2011年12月17日土曜日

今日の想い 380

使徒達が、捕らえられていくイエス様の元を去っていったように、生きたイエス様と共にある時には彼らは本当のキリスト認識をイエス様に対して持ってはいなかった。しかし復活されたイエス様に会うことで初めて、彼らの中にキリスト認識が目覚めさせられた。その明らかな使徒達の内的霊的違いを、新約聖書の中に見ることができるし、生きたイエス様に従っているうちに使徒達がキリスト認識に至ったならば、十字架の摂理は避けることができたとも思え、一方で十字架の摂理を通してこそ使徒達にキリスト認識がもたらされたとも思える。最終的に十字架という大きな代償を払うことで、復活のイエス様を通してキリスト認識がもたらされたと言うことだ。キリスト論で言うところの三位一体、神と霊的イエスと聖霊が合成一体となって使徒達に霊的重生がもたらされたが、そこにはキリスト認識をステージとして聖霊の働きが為され、使徒達の重生がもたらされるのであって、キリスト認識に目覚めなければ重生のステージは用意されない。使徒たちが生きたイエス様に触れている間は、人間イエス様としての認識から離れられないものが霊的かぎ針のようにひっかけられた形で残っていた。それは洗礼ヨハネの不信から来るものであり、また洗礼ヨハネの不信がなければ弟子として下層の使徒達が集められることもなかったはずだ。だから既に下層の使徒達を集められた時点で、十字架の摂理に加担せざるを得ない部分も使徒達の中に組み入れられていた。ペテロヤコブヨハネを連れてゲッセマネで祈られた時は、人間イエスの彼らの認識を外して神の子キリストとしての認識に目覚めさせ、一体となることで最後の本丸を護らせようとされたが、彼らは眠りに墜ちたまま、即ちキリスト認識に目覚めないまま十字架の摂理に組み入れられた使徒達のプロセス通りを踏んでいった。そうして一体圏が為されずに用意された裏切り者が近付いてきた。神側の最後の砦ともいえる神とサタンとの間の熾烈な攻防を、ゲッセマネのイエス様と三弟子との一幕に見ることができる。その神とサタンの攻防戦が私の内的路程にも再現されていることがわからなければ、私のキリスト認識、即ち御父母様に対する真の父母認識は人間的なものから離れることはない。一時はイエス様の問いに対して弟子の一人がイエス様を神の子であるとはっきり証ししたにも拘らず、それは言葉だけで本当のキリスト認識には至っていなかった。兄弟達も御父母様に対して真の父母であると言う認識を持っている自負があるはずだ。しかしそれが生命を超えるほどの、御父様が認知する確かな認識かという問いは常に自分の中で繰り返されなければならない。そしてその認識を、私の人生というステージを用意されて演じている。誰が用意せずとも歴史の結実体としての私が、堕落から、神の子への否定から、神の子への裏切りから、さらに十字架へ追いやった全てを私の内なる中に抱えて、その上で御父様をどう認識するかという御父様への結論を演じている。

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