2011年12月12日月曜日
タイタニック号の話を思い出す
子供の頃タイタニック号の話を読んだことがあって、何故か急に記憶の底から浮かび上がり、その時の情景が蘇った。小学館の雑誌だと思うが、濃紺のインクで挿絵やルビの付いた文章を、ザラバン紙をめくりながら読み進めた。当時、雑誌を買ってもらったのは正月に限られていたから、暮れに買ってもらった雑誌を見ないように取っておいて、正月にわくわくしながら彩(いろどり)溢れる頁をめくったものだ。タイタニック号の話は色刷りではなかったからさして子供の興味を引くものではなく、見るところがなくなって最後に目を通した個所だったとは思うが、読後の印象が特に強かったのを覚えている。乗客が少しでも安らいで落ち着けるように、最後まで沈んでいく船で演奏し続けた船の楽団員達の様子や、避難することなど思いもせず、笑みさえも浮かべて船と共に沈んでいった船長を始めとする乗組員達の様子。その姿を美しいと思えるのではなく、犠牲になろうとする不可解さが子供には怖かった。どうしてそんな心境になれるのかという強烈な疑問だった。今その話をひも解いてみると、彼らの心境はよくわかる。沈んでいく船の上では乗客よりは乗組員の方が圧倒的に幸福だったはずだ。仕事とは言っても船の上では公的な立場である彼らは、自分の心配をする前に乗客を心配するよう自然と仕向けられていた。誇りすら感じていた彼らは、死の間際で為に生きる自分を生き、人間本来の為に生きる喜びを味わったはずだ。公的な位置にいるという認識が彼らの意識を高めて、乗客達の死を恐れて逃げ惑う意識とは真反対だった。兄弟達に於いても、自分は公的な存在だという認識がどれほど強いかによって、試練が訪れたとき、意識も違い、立ち位置も違い、試練や犠牲や死に対面するときの感情も異なるのだろう。傍目から見れば信じた者の愚かさとしか映らない我々の姿であっても、誇りや感謝や歓びや、もろもろの愛の心情に溢れて、私という存在を生きることを腹いっぱい味わっている。
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