2011年12月29日木曜日

神とサタンが見守る本当の証しの場

私達にとって真の父母は何にも代え難い。真の父母の価値をどれだけ理解し、認識しているかと問われると答えられないが、全ての財産と真の父母とどちらを選ぶかと言われれば、真の父母を選ぶ。私の生命と真の父母のどちらを選ぶかと言われても、真の父母を選ぶ。もちろん出すだけ出してきた為に財産と言えるほど持ち合わせてはいないので、前者の問いは意味を為さないかも知れないが、、。しかし全てを投げ打ってでも代え難い真の父母だという認識は、食口であれば誰でも持っているだろう。しかし口にするだけなら誰でも言えるし何とでも言える。口にしたのなら私と言う実体をしてその証しを立てない限り、私の中のサタンはいつまでも讒訴し続けるだろう。心の中に常に、本当にそうかと疑いの目で囁き続けるサタンの存在が居座っていて、黙らせることができないでいる。証しのその場で必ず化けの皮が剥がれ、やっぱりお前はサタンの子だったと手を叩いて笑い転げる場面を想像しながら、その時を待ち焦がれている存在が私の中にいる。私の中にいるその存在を黙らせ追い出させる為には、その証しの場がどうしても私にとって必要であることは否めない。ヤコブが天使と戦い命からがら勝利した、その証しの場。イエス様が十字架につけられて死を体験され、犠牲の勝利でもって復活された、その証しの場。私を中心とした霊肉の戦いの頂上決戦という関門が、私が生きて歩む途上で必ずある。その時とその場が、証しの場になるのか審判の場になるのか。それは神とサタンが見守る中で、私自身が行動して決めることだ。御父様に大きな負債を覚えている者は、その証しの場を負債の払える場として喜びで迎えるだろう。逆にそれなりの信仰を立ててきたと自負する者は、逆に審判の場になるかも知れない。後の者が先になり、先の者が後になると本当に納得できるのは、まさに証しのその場でのことかも知れない。

大雪の故郷を想って、

日本は寒波の影響か日本海側は大雪だ。去年の冬が大雪だったので今年は暖冬に落ち着くのかと思いきや、そうでもないらしい。ネットの流すニュースで情報を得ると直ぐにも田舎に電話した。ファックスに転送される直前で呼び出し音が止まり、やっと親父が出てきて気の抜けた声で返事をした。様子を聞くと既に一メートルは積もり、まだ進行中だ。明日の朝までは止みそうにないらしい。西日本でありながら豪雪地帯並みに雪はよく降る。当地の人間は毎年のことで慣れていて、特に心配するでもなく、なるようになると暮らしているのだが、遠くにいると古い家が耐えられるかどうかの心配もさることながら、雪かきの重労働を年寄りに負わすことも心配だ。ここ四、五年積雪量は増してきたけれど、それまでは私が子供の時分と比べて随分少なくなっていた。昭和三十八年の豪雪の年は4メートルを越える積雪があったので、ここ数年積雪が増していったと言ってもその時の比ではない。家の心配や食料の心配が先に立つ大人は、後から後から降りてくる雪空を見上げて恨んだだろうが、子供は雪が大好きだ。雪が降り続くことを願ったし、家を被うほど雪が降り積もって欲しいと思った。勿論積雪の為の臨時休校を願ったわけでもあるが、、。雪化粧だとか、雪景色というような雪を情緒的に受け取れば、雪が内面を豊かにしてくれるけれど、積雪何メートルだとか大変な雪かきを思えば、雪はただの白い厄介物でしかない。私がどこに重心を置いて主体としての位置に立っているかで、客体はその顔を変える。子供の頃のような純真な気持ちに返ることも大切なのかも知れないが、私は大人に成長することで内面の豊かさは深みを増せるものだと思っている。子供の頃はただ情緒的に受け取っていたが、成長することで客体としての自然に対して内的に働きかけることができる。すなわち受け取るだけではなく与える。自然に対して与えて働きかける。自然の母性といえる愛を受け取るだけではなく、自然に対して主体である私から愛する。愛を与える。万物に対して、役に立つとか立たないとかの冷たい態度を当然のように取っていたが、これから全ての万物に対して私はどう愛していこうかという態度で接すれば、自然も万物もその顔を変え、閉ざしていた心を次第に開いて多くを語ってくれるはずだ。むかし聖フランシスコの映画、BROTHER SUN SISTER MOONを見に行ったことがある。その主題歌は強く印象に残っているが、映画そのものは退屈だとしか思わなかった。その頃は愛するという意味の只の一つも理解してはいなかった。この年になってやっと、自然を愛することに身を捧げた彼の想いが少しは理解できる。故郷の雪は私の多くの内的部分を育ててくれて、雪が祝福の象徴であることが私にはよくわかる。雪景色の故郷は暖かい。しかし、、それでも雪かきはやっぱり大変だ。

2011年12月28日水曜日

自由という翼

確かに人間は自由という翼を与えられている。しかし自由の意味するところを知らないように、翼として用いることを知らないでいる。感覚世界のあらゆる感覚的快楽を貪ることを、私に与えられた自由だと思っているけれど、それは自由の翼でも何でもなく、感覚世界のみに繋がれてがんじがらめにされているだけのことだ。霊的に見るなら、感覚世界に溺れて精神の高み、霊的高みを見失っている。私達が、アダムエバ問題を起こした兄弟を指して堕落してしまったと言ったり、離れた兄弟を指して落ちたと言うように、それは高みを目指して羽ばたいていた自らの翼を挫いたことを意味している。天使長ルーシェルの翼は、神様によって折られたのではなく自らの意志で翼を折った。神様がすぐそばに居られることに耐えきれず、自分で自分の翼を折って地に下ってしまった。目が開けて自由を享受できるとエバを誘い、霊的自由の翼を自ら折って地上の感覚享受へエバを抱えて引導した。天を羽ばたく龍だった天使長は、羽を折って地の蛇に身を落とした。本来の自由としての翼を奪われ、幻想である偽りの自由を抱えて、ルーシェルの子孫達は地上に満ちていった。真の御父様を地上に戴いた、自由という観点からの意味は、霊的自由の翼を取り戻すべく人類を本然の姿に生まれ変わらせる為だ。御父様の心情圏に人類が入っていって、その心情世界を飛び回る為には自由の翼が必要だ。十二の真珠門を超えて十二の心情世界を飛び回る。人は愛することで本来の自由を手に入れる。愛せないものを愛そうとし、自己中心の愛を犠牲にして為に生きることで、私を中心とした真の愛の心情世界を開拓しながら、霊的には本来の自由を取り返している。自由という翼を取り戻した霊界で、高ければどこまでも高く、深ければどこまでも深く、東西南北遥か彼方まで瞬時に移動しながら、神様の創造の御業を賛美し続ける。

2011年12月25日日曜日

霊的戦い

私の基本の戦いは、不信との戦いであり、思い込みとの戦いであり、まだ見えぬものを見ようとする戦い、認識できないものを認識しようとする戦いだ。内的霊的無知に陥った人間は内的霊的知への飽くなき追求が無ければ、内的霊的知への強い憧れが無ければ、それを獲得することはできない。私は御父様が今までの生涯を通して語られたその膨大なみ言葉を、ただ自然に流れるままに、当然のように、天の啓示として受け取られたものだとは思わない。勿論その素質は備えておられたとしても、それでも今日までの歴史上誰も現せなかった真理のみ言葉として、そのひとつひとつを勝ち取られた歩みは戦い以外の何ものでもなく、勝ち取られたという表現がまさに言い得ている。私たちは余りにも容易にみ言葉に出会ってしまった。原理のみ言葉が正しいか正しくないかというような上からの目線で対してきたが、当時の劉協会長が感激の涙を流され続けながら原理講論を執筆されたように、それほどの重みを魂に覚えて激しく振動するほどの出会いを私達は為すべきだった。ヤコブがエソウを屈服できたのは、腿のツガイを砕かれてまでも天使との相撲に勝利して、霊界の協助を得た為に屈服できたのであり、私達はどんな形であっても霊的存在からの試練に勝利しなければ霊界の協助を得ることは出来ないし、私に誰ひとり屈服しない。御父様が真理を見出される過程で、億万のサタンと言う霊的存在との戦いに勝利され、更に実体で勝利されたがゆえに、み言葉が全くの条件の無い私達に手渡され、御父様の勝利圏を相続させようとされておられる。しかし受け取る私達は、御父様の試練の何万分の一であっても霊的試練を乗り越える必要がある。私達は、私と言う戦場で霊的な戦いをしているその只中にあるということを片時も忘れてはならない。霊的な観点から見れば、見るも無残な敗戦の毎日の屍が、私の背後に累々と横たわっている。感覚世界に重心を置けば見る観点をぼやかされ、霊的な眠りについたままでいて何ら変わらない毎日が続いているように思えるけれど、私と言う戦場で熾烈な戦いの日々であり、身体を横たえた眠りの場で戦勝報告や敗戦のツケが勘定されている。訓読生活に重点を置いて歩んでいる兄弟であるなら、み言葉が光となり私を中心として生起する内外の事柄をみ言葉で照らして、戦うべき戦況をしっかり把握主管し、無意識のうちにスルーして屍を積み重ねないことだ。これが私の天使との戦い(霊的戦い)だと自覚させられるものが自分に無いなら、それは未だ霊的に眠ったままの私でいると思った方がいい。

2011年12月23日金曜日

愛の呼吸

幾重にも幾重にも階層を経ながら霊的な高みを目指し、その遥か高みに天の御父様がおられる。そう納得しているのは僅かの人間のみで、とりわけ多くの日本人は感覚世界の、それも極めて限られた部分の存在領域しか認識していない。人は認識する領域以外では生きることはできない。地上という最下層の世界は、見上げればすぐにも、厚く黒い雲のように地上を覆っている霊界との障壁があって、地上人間は雲の向こうに広がる広大で深遠な霊界を感知できないどころか、その存在すら認めようとはしない。認識できなければその領域に投げ出されても呼吸できない。人は必ず死ぬ。死んで霊界に投げ出される。投げ出されても呼吸ができない為にその広大で深遠な霊的生活を味わい楽しむことはできない。呼吸はできないが、かといって肉体を持たない為に地上へ逃げ出すこともできず、地上的な呼吸に最も近い呼吸の辛うじて通ずる幽界にへばり付くことになる。霊界で霊的生活に必要な最低限の呼吸を会得するまで、どれ程の歳月を要することか。さらに皮膚を隔てた私の外部だと当然のように思っていて、汚すだけ汚し痛めるだけ痛めて自分勝手好き放題に扱ってきた外側が全て私自信になり、霊界では逆に私自身を汚すだけ汚され、痛めるだけ痛められている。霊界は内側が外になり、外が内側になる。万物を愛し人を愛し、与えて為に生きる喜びを覚えながら、実は愛の呼吸を学んでいる。愛として吐き出せば新鮮な愛として吸うものがある。深呼吸のように息をしっかり吐き出せば新鮮な空気をしっかり吸えるように、与えることに躊躇を覚えず愛の限りを尽くせば、神様の新鮮な愛が溢れるほどに満たされるのは宇宙の道理だ。地上で生きる為の呼吸は一通りだけれど、霊界で生活する愛の呼吸は一通りではない。天国といえる霊界の高みでの呼吸は、国を愛し世界を愛し神様を愛する愛の呼吸を学ばなければ、霊界で御父様の御側で侍っても息苦しいだけだろう。霊界にははっきりとした位階がある。その位階は愛の位階であって、私が何の為に生きたかでその位階は決まる。何をされたとしても、どんな扱いを受けたとしても御父様を慕い侍って行こうとする私達統一食口は、御父様が愛の勝利者であり愛の完成者であることを信じて疑わない。御父様の高みである天国、本郷の地は、まさしく霊的乳と蜜が流れ愛が充満している世界だ。御父様の存在の全てから、その愛の一息でも呼吸しようとし、真の愛の蜜の味の僅かでも鼻腔に味わうために愛の触手をひたすら伸ばそうとしている。

2011年12月20日火曜日

御父様との本質的な繋がりを考える

私達は今地上に生きることで、生きた御父様と同じ空間、同じ時間を共有しているから、その感覚的事実をもって満足しがちだけれど、感覚的にだけ受け取った事柄はこの地上を去る時にその大半を失ってしまう。正しくも確かな御父様との出会いは感覚的地上的なものではなく、内的霊的に出会い、内的霊的な関わりをもって初めて永遠であり絶対である本質に足を踏み入れる。多くの食口達はこう思っているだろう。私が地上を去る前に先ず御父様が地上を去られる。御父様が地上を去られた後、私は御父様とどう関わっていくのだろうか。この思いは御父様との本質の出会いに足を踏み入れた者の思いとして正しいだろうか。それは感覚的地上的な認識に重心を置いている者の思いであって、そういう者達の内的霊的な思いはどうかと言うと、未だ御父様に明確な目覚めた意識で出会ってすらいない、内的霊的にやっと目覚めようとしていると言うことができる。御父様がどれほど教本教材を強調され、訓読を重要視され、その御本を愛しもし侍りもされるのは、み言葉を通してしか内的霊的に御父様に出会えないし、み言葉を通してしか内的霊的に関われない。この肉体を失っても、この思考や感情を司る心魂を失っても、それでも残るものしか最終的に霊界に持ち込めるものはない。御父母様の御聖婚式を一年先に控えている。私が内的霊的にどんな意識段階でその日その時を迎えようとしているのか。ゲッセマネで眠りこけた弟子たちと同じ過ちを犯さないように、せめて意識の目覚めを果たして迎えなければ一生どころか未来永劫の悔いとして残るかも知れない。み言葉によらなければ私達は生まれ変われない。み言葉によらなければ御父様の骨髄の中に入っていけない。み言葉によらなければ芽継ぎ(接ぎ木)が芽継ぎとして働かない。み言葉を愛し、み言葉に侍り、意識革命、心情革命、そして良心革命を私の心魂世界で果たしていく。それでこそ私の中で御父様が生きて働いておられると断言できる。

2011年12月19日月曜日

愛勝日を考える

興進様が大変だった時、御父様は涙を一滴も流されなかった。その意味を私達は本当に理解しているだろうか。ただひたすら悲しみに耐えられたと言うような、そんな私達の愛への狭い理解によってしか想像できない事柄とは次元が異なる。そこには壮大な天宙という環境圏で、愛の主体に立たれたという歴史的天宙的な出来事として為され、サタンの裏を完全にかいて為された神側の大勝利だった。人は病気になって喜ぶ人はいない。家族のひとりを失って平然としていられる人もいない。それなりの健康を維持しているということは体に於けるプラスマイナスが平衡を保っていると言え、その平衡を欠いた時病気になる。家族のひとりを失うということは、「家庭の平安」というプラスマイナスの平衡していた存在が、プラスであれマイナスであれ大きく欠けてしまって平衡を失い家庭的不具となってしまい、保護すべき宇宙力が逆に宇宙から押し出そうとして働く為に心が裂けるほどの痛みを感じる。最も期待を受けておられた御子女様を失うということは、真の家庭にとって大きく平衡を失う最大の事件だった。神側にとって愛と理想の希望体を失えば、宇宙力が強烈に追い出そうとして働くことを知っているサタンは、神側を大きく後退させる、あわよくば救いの摂理自体を崩壊させるサタン側の勝利を確信していた。しかし御父様は愛を、サタンが愛として理解できる範疇を超えた愛でもって主管され昇華されるという、サタンの手の届かない愛の環境圏にサタンを引き摺りだされた。興進様を失う多大なマイナス状況を、私達が霊界の勝利者となり人類が救われる次元に引き上げられて、天宙的なプラス状況をひきつけられた。私達にとって、私達が活動できる天宙的愛の基盤を創造されたと言ってもいいかも知れない。不遜な地上の見方からすれば、愛する子女の肉体をサタンに売ってサタンの愛する人類を買ったとも言える。その歴史的奇跡とも言える天宙的勝利の出来事が、涙を一滴も流されない御父様の体を中心として起こった。目の前の子女を失う悲しみより、私達を愛し、私達を霊界の勝利者とされる喜びを心魂に満たされる御父様と、そして愛されない悲しみより父の想いをそのまま受け取って逝かれる興進様。人類の救いに対する完全犠牲が父子一体の位置で為された。愛勝日として立てられたその勝利の意味を、統一食口であれば少しでも深く理解して、理解すればするほどに涙を禁じ得ないし、感謝に堪えない私を見るだろう。

2011年12月17日土曜日

今日の想い 380

使徒達が、捕らえられていくイエス様の元を去っていったように、生きたイエス様と共にある時には彼らは本当のキリスト認識をイエス様に対して持ってはいなかった。しかし復活されたイエス様に会うことで初めて、彼らの中にキリスト認識が目覚めさせられた。その明らかな使徒達の内的霊的違いを、新約聖書の中に見ることができるし、生きたイエス様に従っているうちに使徒達がキリスト認識に至ったならば、十字架の摂理は避けることができたとも思え、一方で十字架の摂理を通してこそ使徒達にキリスト認識がもたらされたとも思える。最終的に十字架という大きな代償を払うことで、復活のイエス様を通してキリスト認識がもたらされたと言うことだ。キリスト論で言うところの三位一体、神と霊的イエスと聖霊が合成一体となって使徒達に霊的重生がもたらされたが、そこにはキリスト認識をステージとして聖霊の働きが為され、使徒達の重生がもたらされるのであって、キリスト認識に目覚めなければ重生のステージは用意されない。使徒たちが生きたイエス様に触れている間は、人間イエス様としての認識から離れられないものが霊的かぎ針のようにひっかけられた形で残っていた。それは洗礼ヨハネの不信から来るものであり、また洗礼ヨハネの不信がなければ弟子として下層の使徒達が集められることもなかったはずだ。だから既に下層の使徒達を集められた時点で、十字架の摂理に加担せざるを得ない部分も使徒達の中に組み入れられていた。ペテロヤコブヨハネを連れてゲッセマネで祈られた時は、人間イエスの彼らの認識を外して神の子キリストとしての認識に目覚めさせ、一体となることで最後の本丸を護らせようとされたが、彼らは眠りに墜ちたまま、即ちキリスト認識に目覚めないまま十字架の摂理に組み入れられた使徒達のプロセス通りを踏んでいった。そうして一体圏が為されずに用意された裏切り者が近付いてきた。神側の最後の砦ともいえる神とサタンとの間の熾烈な攻防を、ゲッセマネのイエス様と三弟子との一幕に見ることができる。その神とサタンの攻防戦が私の内的路程にも再現されていることがわからなければ、私のキリスト認識、即ち御父母様に対する真の父母認識は人間的なものから離れることはない。一時はイエス様の問いに対して弟子の一人がイエス様を神の子であるとはっきり証ししたにも拘らず、それは言葉だけで本当のキリスト認識には至っていなかった。兄弟達も御父母様に対して真の父母であると言う認識を持っている自負があるはずだ。しかしそれが生命を超えるほどの、御父様が認知する確かな認識かという問いは常に自分の中で繰り返されなければならない。そしてその認識を、私の人生というステージを用意されて演じている。誰が用意せずとも歴史の結実体としての私が、堕落から、神の子への否定から、神の子への裏切りから、さらに十字架へ追いやった全てを私の内なる中に抱えて、その上で御父様をどう認識するかという御父様への結論を演じている。

2011年12月15日木曜日

万王の王

イエス様が地上に来られた意味、十字架の摂理が為された意味、そして復活の摂理へと繋がれた意味を、その当時は殆ど理解されてはいない。理解の為にどれだけの時間が必要とされたかというと、再臨の時までの2000年の期間であり、この間の苦悶の歴史が理解する為に必要だった。今の私達食口が、御父様を真の父母だと理解する同じ基準を人類全てに願いはしても、それには段階があることを踏まえなければならない。イエス様当時、イエス様を理解するその理解の仕方にやはり段階があった。ひとつは弟子達の理解であり、弟子達はイエス様を神の子として理解していたが、その同じ基準をユダヤ人全体に求めることは為されなかった。ユダヤ人全体の理解として求められたのは、ダビデの家系から出てくるユダヤの王、救世主(メシヤ)としての理解だった。これがイエス様を一段低く、裾野を広めて理解する第二の段階だ。そして更に一段低く、裾野を世界的に広めて理解する第三の理解の基準があったはずだが、イエス様を十字架につけてしまい世界的裾野にまで至らなかったので復活に拠る霊的摂理に負わざるを得なかった。ローマを制すれば世界を制すとあるように当時ローマは事実上の世界そのものだった。イエス様がローマの王として立たれれば再臨の摂理へと延長されることはなかったはずだが、唯一ローマとの関わりは裁きの場での総督ピラトとの対面に限られている。御父様の理解に於ける現代の段階は、ひとつは祝福中心家庭の理解である真の父母としての理解であり、第二はキリスト教を中心とする宗教界の理解である再臨主、救い主としての理解、そしで第三は人類としての世界に裾野を広めた理解として万王の王という言葉を使っておられる。大統領であろうが国家主席であろうが国家権力を握った王に違いはない。今は国家間の相互関係なしには国家の維持はできないが、もはや今の国家相互システムは立ち行かなくなっている。辛うじてその体を維持しているとも思われるが、皮膚の下の国家経済、世界経済という血流は薄められすぎて既に役立たずだ。ファンドによる莫大な量的回転で誤魔化されているだけで、何かの加減でストップすれば一瞬で世界経済は倒れてしまう。その危機的状況を味わう時、世界を収拾する存在を世界は求めざるを得ないし、その時万王の王という言葉は世界を駆け巡っていく。

2011年12月13日火曜日

心情を中心とした感情世界

百花繚乱という表現があるが、思春期の感情世界はまさに色とりどりの花々が咲き乱れる。特に相対の性である異性への関心が深まるにつれて、感情の花々は色濃く咲きその芳香を強く漂わせる。誰もがその花々に埋もれて魅惑の色に染まり、その香りに酔いたいという衝動にかられてしまう。若者達が耳にする多くの歌は、その殆どが色彩や香り溢れる、異性への想いとしての感情の花々が咲く歌だ。淡い色の歌もあり原色に近い激しい恋の歌もある。切なくも甘酸っぱい恋の歌もあれば妖艶な色香漂う歌もある。その現実的な魅惑を前にして、すくなくとも感情を刺激するものではなかった、味気なさの漂う感情世界の背後にあるものを求めようとするのは、変わり者になれと言うに等しい。確かに私達食口は、自分を見ても周りを見ても変わり者の集まりだった。一世たちは変わり者の集まりだとしても、二世たちはそうはいかない。変わり者であれば感情世界を無視して、容易に霊的なものへの価値を見出そうとするだろう。しかし心情の味わいは感情世界に於いて花開くものであり、感情世界を無視し否定するなら地上的生命を受け取る意味は無いはずだ。天使世界を創造されればそれで済むことだろう。サタンを中心とした堕落した感情世界が問題であって、本来の神様を中心とした感情世界は、堕落的なそれとは比べ物にならない多様性と広がりが色彩に於いても、香りに於いても見られるはずだ。真のアダムに接木して血統転換することで、堕落人間に抜け落ちていた内的霊的感性を芽生えさせ、堕落的な感情世界ではない新たな感情世界が、神様に直結する心情を中心として花開くのは当然だ。根源の違う二世たちであれば、その秘めたる自らの使命を明らかにしながら、心情文化、統一文化への貢献をきっと為していってくれるに違いない。堕落的な感情世界を大きく包み込みながら昇華させて、誰もがその新しい色彩と芳香に新鮮さと神聖さを感じ、ミツバチが群がるように吸い寄せられてくるだろう。やもすれば一世は二世たちの触れるもの全てに、神経を擦り減らすことしきりだけれど、確かに堕落的なものが全ての触れるものに混入されているから心配もするが、それでも彼らを信じて任せることも一世の責任だ。堕落的感情世界に引き込まれて妥協するのではなく、既存の世界から引き出して真の愛が関与する文化に昇華させる力を二世たちは与えられている。

2011年12月12日月曜日

タイタニック号の話を思い出す

子供の頃タイタニック号の話を読んだことがあって、何故か急に記憶の底から浮かび上がり、その時の情景が蘇った。小学館の雑誌だと思うが、濃紺のインクで挿絵やルビの付いた文章を、ザラバン紙をめくりながら読み進めた。当時、雑誌を買ってもらったのは正月に限られていたから、暮れに買ってもらった雑誌を見ないように取っておいて、正月にわくわくしながら彩(いろどり)溢れる頁をめくったものだ。タイタニック号の話は色刷りではなかったからさして子供の興味を引くものではなく、見るところがなくなって最後に目を通した個所だったとは思うが、読後の印象が特に強かったのを覚えている。乗客が少しでも安らいで落ち着けるように、最後まで沈んでいく船で演奏し続けた船の楽団員達の様子や、避難することなど思いもせず、笑みさえも浮かべて船と共に沈んでいった船長を始めとする乗組員達の様子。その姿を美しいと思えるのではなく、犠牲になろうとする不可解さが子供には怖かった。どうしてそんな心境になれるのかという強烈な疑問だった。今その話をひも解いてみると、彼らの心境はよくわかる。沈んでいく船の上では乗客よりは乗組員の方が圧倒的に幸福だったはずだ。仕事とは言っても船の上では公的な立場である彼らは、自分の心配をする前に乗客を心配するよう自然と仕向けられていた。誇りすら感じていた彼らは、死の間際で為に生きる自分を生き、人間本来の為に生きる喜びを味わったはずだ。公的な位置にいるという認識が彼らの意識を高めて、乗客達の死を恐れて逃げ惑う意識とは真反対だった。兄弟達に於いても、自分は公的な存在だという認識がどれほど強いかによって、試練が訪れたとき、意識も違い、立ち位置も違い、試練や犠牲や死に対面するときの感情も異なるのだろう。傍目から見れば信じた者の愚かさとしか映らない我々の姿であっても、誇りや感謝や歓びや、もろもろの愛の心情に溢れて、私という存在を生きることを腹いっぱい味わっている。

良心革命

良心は父母に優り、良心は師に優る。ここまでであれば頷いて聞ける範囲だけれども、御父様が三番目に言われる良心は神様に優るというのは、宗教者にして見れば聞き捨てならない言葉だろう。おそらくそんな言葉が出てくること事態予期していないので、反論はおろか呆気に取られて開いた口が塞がらないほどの衝撃的な言葉に違いない。そんな意味でも御父様は宗教を超えていて、超宗教超科学の位置に立っておられる。御父様が今日までの歩みで勝利を築いてこられたのは良心の故であり、良心の声に従うことで難しくも複雑な御父様の使命的歩みを越えてこられた。御父様が御自身の歩みで身を持って実証した哲学として、この三大主体思想、特に三つ目の良心は神様に優るというのを断言しておられる。御父様は真理を見出される過程で神様も最初は否定されたと言うようなことを話しておられる。サタンはおろか神様までも否定される真実を、それでも敢えて真実であると神様に迫ることができたのはどうしてか。神様に否定されても迫ると言うのは普通に考えればおかしい。しかし御父様の良心が否定されて引き下がることを許さなかったのであり、そこには御父様の良心の声に従う姿が如実に見えて、良心は神様に優るという言葉を私に十分納得させる。勿論あくまで良心基準が立った者が言える言葉であって、自分の中に主体的な良心をはっきりと見出して立たずには、良心的な気分をして良心とは言えない。御父様の良心革命という言葉には、革命という言葉をして、良心的な気分ではなく明確な良心を見出せという天の指示を私達に示しておられる。人間としてこの地上に生まれた以上、私が果たすべき公的な使命を担って生まれている。私の良心はその使命を知っていて良心に問えば分かるし、良心は使命完遂の羅針盤でもある。私という船は良心という羅針盤をして目的地である使命完成に向かっている。

2011年12月11日日曜日

マルコ伝十四章の教え

マルコ伝14章にあるベタニヤの女の話のすぐ後に続いているのが、ユダの裏切りの話だ。実はこれは意図的に隣り合わせて表記することで、読む者に教えようとしている深い事柄がある。どちらの話も金銭を関わらすことでその対比がなされている。一方のベタニヤの女の話は、貧乏人への施しを犠牲にして、三百デナリ以上の価値の香油を地上的な価値のない行動に費やす話であり、それに続く今一方のユダの裏切りの話は、地上的な価値を超えた内的霊的価値であるイエスキリストを、銀三十枚で売って地上的な価値に交換するユダの裏切りの話だ。地上的な価値を天に積むことのできる宝に昇華させた話と、天的な価値を地上の消え失せる価値に引き摺り下ろした話だと言い換えることもできる。私達は真の父母の価値が地上的な価値では量れないことをよく知っている。それでは御父様が願われるみ旨の価値はどうだろうか。み旨の価値もそこに御父様の願いがあり意志がある以上、その価値も同じように地上的な価値では量れない。今まで果たせなかったみ旨に費やしたお金の総額を貧しい国に施していたら、相当な社会的貢献が為されたはずだ、、と言うようなもの言いをする者がいる。要するに献金は世間が認めて見えもするまともな地上的な価値に用いられるべきだと言っている。内的霊的なことに対しても用いられるべきだけれども程度の問題だと言っている部類も同類だ。それはベタニヤの女を非難した周りの人々と同じであり、更にユダの裏切りへと話が続くように、非難した者の延長線上にユダと同じ裏切りが潜んで待ち構えている。一度非難を始めると非難の拍車に油が注がれる。そしていつの間にか銀貨三十枚で売った裏切りに手を伸ばせば届き、そして手を染めていく。そして手を染めてしまって良心の呵責を痛いほどに覚え、その時初めてサタンに巧妙に操られていた自分だったと目が覚める。ユダは目が覚めた。目が覚めて仕出かした事の重大さに、良心の叫びに耐えられなかった。耐えられなくて最後の行動を起こした。

2011年12月10日土曜日

今日の想い 379

師走とは言えないほど暖かい日が続いている。皆この暖かいうちにと思っているのか、クリスマスショッピングの買い物客で車が多い。日頃は運転しないペーパードライバー達が、必要に駆られて繰り出してくるので尚更道路は混雑する。前方ののろのろ運転の車の運転席に人らしきものが確認されないので、良く見てみたら、高齢のために身体が小さくなって縮こまったお婆さんが天を仰ぐように顎を上げ、辛うじて視線を前方のフロントガラスに確保して運転している。隣に車がいようがいまいが車線変更も右折も左折も思いのままで、周りの車は諦めて警笛を鳴らすでもなく、避けるようにしながら追い越している。このお婆さんが車で外に出るのを誰も止めなかったのだろうかと最初は思ったが、無理を押し通せば何とかなるものなのだろうと思わされて微笑んでしまった。意外と本人は運転なら任せておけぐらいに思っているのかも知れない。確かに顔を上に向けているので信号だけははっきりわかるらしく、黄色になった時点でちゃんと減速して止まっている。アメリカは車社会なので車がないと非常に不便だ。歩くのに難儀する高齢者なら尚更だろう。独り身になっても子供が世話してくれる訳でもなく、死ぬまで自分のことは自分でやらないと生活できない社会なのでこんな光景もさして珍しくは無い。概して高齢になり、連れあいもいなくなって孤独な老人になると、生活弱者となった我が身を痛いほど感じるのだろう。多くの高齢者は獣の中を歩くようにひるむまいとして構えていてその表情は固くなっている。為に生きる愛の世界ではなく、弱肉強食の世界に縛り付けられて惨めな余生を生きている。別にアメリカに限ったことではない日本だって孤独老人の問題は大きいが、日本でこそ自分のことで精一杯でそれどころではないと後回しにされている。祖父母を蔑(ないがし)ろにすることは過去を蔑ろにすることであり、過去は霊界に繋がり霊界は天国に繋がる。家庭に祖父母がいなければ後孫は霊的なものが塞がれてしまい、内的霊的な価値を見出しにくくなる。家庭理想をしっかりと掲げ、祖父母の位置、父母の位置、そして子供と後孫の位置を本来の位置として取り戻すと、家庭という木が正しく成長していく。

2011年12月7日水曜日

畏れを失った日本

み言葉を聞いたことがない者達だけでなく、み言葉を一度は聞いて受け入れた者達の中にも御父様を恐れない者もいる。恐れるという表記は、強者に対する弱者の避けて逃げる負の印象が色濃くあるので、畏敬の意味での畏れるという言葉を使わないと誤解されやすいかも知れない。しかし恐れと畏れの違いが今の日本人にわかるだろうか。日本人の中に、畏敬の感情といったものを理解せず、畏敬という言葉を捨ててしまったのはいつ頃からだろうか。霊界にははっきりとした位階があるので、この畏敬の感情や畏怖の念を理解できない者は霊界の実相を捉えられない。み言葉を通して霊界の存在を信じる者であっても、地上と同じ別の空間が存在するくらいの認識に留まり、霊界の実相を捉え実感するには至らない。自分には霊感があるという者でも極めて平面的一面的であり、臥して地上面だけを見ながら暮らしているようなもので、そんな下手な霊感はかえって誤った霊界認識を持つ為にない方がいい。聖書が霊的な言葉であるように、論理的に書かれていても原理講論も霊的な言葉だ。それを平面的一面的にだけ捉えてわかったようなつもりでいる。その深みを尋ねようとしない者、即ち畏敬の感情や畏怖の念を失った者達はその価値を認識できない。よって言葉を別様に、自分の理解に合わせて捉え、あらゆる的外れな批判が飛び出してくる。日本には、様々な宗教とは言えない宗教も含めて宗教は多々あるが、宗教人口は少ない。それは進化論を始めとする唯物主義が席巻して、宗教は弱い者、理性のない者が関わる如何わしいものだと捉えており、宗教そのものを見下しているからだ。物質的な繁栄に押されて畏敬の感情、畏怖の念を捨ててしまった。徹底して打たれなければこの民族この国は目が覚めないのかと、悔しい思いは何とも仕様がないが、日本食口が十人の正しい者となって今日まで護られてきた。しかし御父様が入国できるかどうかが決め手であり、D-DAYを決定された以上日本に対する摂理の延長はないだろう。み言葉を一度は受け入れたが御父様を畏れない者達はこう言う。「日本は滅びる滅びると言いながら未だに滅びていない。そうやって脅しながら巻き上げているのが教会だ。」と、、。滅びるのをこの目で見たいかのような言動は、死刑囚が死刑になるその時を待ち焦がれてでもいるかのように、その無知さと他人事に目も当てられない。

2011年12月6日火曜日

良心についてさらに考えてみる

御父様が語られる良心を、道徳心と同じ扱いで認識すべきではないだろう。良心は神様が直接に働きかけられる部分であり、この世の一般的道徳に従う良心を指して言っておられるのではない。道徳心と良心(良神)の違いを見事に描いた聖書の個所がある。それはマルコ伝14章に出てくるベタニヤの女の話だ。ひとりの女が非常に高価なナルドの香油をイエス様の頭に注ぎかけた。人々は三百デナリ以上にもなる香油を売れば貧しい人達に施せるのにどうして無駄にするのかと言って女を咎めたが、イエス様は人々に対して、いつも一緒にはいない私に対して出来る限りの良いことをしたのにどうして女を困らせるのかと言われた。女は良心の声に従ったのであり、人々は女の行為を通常の道徳心をもって判断した。彼らの生活背景をしっかりとイメージしてこの情景を見なければならない。決して経済的に楽な状態ではなかったし、持ち合わせの殆どを施されながら活動しておられた。その状況でイエス様の周りの人々の女に対する咎めは至極当然であった。イエス様は、この女はあらかじめ葬りの用意をしてくれたのだと女の行動を説明されておられるが、おそらくこの女はそこまでの思慮を働かせての行為ではなかったはずだ。人々から、或いはイエス様からさえも咎められるであろう行動を敢えて取った。それは通常の道徳心に従ったのではなく、彼女の良心に従った。結果的に彼女の行為はよしとされたのであって、良しとされることを見越して行動したのではないと言うことだ。私達の歩みに於いても多くの局面でこう言った判断を迫られる。道徳心や常識で思慮すれば首を傾げざるを得ない事であっても、道徳や常識を超えた精神、良神に従うことを要求される局面がある。それは道徳や常識を無視しろというのではなく、天情に徹するのだと言って世間知らずの人情を無視する冷たい人間になるのではなく、それを犠牲にしたイサク献祭のような局面で判断を迫られる、良心の声に素直に従う私となることだ。私達は今、自分の良心をはっきりと認識し、そして良心の声に従う訓練を受けている。内部に難しい問題を抱えながら、道徳的常識的に行動すれば御父様の願いからずれかねない状況で、周りの声にではなく良心の声をはっきり聞いて従う私にならなければ、この試練を生きて通過することはできない。

2011年12月5日月曜日

サタンの牙城

愛という言葉は知っているけれど、愛は知らない。自分が思っている愛を愛だと信じているけれど、それがかえって真の愛を遠ざけている。愛については語り尽くされるほどに多くのことが語られてきた。しかし殆どの場合根底に自己愛、自分を中心とした愛があって、そこは崩れることがない。そこが私の中のサタンの牙城であって、そこを崩さない限り真の愛を寄せ付けないでいる。理想家庭を絵に描いたような家庭を築いて当然で、それでこそ祝福家庭だと思っている節があるけれど、理想的な祝福家庭への道は始まったばかりで様々な試金石を踏みながら乗り越え、真の愛に根ざした祝福家庭の伝統をこれから築いていかなければならない。本物かどうかはこれから試されていくのであって、今の状態で安堵しているのであれば簡単に足をすくわれてしまうだろう。それは私の中のサタンの牙城がまだ崩されていないからだ。私達は殆ど何も知らずにいる。み言葉を通して多くを学んではいるけれど、それは知識として蓄えているだけであって、頭の中に留めたことがそのままで生きて私に働くみ言葉とはならない。或いは訓読を通して体が良くなった等と言った証しがよく聞こえてくるけれど、それは副次的なものであって体を治す為に訓読をした訳ではないだろう。み言葉という知識を備えているという満足感は自分を中心としたものであり、訓読を通して健康になったとか悩みが解決されたとかと言うのも自分を中心としたものでしかない。それで自分の中のサタンの牙城が崩れたわけではない。そんな気分になっているだけのことだ。知識に執着していればどこまでも知識への切望によって目を曇らせ、サタンの牙城を見届けることはない。健康になることに執着していればどこまでも病に振り回されて、サタンの牙城には突き当らない。悩みが解決され気分が快くなることに執着していればどこまでも不安が付きまとい、不安の暗雲こそが排すべきサタンだと思っているけれど、全ての悩みが解決されてもサタンの牙城は益々堅固になるだけだ。自己中心の愛によって岩戸に隠されていた良心(良神)を解放し、私の中の良心がはっきりと蘇生して鼓動を強くしていくのを実感する私にならなければ、サタンの牙城を崩すことはできないだろう。良心に従って生きるという御父様の言葉をすんなりと疑問もなく受け取っているけれど、従って生きるほどの強い良心を蘇生させてはいない。消え入りそうな微(かす)かな良心が見え隠れしている今の状態を正常だと思ってはならず、私の中に太い一柱の良神の柱が立たなかったら、どれほどみ言葉を訓読したとしても、どれほど体が健康で快い気分になっても、夫婦円満でも、子供が祝福をちゃんと受けても、私はサタンの牙城を崩せないでいる偽りの存在でしかない。

今日の想い 378

大したイベントも起こらず、大した感情も味わうことも無く、毎日が変わりなく流れていくとしたら、それは私という精神存在の下降を意味している。惰性的な毎日は淀んで濁り堕落的な温床となる。精神存在として一期一会である一日一日を生きるとは、復帰もし創造もする生きた証しを記念碑的に立てていく義務がある。一日を終えて床に就くとき、報告祈祷のその場で何を報告するのか。一日を与えられて報告する収穫を何かひとつでも復帰してその場に臨むべきだ。それがないなら床に就くべきではないだろう。重いマナバックを抱えて一日中一軒一軒訪問しながら、終日近くになるとひとつの実績も無く焦ってくる。外的条件的な当時の歩みを、今は内的霊的実体的に心情としての実績を追求しなければならない。外的なものが内的なものに変わるなら、焦る気持ちも実績の無い不甲斐なさも忘れ去られるのではなく、外的なもの以上に重要視する私達となる必要がある。そうでないならノルマを追求され苦労した当時の歩みが条件となってはおらず、心情を復帰していないと言うことだ。等閑(なおざり)な気持ちで感謝を述べても、感謝の言葉に値しない気持ちを感謝の言葉で包むなら、神様を侮辱していることになる。それよりはかえって隠さずに恨みの言葉を伝えたほうが正直でいい。御父様は私たちに対して正直であるように教えておられる。内的霊的なものがどれだけ重要であるかがわからない為、祈祷の重要性もわからない。祈祷のその場は神様の前にあって厳粛な場であり、私の良心に鑑みて裁かれる場であり、先祖達が集まって追求もする恐ろしい場であることを知らないでいる。

2011年12月2日金曜日

夕暮れの空

透明度の高い大気の向こうに日がしっかり沈むと、沈んだあたりを中心としてオレンジ色が地平の両端へと広がっている。その上へ向かって紺碧が滲み始め、次第に色を濃くしながら見上げる九十度の角度で漆黒に吸い込まれていく。さして遮るものもなく、少し高めの丘陵の上に立てば地平をぐるりと一周して見回せる。まだ日が落ちて間もなかった空が明るいうちは、西半分の地平がオレンジ色に染まり、西に背を向けて東半分にはワインレッドを白い布に零(こぼ)したような薄紫に染まっていた。刻一刻と移り変わる黄昏の色合いは、壮大な天空のショーを見ているようだ。絵の具はいろんな色を混ぜていく毎に黒くなっていくけれど、光はいろんな色を混ぜるにしたがって白くなっていく。昼は色んな光の色を取り込んで白昼となり、夜は色んな絵の具(色の本質)を孕んでいて漆黒となる。黄昏時は光の群れから色の本質の群れへと交替する交替式が行われ、逆に夜明け時は色の本質の群れから光の群れへと交替する交替式が行われている。光の群れは生命体を生かし輝かす天使の群れであり、色の本質の群れは精神を司る神霊の群れだ。夜や漆黒と聞けばそれとなく忌み嫌い遠ざける時代を生きてきたけれど、身体を超える内的霊的なものに目覚め霊的高みへと向かう為には、夜や漆黒の中から産み出して取り出さなければ、創造される神様の子として創造の力を相続したとは言えない。御父様は億万のサタンが跋扈する心魂世界を通過され、更にその奥である漆黒の闇の底に下っていかれながら色の本質、数理の本質を取り戻してこられた。御父様が言われるように、神様は色盲だけれども愛の色は認識される。霊界も心魂世界も地上も、真の愛が浸透し、真の愛に染まっていくことで神様が認識できる世界に変わっていく。神様が地上に生きて働かれる。黄昏の天空のショーに宵の明星がひときわ輝いている。ルーシェルが明けの明星と言われるように、闇と光の間に関わり心魂世界をかき乱して地上世界を堕落的なものとしてしまったが、人間が真の父母を通して根源である神様に帰る為に、宵の明星としての役目を担っている。

2011年12月1日木曜日

今日の想い 377

物心付いてからずっと、私は常に問い続けてきた。私の過去の記憶をどの地点に於いて引っ張り出してきても、映像としての記憶は靄に包まれたまま曖昧で、その変わりに何を問うていたかが思い出される。物言わぬ自然は、外界が何なのかを問い続ける少年の私に、口を固く閉ざして何も語ろうとはしなかった。私に取って自然は不気味な対象だった。青い空や積もる雪は私に幾らかの安らぎを与えてくれたけれども、しかしそれがどうしてなのかはわからずやはり沈黙したままだった。子の親に対する想いも人並みかそれ以上にはあったが、親子の情に安らぐ気持ち以上に、親の苦労を見ることで生きて苦労することの意味を問い続けた。死が迫るごとに苦痛は大きくなり、身体も心も病んでいく祖父を見ながら、死の意味を問い続けた。決して冷めた目をして問い続けたのではなく、全ての存在を確定できない不安と恐怖に晒され問い続けざるを得なかった。ありとあらゆる強迫観念に苛まれ、その都度思わされる意味の無い行動を強制的に課し続けた。寝る前に天井の節目を数えさせられるとか、学校の校舎で板目を踏まずに移動させられるとか、そう言った全く意味を成さない行動を可笑しいと思う自分より、その命令を行使しなかったことによる不安を恐れる自分の方が勝っていた。だからひたすら問い続けた。起きて意識がある間は問い続けることを止めることはできなかった。み言葉を聞いて直ぐに夥(おびただ)しい私の問いへの答えが差し出された訳ではないし、問い続けることを止める訳にはいかなかったけれども、神様が存在することの確信は得られた。それまでの問いは暗黒の静寂(しじま)に投げかけるだけで、問いに対する答えが返ってくることなど有り得ないと思っていた。それでも問い続けざるを得なかった。しかし神様の存在を確信した私は、問い続ける存在であることは変わらないにしても、神様に問えば必ず答えは与えられるという主体を得た明るい問う存在になった。私は今でも問い続けている。私には皆のようにみ言葉を読み進めることはできない。一行読めば多くを問う自分がいて、その自分を黙させることができずになかなか頁は進まない。生活に於いても忙しく身体を動かさない限りは常に何かを問うていて、気になるみ言葉を何度も何度も反芻しながら答えが届くのを期待している。人前で話すことも極めて苦手で、話している途中であっても問う自分が黙っておらず、話が途切れて話の腰を折ってしまう。私と言う人格の中に幾つかの存在がいることが分かってきて、問う自分も自分の大きな範囲を占めるひとつだけれども、内面に於いてそれらの存在と存在がぶつかり合っている。それはみ言葉を聞いた後でもしばらく続いた。その期間を経ながら徐々にではあるけれども、神様が統一的な神様になって人間を創造されたように、内面に於いて存在がぶつかるのではなくひとつになろうとしているのを感じる。統一的な私という存在が遠からず訪れるのを感じている。ひとつになった私に不安や恐れを生じさせる暗黒の部分はない。