2011年12月1日木曜日

今日の想い 377

物心付いてからずっと、私は常に問い続けてきた。私の過去の記憶をどの地点に於いて引っ張り出してきても、映像としての記憶は靄に包まれたまま曖昧で、その変わりに何を問うていたかが思い出される。物言わぬ自然は、外界が何なのかを問い続ける少年の私に、口を固く閉ざして何も語ろうとはしなかった。私に取って自然は不気味な対象だった。青い空や積もる雪は私に幾らかの安らぎを与えてくれたけれども、しかしそれがどうしてなのかはわからずやはり沈黙したままだった。子の親に対する想いも人並みかそれ以上にはあったが、親子の情に安らぐ気持ち以上に、親の苦労を見ることで生きて苦労することの意味を問い続けた。死が迫るごとに苦痛は大きくなり、身体も心も病んでいく祖父を見ながら、死の意味を問い続けた。決して冷めた目をして問い続けたのではなく、全ての存在を確定できない不安と恐怖に晒され問い続けざるを得なかった。ありとあらゆる強迫観念に苛まれ、その都度思わされる意味の無い行動を強制的に課し続けた。寝る前に天井の節目を数えさせられるとか、学校の校舎で板目を踏まずに移動させられるとか、そう言った全く意味を成さない行動を可笑しいと思う自分より、その命令を行使しなかったことによる不安を恐れる自分の方が勝っていた。だからひたすら問い続けた。起きて意識がある間は問い続けることを止めることはできなかった。み言葉を聞いて直ぐに夥(おびただ)しい私の問いへの答えが差し出された訳ではないし、問い続けることを止める訳にはいかなかったけれども、神様が存在することの確信は得られた。それまでの問いは暗黒の静寂(しじま)に投げかけるだけで、問いに対する答えが返ってくることなど有り得ないと思っていた。それでも問い続けざるを得なかった。しかし神様の存在を確信した私は、問い続ける存在であることは変わらないにしても、神様に問えば必ず答えは与えられるという主体を得た明るい問う存在になった。私は今でも問い続けている。私には皆のようにみ言葉を読み進めることはできない。一行読めば多くを問う自分がいて、その自分を黙させることができずになかなか頁は進まない。生活に於いても忙しく身体を動かさない限りは常に何かを問うていて、気になるみ言葉を何度も何度も反芻しながら答えが届くのを期待している。人前で話すことも極めて苦手で、話している途中であっても問う自分が黙っておらず、話が途切れて話の腰を折ってしまう。私と言う人格の中に幾つかの存在がいることが分かってきて、問う自分も自分の大きな範囲を占めるひとつだけれども、内面に於いてそれらの存在と存在がぶつかり合っている。それはみ言葉を聞いた後でもしばらく続いた。その期間を経ながら徐々にではあるけれども、神様が統一的な神様になって人間を創造されたように、内面に於いて存在がぶつかるのではなくひとつになろうとしているのを感じる。統一的な私という存在が遠からず訪れるのを感じている。ひとつになった私に不安や恐れを生じさせる暗黒の部分はない。

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