2011年12月23日金曜日

愛の呼吸

幾重にも幾重にも階層を経ながら霊的な高みを目指し、その遥か高みに天の御父様がおられる。そう納得しているのは僅かの人間のみで、とりわけ多くの日本人は感覚世界の、それも極めて限られた部分の存在領域しか認識していない。人は認識する領域以外では生きることはできない。地上という最下層の世界は、見上げればすぐにも、厚く黒い雲のように地上を覆っている霊界との障壁があって、地上人間は雲の向こうに広がる広大で深遠な霊界を感知できないどころか、その存在すら認めようとはしない。認識できなければその領域に投げ出されても呼吸できない。人は必ず死ぬ。死んで霊界に投げ出される。投げ出されても呼吸ができない為にその広大で深遠な霊的生活を味わい楽しむことはできない。呼吸はできないが、かといって肉体を持たない為に地上へ逃げ出すこともできず、地上的な呼吸に最も近い呼吸の辛うじて通ずる幽界にへばり付くことになる。霊界で霊的生活に必要な最低限の呼吸を会得するまで、どれ程の歳月を要することか。さらに皮膚を隔てた私の外部だと当然のように思っていて、汚すだけ汚し痛めるだけ痛めて自分勝手好き放題に扱ってきた外側が全て私自信になり、霊界では逆に私自身を汚すだけ汚され、痛めるだけ痛められている。霊界は内側が外になり、外が内側になる。万物を愛し人を愛し、与えて為に生きる喜びを覚えながら、実は愛の呼吸を学んでいる。愛として吐き出せば新鮮な愛として吸うものがある。深呼吸のように息をしっかり吐き出せば新鮮な空気をしっかり吸えるように、与えることに躊躇を覚えず愛の限りを尽くせば、神様の新鮮な愛が溢れるほどに満たされるのは宇宙の道理だ。地上で生きる為の呼吸は一通りだけれど、霊界で生活する愛の呼吸は一通りではない。天国といえる霊界の高みでの呼吸は、国を愛し世界を愛し神様を愛する愛の呼吸を学ばなければ、霊界で御父様の御側で侍っても息苦しいだけだろう。霊界にははっきりとした位階がある。その位階は愛の位階であって、私が何の為に生きたかでその位階は決まる。何をされたとしても、どんな扱いを受けたとしても御父様を慕い侍って行こうとする私達統一食口は、御父様が愛の勝利者であり愛の完成者であることを信じて疑わない。御父様の高みである天国、本郷の地は、まさしく霊的乳と蜜が流れ愛が充満している世界だ。御父様の存在の全てから、その愛の一息でも呼吸しようとし、真の愛の蜜の味の僅かでも鼻腔に味わうために愛の触手をひたすら伸ばそうとしている。

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