな変革期を迎えているように、合わせて地球も大きな変革期を迎えている。地震で揺れ動く大地を感じれば、地球再生の地球の声が私の中にも響き渡る。揺れ動く大地は新生地球の胎動だ。新生地球はこれまでの地球の在り様が嘘のように、まさしく生きた星となる。

2011年8月21日日曜日

今日の想い 358

都市空襲で焼け野原と化した日本に、更に大量の市民を殺傷する原爆を投下する必要があったのかと言う疑問や是非が論議され、アメリカが一度として非人道的なこれらの無差別大量殺人に対して謝罪もしていないし、国際法の裁きも受けていないと非難する。そこでもやはり個人的な感情が先立ち、個人的感情に引っ張られる形で言葉の遣り取りが為されても、両国間のわだかまりはより深まるばかりで何の国益も紡がない。従って勝てば官軍の言葉通り、戦勝国が善しとするものを善しとするのは当然で、敗戦国は戦勝国の言いなりになるしかないと言う諦めの気分が大方の気分だろう。しかし日本は日本としてその気分に浸っていることが日本の発展に繋がるのか。更にはエバとしての立場で摂理の期待に応える日本が、この気分の上に築城されるのか。集まった日本の食口に対してわざと汚い言葉を使われながら、必ずと言っていいほど日本への非難を直接的にされるのを耳にしていると、それが余りにも直接的であり、真の愛だろうかと思えるほど恨みがましく、それを受け取る大方の食口はそれ程に日本の侵した罪は大きいのだと結論付けてしまうけれど、私はどうしてもそこに御父様が口に出来ない日本への願いの言葉が隠されているように思えてならない。あまりにも私達の憤慨の感情を無理にでも引き出そうとされておられるようで、わざとらしさが見える。御父様はその言葉で日本の食口を試験しておられる。隷属的言葉を吐かれることで隷属的意識にある私達を気付かせてそこから抜けだすことを願われ、更には抑え込んでいる感情を吐き出させその感情を主管する私達を引き出そうとされておられる。感情を超え、感情を主管する私達となることで真の愛国者の位置を奪還し、エバは母の国としての皆から見上げられる位置を揺ぎ無いものとすべきであって、お金だけを吐き出し雑巾のようにボロボロになるだけの母の国であることを願われているとはどうしても思えない。御母様の威厳を母の国は相続すべきだ。今の状態が続く限り、ますます貰いうけ、ただ甘えるだけの子女国家群から、母を敬い母を助ける国は育たない。

2011年8月20日土曜日

今日の想い 357

終戦記念日は今年で66回目を迎えた。広島と長崎の原爆記念日も66回目となる。66数はサタン数の終結と一致するけれども、終戦66回目という摂理的意味があるのかないのかはわからない。日本は真珠湾を攻撃することで眠れる獅子アメリカを叩き起してしまい、惨憺たる状態で敗戦を余儀なくされてしまった。いろんな角度から歴史を検証すれば、追い詰められるような形でアメリカ開戦に踏み切ったようだけれども、背後にある本当の真実は復帰摂理の観点に立たなければ見えてはこない。摂理観を持って見える真実は、日本はサタン側のエバとして真珠湾を奪い取ることがどうしても必要だったと言うことだ。海は宇宙の子宮であり、エバはサタン世界で太平洋を取り囲むことが自らの子宮を得ることだった。勿論当時の中枢に摂理的意味や背後が見えていた訳ではないが、日本の背後に、日本の中心部をサタン側として動かす霊的存在が存在していた。個人の常識や良心では図り得ない、そして抗うことも出来ずに巻き込まれるしかない、所属する国家や世界の摂理的事情がある。どれほど善人で良心的な人物であってもサタン側で利用もされるし、或いは逆に、どれほど悪人であっても神側で利用されもする。個人の常識や善悪判断を超えた次元の遣り取りが摂理史上に刻まれてきたし、今の摂理でもそれは変わらない。大戦に於いて神側である連合国とサタン側である枢軸国との主権をかけた戦いで、アダム家庭でカインがアベルを殺した条件を世界的に蕩減復帰する、その最終段階としての世界的鉄槌が広島であり長崎であった。個人としての恨みがあるように国家としての恨みもある。個人として蕩減すべきものがあり国家として蕩減すべきものもある。御父様は日本の食口達の前で日帝支配を責められるけれど、それは個人を責めておられるのではない。日本を代表した立場で受けるのであれば、個人的な感情を引き出すべきではない。他国はもっと酷いことをしていると非難がましい感情を起こすでもなく、かと言って卑屈な感情に落ち込むことも正しくない。個人的感情を持ち出せば国家としての恨みも解けないし国家としての蕩減も果たせない。国を本当に愛するものは国としてあるべき国家感情を理解している。謝罪外交、弱腰外交は国の命運を個人感情という引き降ろした低級な魂に渡したのであり、そこに国への想いはひとかけらも見当たらない。

2011年8月17日水曜日

今日の想い 356

私の魂は未だに堕落の様相のままだ。食べたいだけ食べ、寝たいだけ寝て、肉心の要求する享楽を満たした状態でみ旨に関わろうとするなら、意識に於いては趣味や道楽に向かうものと何ら変わりはない。趣味や道楽はやってもいいしやらなくてもいいように、み旨に対しても出来る範囲でということで甘えてしまう。自分の肉心と相談し、心の内に波風が立つことを恐れて、み旨という領域の中に深く飛び込むことが出来ないなら、結局御父様の懐の中にさえ飛び込むこともできないだろう。御父様の子だと認知して戴いても、私自身が御父様に背を向けていることになる。御父様、御父様と口にしながらその実、心を偽っていて、偽りの愛の幻想から抜け切れていない。エジプトに後ろ髪を引かれる私なら、不信の荒野から抜け出してはいない。雄々しく強く立ちあがったヨシュアを内なる私に備えるということは、私の中に決意と覚悟があるかどうかだ。飯が喉を通らない、寝るに寝れないという状況にでも置かれなければ決意と覚悟は備えられないのか、或いは能動的に自分をひもじい状態、睡眠を削った状態に置くことで決意と覚悟を備えるのか、堕落様相の魂を主管するためにはどちらかが要求される。私の魂と身体を舞台にして神霊が勝利するのか、或いは魂を占拠し続けた悪魔的霊が防衛するのか、一進一退を続ける限り勝利はいつまでたっても見えてはこないだろう。腹風邪をひくと気分が悪くなり吐き気で苦しくなる。腹の内容物を全部もどせば楽になるけれど、吐くたびに体中の力が抜けて行って吐く気力さえ出てこなくなる。そんな症状は現状の魂の内容を吐き出させ、新たな神霊による魂が芽生えるのを待つのとよく似ている。魂に棲む堕落の内容物を吐き出すことだ。それもとことん底をさらって吐き出すことだ。先ず吐き出さなければ新たなものは入ってこない。生気を失うどころかこのまま消えてなくなりそうになるけれども、その状態を内的に体験しないと魂は変わらない。今まで築き上げてきた魂の塔は内的に打ち砕かれて崩れ去り、全てを否定され全てを失った立場で、それでも清々しささえ覚えて感謝できれば、私の魂は生まれ変わる。神霊によって新たに入魂される。

2011年8月16日火曜日

今日の想い 355

み言葉の月刊誌の挿絵のように、理想家庭を絵に描いたような家庭を築くはずが、付き付けられる現実は地獄の様相だ。苦しい胸の内を吐露するなら、み言葉は私に取っては胸に痛すぎる。愛のみ言葉が裁きの言葉としてしか受け取れない現実を抱えながら、それでもこの道を行こうとするところにこそ決意と覚悟は本物になるのだろう。地獄を受け止める腹が据わる。終りを知らない責めを受け止め続け、心がボロボロになりながらも着いて行くのは、そう思わされることが今の私への神様の愛に違いないという信仰だ。愛がいつも優しい顔をしてやってくるとは限らない。冬のような厳しい愛も真の愛に違いない。ああすべきだった、こうすべきだったとは、もはや言うまい。過去に撒いた悪い種の実りを今味わっているとしても、それでも私は過去に主管されるべきではない。この痛みが、この苦悩が、新たな産みの苦しみとなって明日を創造している。カルマ(因縁)を過去に見て感情しても時は遡れない。今こうしている内にも、時は前へ前へと刻まれ前進し続ける。カルマの穴埋めの為にこの痛みを味わうのではなく、この痛みは未来を築く為に願って受けているのだ。私の決意と覚悟が本物になれば、私の腹が据われば、霊界は従わざるを得ないだろう。待ち構えている絶対善霊は私の絶対信仰、絶対愛、絶対服従が本物かどうかを見ている。協助せざるを得ないと彼らが突き動かされたとき、どのようにも働きかけてくるはずだ。その衝動に点火するかどうかは私にかかっている。私が子供を置き去りにして天国に行こうとは露ほども思っていないように、多くの人類を地獄に置いたまま喜び安堵される神様であるはずがない。次元が違うとしても、この痛みと苦悩は神様の痛みと苦悩でもある。私は神様の痛みと苦悩を共有している。この痛みと苦悩は、神様が私を信頼しておられる証しだ。

2011年8月15日月曜日

霊と魂を混同している、の続き

思考における悲観や楽観、感情における安堵や苦悩、私の堕落的魂のそういった活動は既に自己中心というルーシェル本性が染みついているから、その思考や感情に委ねる以上、私はルーシェルの内的環境から抜け出すことはできない。祝福を戴いて私の中に神様の血統に繋がる魂の萌芽は見てとれるとしても、正しく畑が用意されず養分が宛がわれないなら、以前として堕落的な魂の在り様のままだ。一日の生活の中で何千何万という思いや感情が来ては去り来ては去る魂の活動は、まるで自己保身に狂った暴れ馬の如くで、私の中心的霊の現れである良心の主管下にはない。一方でうるさい魂を鎮めて良心の声を聞けるよう訓練し、その一方で良心の存在と声を際立たせる神霊の強化を図る。この瞑想や祈祷とみ言葉訓読の両立以外、堕落的な魂を超えた位置で私を導き得るものは今のところ見当たらない。比較から出発した自己の自覚が堕落の動機だったが、先ず対象に投入し対象を喜びに満たし光輝かせることで自己を自覚するという、簡潔に言えば為に生きることで私の存在を知る人間本来の霊を取り戻して、新しく入魂する作業を行っている。私の本当の喜びであるとか幸福であるとか自分を満たし得るものは、対象を経由するもの以外あり得ない。直接的短絡的に自分を満たそうとするもの全ては結局自分を不幸にし、自分を失わせるものばかりだ。私の魂の不健康さは、自己保身、自己満足、自己中心がその根底にありながら、それに蓋をしてしまって見ようとはしないことにある。悲観や楽観、安堵や苦悩、魂の表面的な活動を主管しようとするなら、蓋を取って己の正体の醜さを先ず自覚することだ。その自覚(罪意識)を踏まえて初めて、為に生きる魂の入魂に入れる。

2011年8月14日日曜日

霊と魂を混同している

私達がみ旨に対する時、先ず私達の前に立ちはだかるのは私の気分の問題だ。私達の心の中に、様々な気分が低く重く垂れこめた雨雲となって、良心(神)という太陽存在を遮っている。家庭復帰、氏族復帰、子女教育、為さなければならない多くの事柄を自覚してはいるけれど、悲観という暗雲に遮られ浸透され、金縛りにあったように身動きできないでいる。難しいという悲観気分で、為さなければならない事柄に常に対していると、出来ないものとして常套化されてロックされる。そうやってロックされた墓石が、もはや近づき難いものとなって私の内界に癌のように留まる。私の霊界は為せない事柄の墓標で次第に埋め尽くされていく。あれもしなかったしこれもしなかった、あれも出来ないこれも出来ない、悲観は更に悲観を呼んで立ちあがることすら出来ないでいる。氏族の解放、民族の解放、人類の解放の旗頭となるべき祝福を受けた私が、私自身が解放されず気付いてみると囚われの霊になっている。清平詣でをしたなら全ての問題が解決されるのかも知れないという期待感を持っていたけれども、受動的な待ちの状態の他力本願、心の中の悲観気分を何とかしない限り、状況は変わらないという思いに次第に落ち着いていく。或るとき急に、憑きものでも取れたように悲観気分が一掃されて、良心の願いのままに動じ制ずる私になれるかというと、それは殆ど妄想に近いし危ない。私の願いであるかのようなその状態は、多分に堕落的魂が作り上げた妄想概念に留まっている。気分の問題や、思い描く私の理想や天国は、魂内に留まっている。私という存在が魂内に留まる限り、魂を超えて魂を支配している霊を見ることはない。私という存在は魂の存在である以前に霊の存在だという真理に対する無知がある。魂を超える霊の存在、霊への影響をみ言葉から受け取れないなら、私はいつまでも堕落的魂に漬け込まれたまま、悲観と楽観を漂う根なし草だ。御父様が話されるように、私達は魂を霊だと思っていて霊を見通せないでいる。

2011年8月11日木曜日

今日の想い 354

連日百度を超えていたのが嘘のように八月に入ると気温は下がった。日中の日差しはまだまだ強いが、朝晩は肌をさするほど涼しい。昨日、店の食材の買い出しに車を走らせていると、落ち葉が二枚戯れるように舞い降り過ぎ去っていった。一瞬のことだったがその情景が日がな離れず、秋が近づいているのを教えたいのか、或いは対になっていたことに意味があるのか、どうでもいいようなことだけれど気になった。盛夏を超えて、日中の強い日差しにしな垂れていた木々の葉も、今はしっかりと葉表を太陽にかざしていて鮮やかだ。大気の熱が抑えられると光は煌めき、生命活動を軽やかにしてくれる。滞っていたものが流れだして流動的になると、同じ生命要素を共有している私の身体も軽やかになる。二枚の葉が風に舞うように、私の心も軽やかな身体からさらに舞い上がって、心の旅を始めようとしている。食口であればいろんな地域を回って来ただろう。私も北海道と沖縄だけは行かなかったが、殆ど全国を渡り歩いた。その土地土地で景色が異なり、水や空気が異なり、雰囲気が異なるのを感じながら、背後にある霊的なものが異なっているという感性を学んできた。その感性で様々な霊的領域に入っていくことができる。どれだけ皆が認識しているか知れないが、その感性が私を自由にしてくれる。ひとつの心配事や悩みの中に没入してその領域から出ることができないということは、別の領域があり、足を踏み入れることができるいろんな世界が広がっていることが見えないし解からないということだ。それは別の領域に逃げるということではなく、別の領域には別の領域の見方があり知恵があるということの発見だ。私達は次元を超えて旅をする自由人だ。真の愛と真理がそれを可能にしてくれる。コリント第二の聖句が私達の中に生きている。悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っている。別の領域への扉が開く瞬間がある。それを逃さなければ様々な叡智をいろんな領域から得ることができる。二枚の葉が風に舞うように、或る者に言わせれば明日の知れない身の上だけれども、自由に飛び交いながら内的霊的ネットワークを渡り歩いて、あらゆる知恵を享受している。

ヒグラシ

蝉が鳴いている。日が傾き始めてミンミン蝉が鳴き始めた。アメリカでもミンミン蝉は鳴くけれども、日本の故郷で鳴いていたヒグラシは鳴かない。おそらくここにはいないのだろう。西日が景色を赤く変える頃に、ひと際高い音程で、大気を乾かすように鳴いていた。湿って重い私の心の中にも、ヒグラシの音が染み入って気持ちを軽やかにしてくれた。周りの林の間で相談でもしたように、ひとところが鳴き止むころになると別のところで一斉に鳴き始める。四方のいろんな角度から届く響きに身を委ねていると、もみほぐされるように心は柔らかくなっていく。柔らかくなった心の内側に更に高い響きを受け入れると、余計なものを洗い落とされるようで清々しさを覚える。降り積もる雪の中に佇むと、静寂のなかに沈むことで心を癒すけれど、ヒグラシが鳴く西日の中に佇むと、響きに洗われることで心を癒す。私を遡るいつかの遠い夏にも、このヒグラシの音を耳にしていたはずだ。どこか懐かしく郷愁を誘い、自然と涙ぐんでくるのを見れば、失ったものがこの響きで癒された過去がある。響きに誘われてさめざめと涙を流しながら、魂の深みから新たな生きる力を注がれていった記憶がある。アメリカでも旧盆を超えれば急に涼しくなる。今年の夏ももう直ぐ終わる。それを知っているのだろうかと首を傾げるほど、せわしく鳴くアメリカの蝉は無邪気だ。季節感とは無関係にただ好き勝手に鳴いているように思える。季節に対する繊細な感性を捨ててしまったアメリカの蝉のように、私は自分の周りに対しても心情に対する感性を育てることが出来ずにいる。故郷のヒグラシが一斉に鳴く、あの宗教的響きの中に身を置くことができたら、人は変わるだろうか。深々と降り積もる雪の、あの宗教的静寂の中に身を置くことができたら心を開くだろうか。重いものを抱えたままで、今年の暑い夏も過ぎようとしている。ヒグラシが鳴くのも耳にできずに、夏は去っていく。

2011年8月9日火曜日

ナイアガラの滝 (3)

カナダ側からはカナダ滝、アメリカ滝の全景を正面から見ることが出来て、ホテルやアトラクションはカナダ側に集中している。誰もが滝の全貌を目にする為に、わざわざレインボウ橋を渡ってカナダに入国する。アメリカ側から回り込むようにして川沿いの観光客の流れを南下していくと、それは次第に迫ってくる。水量の多いカナダ滝に接近すれば轟音が地響きとなって足を伝い身体を振動させ、滝の威力で巻き起こる風が飛沫を浴びせる。迫力を言うならやはりカナダ側だろう。近くで見るカナダ滝は、勢いよく雪崩落ちるその流れに引き込まれるようで、天から地へと投入し続け流し続ける、或る意味空しさにも似た感情気分に落とされ何とも言えない気持にさせられるが、少し距離を置いて見る滝は別の感情を湧きたててくれる。地上的計算を度外視した莫大な投入に次ぐ投入を継続させながらも、逆に地から天へ昇っていく次元の異なる霊的な成果をそこに見るような想いが湧き起こる。太く細く、青い筋や白い筋を描いて落ちていく流れは、青い竜や白い竜となって遡って行くようにも見える。訳のわからぬままにつぎ込み投入されるものへの虚しさから、より高い次元に昇華されるものへの期待が伺われ、地の道理から天の道理への気付きが閃き起こされ、為に生き犠牲を厭わない御父様の哲学がここにも生きているという発見がそこにある。御父様はどれだけ投入してこられただろう。御父様の路程はナイアガラの滝のごとくに投入し続けてこられた路程だ。このアメリカだけを考えても常に投入してこられた。莫大な人材と万物を投入され、御子様を失おうとも流れようとする涙も禁じてアメリカの生きる道、世界の生きる道の為にその子を想う御心情さえも投入された。ダンベリーではその御身体すら拘束させてまで投入されてこられた。批難し命を狙おうとする共産党員ですら呼び寄せられ教育され、抱きかかえられ愛されて投入された。投入しただけの外的成果を見るべきだと、私達はその観念に染まっているから成果が見届けられそうもない投入には躊躇するけれども、御父様は徹底的に愛され犠牲となられ投入されるから、如何なる地上の存在も霊界の存在も、神様までも御父様には頭を下げざるを得ない。統一教会はそのような犠牲精神に貫かれている。私達の内面を伺って、犠牲精神が流れる滝の様相となるほどに内面に見てとれるかどうかを問わなければならない。この大宇宙を創造する為に気の遠くなる年月と莫大なエネルギーを神様が投入されたように、御父様もそれ以上に投入され更に投入されようとされる。滝の淵を見ていればそこに自分が立たされているかのような錯覚を覚え、飛び込む覚悟を迫られるようで足がすくむ。その恐ろしい位置に敢えて立たれておられるのが御父様だろう。

2011年8月8日月曜日

ナイアガラの滝 (2)

ナイアガラの滝で最もよく知られているのがMaid of the Mistだろう。遊覧船に乗り、滝の飛沫に煽られる暴風雨圏内にまで滝坪に近づき、滝を間近で見物するアトラクションだ。見物するというより台風の只中に立ち尽くすような状況に置かれて、入り口で渡された簡単なポンチョでは飛沫を防ぎきれない。それでも飛沫が優しくなる瞬間瞬間をとらえて見上げれば、轟音を立てて下り落ちるそそり立つ水の絶壁を視野一面にすることができる。この迫力ある非日常の景色と空間は、全ての見る者に自然に対する畏怖の念を一瞬であっても抱かせる。船と言う安全圏内でほんの数分のことなので、その気分に浸る程にまでは至らないまでも、目前の事柄に対して個人的欲で追いかける小さな私の魂が何とちっぽけで、安逸なままに生きようとしてもどのようにも抗えないものがあることを見せつけられる。科学万能の世の中で、人類はもはや自然に対する脅威を抱く必要が無くなったかのような日常の気分に誰もが浸っているけれど、それが幻想に過ぎないことを悟る時期に来ている。現代人に取って捨ててしまった大切な気分として、より精神性の高い存在、高次の霊的存在に対する畏敬の念を上げることができる。自然に対する畏怖の念を魂の中で成長させれば、それは高次の霊的存在への畏敬の念、更には神様へのより深くも重い畏敬の想いへと成長していく。神様がわからない、だから信じないと、実に簡単に片付けて割り切っている人が多いけれど、内面のこの精神的作業さえも疎かにして無視すれば、何千年何万年経とうとも、何度輪廻転生を繰り返そうとも、内的霊的無知と盲目、神様に対する無知と盲目は永遠に続いてしまい、そういう人間は言葉らしきものを喋る動物に留まってしまう。御父様のみ言葉を受け取りながらも、御父様を非難するに留まるのは精神的な怠惰としか言いようがない。その批判論理がどれ程稚拙なものであるか、読んでいてかわいそうになるほどだ。滝の飛沫を浴びた観光客は、帰りの船の中で頭を拭い顔を拭って後始末に余念が無いけれども、本当は自分の魂の中に拭い取らなければならないものがあることに誰も気付いていない。堕落人間の魂は、快と苦の感情に覆われてその目を塞がれている。

今日の想い 353

御父様には申し訳ないけれど、献身生活を振り返って見て、色鮮やかで快活で心躍るような出来事として思い出されるものは浮かんでこない。どちらかと言うと、暗い重たい沈むような思い出ばかりが浮かんでくる。霊界に行ったとき、もし御父母様の御側に呼ばれるようなことがあって、何か一つ感動的な思い出でもと話を勧められたとしても、私には何も浮かんでは来ないのだろう。場を白けさせるのが関の山だ。地上で集合をかけられる時はいつもそうだったように、霊界でも後ろの隅の方で目立たず小さくなっているに違いない。快と苦の担い手である私の魂に私を委ねてしまっていたら、とっくの昔にこの道を踏み外していただろう。もちろん前にも記したように、Fの路程では出ていくことを考えない日がなかった程であり、後になって、事実一度は飛び出したことがある訳で、魂は神とサタンの間を常に揺れ動いていた。教会から距離を置いている多くの食口たちは、み言葉に躓いたのでも御父様に躓いたのでもなく、歩みの過程で味わされ魂に積み上げた感情をどうすることも出来ずにそうなっているのだと思う。自分を何とか正当化しなければ生きることもできないので、御父様や教会のあらさがしをせざるを得ない。しかし責められる事柄に事欠かない教会にも少なからず問題はあると思うが、全体の責任を負っている私であるなら他人事のように眺めてはおれないはずだ。もし教会に留まっているとしても眺めたままでいるなら、教会に距離を置いている兄弟とさして変わりはないだろう。私の信仰で留まっているのではなく、私の置かれた立場で為すべき事があるので留まっている。その使命が何であるかを魂の深みの先にある神霊に訪ねながら、はっきりと自覚して、使命に応えることのできる魂の在り様に変革させていかなければならない。私の魂が快と苦の担い手に留まることで良しとするのであれば、教会に留まる意味はない。み言葉を読み、祈りの中で御父様を口にする意味もない。

2011年8月7日日曜日

ナイアガラの滝 (1)

五十メートルの落差を毎秒六千トンの水量が落下し続ける。それを目にし続けたときに人間の魂はどういう反応を示すのか。ナイアガラの滝は成田からワシントン直通便の運航路線上に位置し、天気のいい日は上空の機内から見下ろせる。ワシントンから陸路をとると、ペンシルバニア州を北西に上ってエリー湖に出、エリー湖に沿うように北上していくと瀑布の水煙が見えてくる。片道七時間前後の運転だ。何処までもなだらかな丘陵と牧歌的景色が続き、ニューヨークへの道と比べて車の量も極端に少なく、長時間運転でもそんなに苦にはならない。今までに二回ほど往復したことがある。どちらも一泊しただけだが、トロントまで足を延ばすのでなければ滝の他はさして一見に値するものはなく、それで十分だ。世界中から観光客が押し寄せてしっかり観光地化しており、自然を満喫するというよりは企画されたアトラクションをこなして見学を終わる、というのが普通だろう。しかしそれだけなら、視覚に飛び込むものを魂の奥まで届けて、私に働きかける本質として受け取れるまでには至っていない。日本もいろんな滝があり、私の田舎にも三段峡があって幾つかの滝が見られる。前にも水の路程が人生の路程に重ね合わされると書いたことがあるが、水滴一つ一つの路程を人生と重ねるときに、滝の落差を駆け下り或いは飛び降りる覚悟と変化を強いられる、そんな運命的時があることを見ざるを得ない。人生に於いてそうであり、血統的流れに於いてもそうであり、更に人類歴史に於いても覚悟と変化を強いられ受け入れるべき時が必ずある。原理を知り、終末と新しい夜明けの時代を生きている自覚をもった食口であれば、その宇宙的歴史的流れの滝の一瞬の手前に人類がいることを、背筋が寒くなる程に感じるはずだ。世界的ナイアガラの滝に対する時、私は人類歴史的巨大な滝に、人類が飛び込む前後の様子を見せられているように感じる。その時は一瞬にして訪れる。まさかこの生活基盤、社会基盤が崩れることなど誰も思いもしなかったのが、目視出来なかった崖の淵を超えると全ての足場が一瞬で消え失せてしまう。そんな恐ろしい現実を目前に控えている。

2011年8月4日木曜日

今日の想い 352

ラスベガスに事業関係の責任者を呼ばれて叱咤され分別されたように、アラスカ、コディアックでも同じように事業関係の責任者に詰め寄られて分別された。ラスベガスの時にはまだ御名前を口に出されることはなく、取り囲みの者達のみを糾弾されたが、今回ははっきりとその御名前を口にされて指弾された。組織は組織として下は上に従う構造が既に出来ている。組織の運営権を握ったものが組織のオーナーの意に反した行動を取るなら、組織の構造上皆がオーナーの意に反することになる。オーナーは御父母様であって、それ故にその組織を発展させることが御父母様の願いに応えることと同意であった立場が、今はその組織の中に存在すること自体が御父母様の願いに反する立場となってしまった。ではその組織から抜け出すことだけが願いなのか、組織を通して積み上げてきた内外の財産を皆くれてやって飛び出せば御父様は喜ばれるのか。今、教会の中に、神様が天地を創造され反逆者が現れて地上の神となっていった経緯と同じものを見ている。これが御父様を実体の神様としていただく教会として必然なのかどうなのかはわからないが、どうすることもできないと静観するわけにもいかない。その組織に所属する食口達は、今の状態が続く限り反逆者に加担した立場から逃れることはできない。それぞれは自分に非があるとは誰も思っていないだろう。しかし自分に非がないから何もしなくていいとするなら、個人のことだけを思い全体のこと御父様のことは無視し続ける罪を我知らず重ねていくことになる。その組織からすぐ出るようにという指示が出るまでは、サタン側という汚名を戴いたままでも組織の中で戦うべきだろう。戦って取り戻すのでなければサタン側という汚名は消えることはない。はっきりしていることは教会側であれ反逆者側であれ、過去の自分の功罪の是非故に今の立場にいると捉えれば発展はないのであり、未来の栄光を先取りして超えるべく今の貶められた立場にいると捉えることで未来を創造していく。御父様は或る時点で急に全てを剥奪され、貶められた立場を強要される。全てを否定された痛みの立場を甘受させることで、個人的にも全体的にも、内的にも外的にも、次元を上げた創造過程に入っていく。それは御父様御自身が通ってこられた道であり、御母様にも強要された道であり、そして私達もその道を歩んでいく。地獄の底を舐めない者は御父様の息子娘として認定されることはない。

今日の想い 351

高原の南側に臥龍山というなだらかな山が横たわっている。下から見ればどこが山頂になるのか、二つ三つそれらしい頂があるので良くわからない。春ともなると山桜が咲いて山のあちこちが薄桃色に滲み、見る者の心を春色に染めてくれる。今では林道が頂上の手前の清水が湧き出るところまで敷いてあるので、車で二十分もあればそこに辿り着ける。帰省する度にブナ林の中の林道を軽で登って、雪霊水と仰々しく筆書きされた看板とは対照に、チョロチョロとしか流れない湧き清水を口にして帰ってくる。しかし小学校の高学年になるまで、この山に足を踏み入れることは一度もなかった。高学年の遠足で初めて山頂に上って降りてきたが、禁足の山を初めて制覇し、それまで何が住み着いているかわからない恐ろしさに怯えていた私は、やっと山の恐怖から少しだけ解放された。二年生か三年生の頃、教室の隅で休憩の間の雑談として神隠しの話が耳に入ってきた。村の誰かが神隠しにあったらしい。人々が見ている前で急に消えたのかと最初は思ったが、山から出てこないと言うことだった。その話から弐、参日経って、魂が抜けたような様子になって見つかったと言うことだ。神隠しと思ったようだけれども見つかってみれば、要するに狐に化かされた話だった。そんな話は学校でも、よく茶を飲みに来る大叔父の話の中にも、よく出てきた。だから山は恐ろしいところで、足を踏み入れてはならないと信じていた。糞団子を食べさせられたり、泥団子を食べさせられたりするらしく、見つかっても正気に戻るまで暫くかかるようだった。おそらく低級霊による霊現象だ。春の山菜取りの時期や秋のきのこ取りの時期にそんな話はあったので、腹を満たそうと軽い気持ちで山に深入りしてしまうとそんな目に会うらしい。山で首を括った話もよく耳にしていて、そんな素振りも見せなかったのにどうして、、と言うことになる。そうなると確かに山には何かが居るらしいことはわかる。数年前この山が全国的に有名になった。失踪事件があって結果、身体の部分部分がこの山から見つかった。きのこ取りに入って落ち葉を払いのけながら探しているうちに、転がっているのを見つけたらしい。子供の頃の話から暫く山に関わるその手の話はとんと聞かなかったから、科学万能の時代に入って影を薄めたのかと思ったが、その事件は魂を食(は)み血を求める地の霊が未だに健在しているのを見せ付けられたようだった。

2011年8月2日火曜日

今日の想い 350

人間はこの地上界という元素界、生命界、欲界、精神界など、あらゆる世界が絡み合うように存在している地上で、それらの全ての要素を、取りこんだり、放出したりして地上生を送っている。元素で出来ている自分であり、元素を取り込み排出している認識を持っているし、と同時に消化吸収しながら代謝という生命界の要素を取り込み燃焼させて活動している認識も持っている。しかしそれが心魂界や精神界の要素認識となると、とたんに意識に霧が覆っているように認識が曖昧になってくる。自分のなかに欲があることは、欲界は心魂界の低次の部分なので、他の心魂的なものよりいくらか認識しやすい。人間が自分の中に欲を覚えるとき、それは欲界から欲の要素を取り込むことで欲を覚えている。低次の霊性を備えれば、ある状況で欲の要素が体の中に流れ込む様子を見るだろう。欲望として私の中に熱いものを感じるのはその経過であり結果でもあるが、欲の要素が渦巻く世界を見るようになれば、ルーシェルの影響もありありとそこに見ることができるだろう。私の堕落性があり、それに引き込まれるように欲の要素が流れ込んでくる。人間の心魂が住む世界は欲界であったり悟性界であったり、その中で知情意という魂の活動を為してはいるけれど、み言葉を悟性という魂活動に委ねてしまって、すなわち自分の思考判断でみ言葉を推し量ろうとするならみ言葉の本質には入っていけない。神霊から届くみ言葉でありながら心魂のステージに引き下ろして料理するのは間違っている。もしあなたが霊的なことを真に理解しているなら、自分の思考がどんな霊的背後を持っているか解かっているはずだ。自分の思考だけにみ言葉の判断や御父様の判断を委ねるなら、たとえ賛同的であったとしても霊の本質に繋がることはなく、自分の思考に自分が躓く落とし穴が待ち受けている。