2011年12月11日日曜日

マルコ伝十四章の教え

マルコ伝14章にあるベタニヤの女の話のすぐ後に続いているのが、ユダの裏切りの話だ。実はこれは意図的に隣り合わせて表記することで、読む者に教えようとしている深い事柄がある。どちらの話も金銭を関わらすことでその対比がなされている。一方のベタニヤの女の話は、貧乏人への施しを犠牲にして、三百デナリ以上の価値の香油を地上的な価値のない行動に費やす話であり、それに続く今一方のユダの裏切りの話は、地上的な価値を超えた内的霊的価値であるイエスキリストを、銀三十枚で売って地上的な価値に交換するユダの裏切りの話だ。地上的な価値を天に積むことのできる宝に昇華させた話と、天的な価値を地上の消え失せる価値に引き摺り下ろした話だと言い換えることもできる。私達は真の父母の価値が地上的な価値では量れないことをよく知っている。それでは御父様が願われるみ旨の価値はどうだろうか。み旨の価値もそこに御父様の願いがあり意志がある以上、その価値も同じように地上的な価値では量れない。今まで果たせなかったみ旨に費やしたお金の総額を貧しい国に施していたら、相当な社会的貢献が為されたはずだ、、と言うようなもの言いをする者がいる。要するに献金は世間が認めて見えもするまともな地上的な価値に用いられるべきだと言っている。内的霊的なことに対しても用いられるべきだけれども程度の問題だと言っている部類も同類だ。それはベタニヤの女を非難した周りの人々と同じであり、更にユダの裏切りへと話が続くように、非難した者の延長線上にユダと同じ裏切りが潜んで待ち構えている。一度非難を始めると非難の拍車に油が注がれる。そしていつの間にか銀貨三十枚で売った裏切りに手を伸ばせば届き、そして手を染めていく。そして手を染めてしまって良心の呵責を痛いほどに覚え、その時初めてサタンに巧妙に操られていた自分だったと目が覚める。ユダは目が覚めた。目が覚めて仕出かした事の重大さに、良心の叫びに耐えられなかった。耐えられなくて最後の行動を起こした。

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