2011年12月5日月曜日

サタンの牙城

愛という言葉は知っているけれど、愛は知らない。自分が思っている愛を愛だと信じているけれど、それがかえって真の愛を遠ざけている。愛については語り尽くされるほどに多くのことが語られてきた。しかし殆どの場合根底に自己愛、自分を中心とした愛があって、そこは崩れることがない。そこが私の中のサタンの牙城であって、そこを崩さない限り真の愛を寄せ付けないでいる。理想家庭を絵に描いたような家庭を築いて当然で、それでこそ祝福家庭だと思っている節があるけれど、理想的な祝福家庭への道は始まったばかりで様々な試金石を踏みながら乗り越え、真の愛に根ざした祝福家庭の伝統をこれから築いていかなければならない。本物かどうかはこれから試されていくのであって、今の状態で安堵しているのであれば簡単に足をすくわれてしまうだろう。それは私の中のサタンの牙城がまだ崩されていないからだ。私達は殆ど何も知らずにいる。み言葉を通して多くを学んではいるけれど、それは知識として蓄えているだけであって、頭の中に留めたことがそのままで生きて私に働くみ言葉とはならない。或いは訓読を通して体が良くなった等と言った証しがよく聞こえてくるけれど、それは副次的なものであって体を治す為に訓読をした訳ではないだろう。み言葉という知識を備えているという満足感は自分を中心としたものであり、訓読を通して健康になったとか悩みが解決されたとかと言うのも自分を中心としたものでしかない。それで自分の中のサタンの牙城が崩れたわけではない。そんな気分になっているだけのことだ。知識に執着していればどこまでも知識への切望によって目を曇らせ、サタンの牙城を見届けることはない。健康になることに執着していればどこまでも病に振り回されて、サタンの牙城には突き当らない。悩みが解決され気分が快くなることに執着していればどこまでも不安が付きまとい、不安の暗雲こそが排すべきサタンだと思っているけれど、全ての悩みが解決されてもサタンの牙城は益々堅固になるだけだ。自己中心の愛によって岩戸に隠されていた良心(良神)を解放し、私の中の良心がはっきりと蘇生して鼓動を強くしていくのを実感する私にならなければ、サタンの牙城を崩すことはできないだろう。良心に従って生きるという御父様の言葉をすんなりと疑問もなく受け取っているけれど、従って生きるほどの強い良心を蘇生させてはいない。消え入りそうな微(かす)かな良心が見え隠れしている今の状態を正常だと思ってはならず、私の中に太い一柱の良神の柱が立たなかったら、どれほどみ言葉を訓読したとしても、どれほど体が健康で快い気分になっても、夫婦円満でも、子供が祝福をちゃんと受けても、私はサタンの牙城を崩せないでいる偽りの存在でしかない。

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