2011年12月25日日曜日

霊的戦い

私の基本の戦いは、不信との戦いであり、思い込みとの戦いであり、まだ見えぬものを見ようとする戦い、認識できないものを認識しようとする戦いだ。内的霊的無知に陥った人間は内的霊的知への飽くなき追求が無ければ、内的霊的知への強い憧れが無ければ、それを獲得することはできない。私は御父様が今までの生涯を通して語られたその膨大なみ言葉を、ただ自然に流れるままに、当然のように、天の啓示として受け取られたものだとは思わない。勿論その素質は備えておられたとしても、それでも今日までの歴史上誰も現せなかった真理のみ言葉として、そのひとつひとつを勝ち取られた歩みは戦い以外の何ものでもなく、勝ち取られたという表現がまさに言い得ている。私たちは余りにも容易にみ言葉に出会ってしまった。原理のみ言葉が正しいか正しくないかというような上からの目線で対してきたが、当時の劉協会長が感激の涙を流され続けながら原理講論を執筆されたように、それほどの重みを魂に覚えて激しく振動するほどの出会いを私達は為すべきだった。ヤコブがエソウを屈服できたのは、腿のツガイを砕かれてまでも天使との相撲に勝利して、霊界の協助を得た為に屈服できたのであり、私達はどんな形であっても霊的存在からの試練に勝利しなければ霊界の協助を得ることは出来ないし、私に誰ひとり屈服しない。御父様が真理を見出される過程で、億万のサタンと言う霊的存在との戦いに勝利され、更に実体で勝利されたがゆえに、み言葉が全くの条件の無い私達に手渡され、御父様の勝利圏を相続させようとされておられる。しかし受け取る私達は、御父様の試練の何万分の一であっても霊的試練を乗り越える必要がある。私達は、私と言う戦場で霊的な戦いをしているその只中にあるということを片時も忘れてはならない。霊的な観点から見れば、見るも無残な敗戦の毎日の屍が、私の背後に累々と横たわっている。感覚世界に重心を置けば見る観点をぼやかされ、霊的な眠りについたままでいて何ら変わらない毎日が続いているように思えるけれど、私と言う戦場で熾烈な戦いの日々であり、身体を横たえた眠りの場で戦勝報告や敗戦のツケが勘定されている。訓読生活に重点を置いて歩んでいる兄弟であるなら、み言葉が光となり私を中心として生起する内外の事柄をみ言葉で照らして、戦うべき戦況をしっかり把握主管し、無意識のうちにスルーして屍を積み重ねないことだ。これが私の天使との戦い(霊的戦い)だと自覚させられるものが自分に無いなら、それは未だ霊的に眠ったままの私でいると思った方がいい。

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