2011年12月19日月曜日
愛勝日を考える
興進様が大変だった時、御父様は涙を一滴も流されなかった。その意味を私達は本当に理解しているだろうか。ただひたすら悲しみに耐えられたと言うような、そんな私達の愛への狭い理解によってしか想像できない事柄とは次元が異なる。そこには壮大な天宙という環境圏で、愛の主体に立たれたという歴史的天宙的な出来事として為され、サタンの裏を完全にかいて為された神側の大勝利だった。人は病気になって喜ぶ人はいない。家族のひとりを失って平然としていられる人もいない。それなりの健康を維持しているということは体に於けるプラスマイナスが平衡を保っていると言え、その平衡を欠いた時病気になる。家族のひとりを失うということは、「家庭の平安」というプラスマイナスの平衡していた存在が、プラスであれマイナスであれ大きく欠けてしまって平衡を失い家庭的不具となってしまい、保護すべき宇宙力が逆に宇宙から押し出そうとして働く為に心が裂けるほどの痛みを感じる。最も期待を受けておられた御子女様を失うということは、真の家庭にとって大きく平衡を失う最大の事件だった。神側にとって愛と理想の希望体を失えば、宇宙力が強烈に追い出そうとして働くことを知っているサタンは、神側を大きく後退させる、あわよくば救いの摂理自体を崩壊させるサタン側の勝利を確信していた。しかし御父様は愛を、サタンが愛として理解できる範疇を超えた愛でもって主管され昇華されるという、サタンの手の届かない愛の環境圏にサタンを引き摺りだされた。興進様を失う多大なマイナス状況を、私達が霊界の勝利者となり人類が救われる次元に引き上げられて、天宙的なプラス状況をひきつけられた。私達にとって、私達が活動できる天宙的愛の基盤を創造されたと言ってもいいかも知れない。不遜な地上の見方からすれば、愛する子女の肉体をサタンに売ってサタンの愛する人類を買ったとも言える。その歴史的奇跡とも言える天宙的勝利の出来事が、涙を一滴も流されない御父様の体を中心として起こった。目の前の子女を失う悲しみより、私達を愛し、私達を霊界の勝利者とされる喜びを心魂に満たされる御父様と、そして愛されない悲しみより父の想いをそのまま受け取って逝かれる興進様。人類の救いに対する完全犠牲が父子一体の位置で為された。愛勝日として立てられたその勝利の意味を、統一食口であれば少しでも深く理解して、理解すればするほどに涙を禁じ得ないし、感謝に堪えない私を見るだろう。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿